29-1:外廷部

 地獄ゲヘナは、ルシファーを筆頭にベルゼブブ、アスタロトが悪魔の頂点に君臨している。

 その下には、ルシファーの息子マモンのように、人間界に直接影響を及ぼす『七つの罪源』または『七大君主』と呼ばれる悪魔たちが外政を担っていた。そして地獄ゲヘナの内政を担うのは『七十二柱』と呼ばれる悪魔たちだった。


 七十二柱には、王、君主、公爵、侯爵、伯爵、騎士、総裁という爵位が存在する。しかし、この爵位がそのまま七十二柱の序列となるわけではなく、内政における貢献度で順位が決まっていた。



 地獄ゲヘナ第三層にあるクリンタ宮殿は、中央棟から北が政治を行う外廷部、南がルシファーの居住区となる内廷部となっている。

 外廷部の二階には大広間があり、黒みを帯びた赤茶色のテーブルが、壇上の玉座を見上げるように左右に分かれて並べられていた。

 そこに着席できる悪魔は七十二柱の上位三十三柱で、彼らは三支配者に意見できるほどに強い発言権を持つ。残りの三十四位以下の悪魔は、広間後方に置かれた椅子に座り、傍聴人程度の扱いだった。


 壇上の玉座につながる階段の途中に、大広間の入口をにらみつけながら、灰色の大蛇を椅子代わりに座っている悪魔がいた。


 地獄ゲヘナの公爵アスタロト──元座天使であり、過去と未来の秘密の番人と言われている。ベルゼブブの次に実力があり、七十二柱の一柱であるにもかかわらず、内政にはまったく関心がないため、序列は二十九位となっている。

 ルシファーに負けず劣らずの美貌を持つが、その赤く染まった口からは猛毒を吐き出す悪魔だった。



 白の長い髪を人差し指でクルクルともてあそびながらも、アスタロトは不機嫌さを前面に押し出していた。

 大広間へと入ってくる悪魔たちは、アスタロトのピリピリとした空気を察し、そそくさと自分の席へと座る。機嫌を取ろうと不用意に近づいて、彼女の猛毒で滅んだ悪魔を数えきれないほど見ているからだ。

 そんなアスタロトの不機嫌さをものともせずに、カツカツカツと石突で床をたたくような音を立て、彼女の前にやってきた悪魔がいた。


「ご機嫌はいかがでございましょうか。アスタロト様」


 しわがれ声のその悪魔を、アスタロトはぎょろりと見る。


「よいように見えるか? バアル」


「いいえ、まったく見えませんな」


 バアルと呼ばれた悪魔は、ヒッヒッヒと引きつるような声で笑った。


 七十二柱の序列一位である王バアル。彼は、金の王冠を被った老人の顔とその左右に猫とひきガエルの頭があり、胴体は蜘蛛クモという異様な容姿をしている。

 高い知識を持ち、策略にも精通しているが、彼は決して表には立たない。しかし、七十二柱の悪魔たちを巧みに制御し操るという侮れない悪魔だった。


 バアルは不機嫌なアスタロトを意に返す様子もなく、首をかしげて尋ねる。


「ところで、本日はマモン様が七十二柱を招集したとのことでございますが、アスタロト様のお耳に何か入っておられますかな?」


 深いしわが刻まれたバアルの顔を、アスタロトは露骨に睨みつけた。


「わらわにマモンのことを聞くのか?」


 今のアスタロトにとって、マモンは怨恨えんこんの対象でしかない。

 この世界で最も敬愛する主ルシファーを、サタンの居城へと追いやったマモン。

 あの黒い羽毛に隠れた首をへし折りたいと、アスタロトは何度も思った。だがそのたびに、今マモンを仕留めたところでこの状況は変わらない。むしろそれを口実に、主の座を狙う輩が次々と湧き出るだけだ、と己に言い聞かせていた。

 ルシファーとともに築き上げた、悪魔が住まう都パンデモニウム。ここは嫉妬と陰謀が渦巻く巣窟なのだ。



 アスタロトが向かい合うバアルを睨んでいると、玉座のある壇上からコツコツコツコツと複数の靴音が聞こえてきた。それとともに場内が騒めく。

 バアルもそちらをチラリと見てから、アスタロトにうやうやしく頭を下げた。


「これは大変ご無礼をいたしました。お許しくださいませ」


 そう言ったバアルは、壇上へと足早に向かう。アスタロトは彼の行く先を目で追った。

 バアルが辿たどり着いた先には、ルシファー付きの従者アガリアレプトと、地獄ゲヘナの支配者の一人ベルゼブブが、壇上から広間を見回すように立っていた。


 はえの王ベルゼブブ――元熾天使であり、七つの罪源の一つ暴食をつかさどる。ルシファーに次ぐ実力を持つとされているが、実際はサタンをもしのぐとうわさされていた。

 天界ヘブンにいた頃から変わらず、ベルゼブブは常にルシファーの右腕だ。そのため、ルシファーが不在になると、いつも彼が地獄ゲヘナの統治を任されている。



 青みを帯びた黒の長髪を背中のあたりまでスルリと下ろし、黒のローブを肩に羽織ったベルゼブブがチラリとこちらを見た。その瞬間を逃さず、アスタロトは彼に非難の視線をぶつける。


 天界ヘブンにいたときから今も、アスタロトはベルゼブブを信頼してはいない。

 アスタロト自身にもいえることだが、ベルゼブブは目的を果たすためには、どんな手段をも使い、簡単に裏切るからだ。

 だが唯一、信頼する共通点がある。それは、主ルシファーのこと。

 アスタロトもベルゼブブも、彼女のためならばどんな犠牲も、たとえわが身が引き裂かれようとも構わなかった。

 それだけに、マモンの告発によりルシファーの身がサタンの居城へ移されるのを、ベルゼブブが黙って静観したことにアスタロトはひどく驚いた。


 ベルゼブブは目を細めてアスタロトを見るが、ご機嫌伺にやってきたバアルへとすぐに視線が移動する。

 アスタロトはウンザリしながら、再び大広間を睨みつけた。


 地獄ゲヘナは荒涼とした赤黒い大地が広がるだけで、天界ヘブンのように愛でる草花も心震わせる美しい景色もない。ここは、自分がいるべき本来の場所ではないとアスタロトは常々思っていた。


 天界ヘブンでの『あの時』、ルシファーは新たな神となるはずだった。

 今も昔も天界ヘブンは狂っている。ヒトなどという低俗な生き物を創り出した神を崇め、それに何ら疑問を抱いてはいないのだ。ルシファーはその狂いを正すために立ち上がったというのに、なぜそれが分からないのか。

 天界ヘブンからの追放は不当なものだと、アスタロトは信じて疑わなかった。われらこそが、天界ヘブンにあるべき存在なのだと。



 とぐろを巻く大蛇に座りながら、アスタロトはその灰色の背をでた。この憂さをどう晴らそうかと考える。


 そうだ……少し前に人間界にばらまいた『薬』の効果を見に行こう。

 一度使えば最後、脳に刻み込まれるその官能に酔いしれ、やがては理性を失い、生けるしかばねとなる。怠惰と快楽に溺れる魔法の薬。

 その薬に翻弄ほんろうされ、もだえ苦しむヒトの姿を想像したアスタロトの口角がゆがむ。


 そのとき、黒の大理石でできた大広間に声が響いた。


「まもなく、マモン様がおいでになられます」


 その声に反応した悪魔たちが一斉に立ち上がり、玉座がある壇上に注目する。

 カツカツカツと靴音を響かせ、複数の従者を従えたマモンが入室してきた。そして、足首までありそうな深紫のローブをひるがえしながら、当然のように玉座の前に立つ。


 そこはおまえの席ではないのにと、怒鳴りそうになるのをアスタロトは何とか止めた。

 ベルゼブブやほかの悪魔たちは皆、マモンに向かって一礼をする。アスタロトは立ち上がりもせず、顔をしかめるだけだった。


 大広間を見回すマモンは、満足したように玉座へと腰掛ける。それを合図に、悪魔たちも一斉に着席をした。

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