30-1:交渉

「いつまで、そうして隠れているつもりだ?」


 アスタロトが出て行った執務室の扉に体を向けたまま、ベルゼブブは誰に言うともなく声を出す。

 紅褐色こうかっしょくでショートボブのアガリアレプトは、不思議そうに彼を見た。だが短く息を吸い込むと、帯剣していた剣を素早く抜き、鋭い目つきで室内を見回す。


 しんと静まり返った室内に、ベルゼブブの声が再び響いた。


「早く出てきたほうが、身のためだとは思うのだが?」



 張り詰めた空気に包まれた執務室には、扉と対面するように大きな窓がある。それを背に、部屋と同じ色調の黒の書斎机が置かれていた。


 ベルゼブブは、書斎机と扉の間にあるガランとした空間に立っている。

 アガリアレプトは剣を構えたまま、ベルゼブブをチラリと見た。そのとき、壁に備え付けられている黒茶色の書棚が、ギギギィと鈍い音を立てて動き出す。


「!」


 アガリアレプトは書棚をにらみつけ、いつでも飛び込めるように体勢を低くした。

 ベルゼブブは冷ややかに書棚を見つめる。


「やぁ……参ったなぁ……」


 隠し扉となっていた書棚の奥から姿を現したのは、両手を上げた男の姿のサキュバスだった。

 剣を構えていたアガリアレプトが驚きの声を上げる。


「インキュバス!? おまえ、ここで何をしているの?」


 アガリアレプトからインキュバスと呼ばれたサキュバスは、まるでいたずらが見つかったかのように気まずい表情をした。


「えぇっとぉ……ルシファーがどうなったのか知りたくて、アガリアレプトを探していたんだよね。で、レプちゃん見つけたーと思ったら、大広間で難しい会議が始まっちゃって。それが終わってからにしようと思ってこの部屋で暇をつぶしていたらさー、なんか隠し扉を見つけちゃうし。そうしたら、君たちが突然この部屋へ入ってくるんだもん。思わず隠れちゃって……。そこへアスタロもぶち切れて入ってきたでしょ? そんなところに出ていくなんて、僕、怖くてできないしぃ」


「はぁ?」


 アガリアレプトはあきれ顔でサキュバスを見る。そして、警戒心を解くように剣先を下におろした。


「あっはっはっは」


 突然、太い笑い声が部屋中に響き渡る。

 アガリアレプトは体をビクつかせ、声の主であるベルゼブブを見た。


「ベルゼブブ様?」


 豪快に笑うベルゼブブはすぐさま真顔に戻り、今度は冷淡なまなざしをサキュバスにぶつける。


「見苦しい言い訳はやめろ。目的はなんだ? ルシファー付きとはいえ、返答次第ではその身はただではすまぬぞ?」


「……」


 サキュバスは体をわずかに後ろへと引いた。

 ベルゼブブの言葉で、アガリアレプトは再び剣を構えなおす。


「インキュバス、そこから離れなさい」


「えぇっと……」


 困った顔をしながらも、サキュバスは隠し扉の書棚から一向に動かない。


「離れろ!!」


 そう怒鳴ったアガリアレプトは、サキュバスの体を横に押しのけ、隠し扉である書棚をめいっぱいに開いた。


 サキュバスの体で見えなかった扉の先には、下へ続く階段がある。

 階段下の暗がりをのぞき込んでから、アガリアレプトはサキュバスを睨みつけた。


「おまえ、誰かをここへ連れて来たの!?」


「いやぁ……」


 サキュバスは引きつった笑顔で首をかしげる。

 らちが明かない返事ばかりをする彼に、アガリアレプトはあからさまに苛立った。


「もうっ一体何なのよ!! ベルゼブブ様、侵入者がいないか、直ちに宮殿内を捜索いたします!」


 声を荒立てたアガリアレプトは、急いで執務室から出ようとする。

 しかし、ベルゼブブがすぐさまそれを止めた。


「待て。その必要はない」


「?」


 アガリアレプトはいぶかしい表情でベルゼブブを見る。

 ベルゼブブは彼女のほうを見なかった。書棚の前にいるサキュバスから、執務室の奥に置かれた書斎机へと体を捻る。

 地獄ゲヘナ特有の赤銅色の光が、机の後ろにある窓ガラスから降り注いでいた。

 そこへ向かってベルゼブブが言う。


「出てこぬのならば、今ここで、この夢魔の核を砕く」


 漆黒の飛膜の翼を広げたベルゼブブは、サキュバスのほうへ右手をかざした。


 キュイィィィン


 耳障りな高音が室内に響く。

 ベルゼブブの手のひらの前に、黒と紫のまだらに光る球体が形作られた。小さな魔力の塊だが、サキュバスの体を貫くには十分な威力を感じる。


「ちょ……ちょっと、本気ぃ?」


 サキュバスは顔を強張らせ、下ろしていた両手を再び上げる。


「本気かどうか、その身をもって知ればいい」


「うわぁ……本気……なんだぁ……」


 能面の表情を見せるベルゼブブから、サキュバスは顔を背けた。


 

 俺は小さく深呼吸をすると、窓の脇にある濃紺のカーテンの束からおもむろに前へと歩み出る。これ以上、サキュバスを危険にさらすわけにはいかなかった。


「何者だ! 顔を見せろ!!」


 ベルゼブブを守るように素早く彼の前へ出たアガリアレプトが、暗黒色のローブを頭からすっぽりと被った俺に怒鳴る。

 俺は彼らに自分の顔が見えるよう、暗黒色のフードをゆっくりと後ろへずらした。

 それを見たベルゼブブが、サキュバスに右手をかざしたまま冷笑する。


「これはこれは……天界ヘブンのプリンス自らがお出ましとは」


 ベルゼブブの言葉に、剣を構えたままのアガリアレプトが目を見開いた。


「熾天使ミカエル!? こいつが?」


 次の瞬間、俺のそばにある黒大理石の柱の影から、カマエルがするりと姿を現す。そして、こちらに向けられる視線を遮るように、俺の半身前へと立った。

 突然の動きに、アガリアレプトは剣先をカマエルに向け、再び臨戦態勢となる。

 暗黒色のローブに覆われたカマエルの顔を確かめるように、ベルゼブブはわずかに眉間にしわを寄せた。


「能天使の長、カマエル……か」


「汚らわしい悪魔が、わが名を軽々しく口にするな……」


 カマエルが低くうなる。

 俺からはカマエルの表情は見えなかった。だが、彼の怒りはひしひしと伝わってくる。



 ルシフェルが謀反を起こした『あの時』、能天使たちは大きく二つに分かれていた。

 一つはルシフェルが率いた賊軍に就いた者、もう一つは天使軍として賊軍と対峙たいじした者。

 常に最前線で悪魔と戦っていた能天使たちは、兄弟であり、ともに戦った仲間同士での殺し合いを強いられていた。


 ルシフェルの謀反は失敗に終わったが、天使たちの心に大きな傷跡を残す。最もひどかったのが、前線で戦い抜いた能天使だった。

 原因は、ルシフェルが率いた賊軍の大半が能天使で構成されていたことにある。

 そのせいで、天使軍としてつらい戦いを強いられたにもかかわらず、天界ヘブンの能天使たちは『信用ならない裏切り者』という扱いを他階級から受けてしまう。


 そんな冷遇を救ったのは、四大天使の一人『懺悔ざんげの天使』ともいわれる熾天使ウリエルだった。

 天界ヘブンの秩序を維持する任務を追うウリエルが、能天使たちを自分の管轄下に置くと名乗りを上げたのだ。

 こうして能天使たちは、厳格なウリエルのもとで黙々と己の任務を遂行する。そして気の遠くなるような長い歳月をかけ、他階級の天使たちからの信頼を取り戻した。

 この出来事により、長であるカマエルを筆頭に、能天使たちはウリエルを神と同等であるかのように扱い、献身的に尽くしている。それ同時に、地獄ゲヘナに対する、特に堕天使に対し凄まじい増悪を持っていた。



 ベルゼブブは、カマエルの胸の内を見透かすようにニヤリと笑う。


「『あの時』は、おまえの部下たちに随分と世話になったな」


「貴様っっ!!」


「カマエルっ!!」


 剣を引き抜こうとするカマエルを、俺は一喝した。

 カマエルはビクリと体を強張らせ、途中まで引き抜いた剣をその場で停止させる。

 俺はカマエルの肩に手を置き、彼の横に並んだ。


「安い挑発に乗るな」


「……」


 カマエルはチラリと俺を見てから、苦々しく剣を納める。


 魔力を込めたベルゼブブの右手は、相変わらずサキュバスを捉えていた。不気味な笑みを浮かべた彼は首を傾げる。


「して、天界ヘブンのプリンスが、地獄ゲヘナへ何の御用でしょう?」

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