17-1:夢の隙間

「……み……く……くん」


 遠くのほうから声が聞こえてくる。だが、俺の思考は鈍く、声の主が誰で、何を言っているのか認識できない。

 酷い眠気で瞼が重く、俺はなかなか目が開けられなかった。そうしているうちに、俺の意識は誰かの声を置き去りにして、夢の彼方へ深く堕ちて行きそうになる……。



「ミー君ってばっ!!」


 突如はっきりと聞こえてきたその女の声に、俺の意識は一気に覚醒した。

 目を開けると、見慣れた天井の景色に、スルリと長い亜麻色の髪と妖艶な女の顔が飛び込んできた。


「うわぁぁぁぁっ」


 驚きのあまり、俺は大声で叫ぶ。

 俺に覆いかぶさっていた女は、その叫び声に驚き、両耳を塞ぎながら体を起こした。


「ひどぉい! やぁぁぁっとミー君の夢に入れたのにぃ」


 俺は上半身を少しだけ起こし、俺に向かって抗議する女の顔を確認する。


「サキュバス!? お前、なんでここに……って、え? 夢? これって、まさか……俺の夢?」


 天界ヘブンの下層にいるはずのサキュバスが、上層の俺の自室にいるなんて、物理的に不可能だ。先ほどの『夢』という彼女の言葉が頭の片隅に残っていた俺は、置かれている状況をなんとなく理解する。


 サキュバスは塞いでいた両耳を解放しながら「そうよぉ」とコクリと頷く。

 次第に冷静さを取り戻した俺は、何よりも先に俺とサキュバスの位置関係について彼女を問いただした。


「……で、お前は、なんで俺に馬乗りになっているんだ?」


「癖……かなぁ?」


「……」


 とぼけた顔をして、小首を傾げながらニコリと笑うサキュバス。


「ったく……お前ってやつは……」


 俺は呆れながら、ベッドから上半身をさらに起こし、サキュバスの体をグイっと横へ押しやった。


「やんっ。ミー君、ベッドの上で女の子をそんな風に扱うのぉ?」


「お前な……」



 男のお前を知っている俺が、どうやったらお前を『女の子』扱いできるんだよ……。



 心の中でそう言いながら、乱れた衣服と寝具を整え、俺はサキュバスにここへ侵入してきた理由を改めて尋ねる。


「ルファに、何かあったのか?」


 いそいそとベッドから降りようとしていたサキュバスは、俺の言葉に反応し、体をくるりと反転させた。そして、俺の両肩を掴んだかと思うと、勢いよく俺をベッドへと押し倒し、先ほどと同様の馬乗りの構図ができ上がる。


「そうなのぉぉぉぉ! ルファがぁぁ」


 サキュバスのあまりの勢いに、俺は、半ばトラウマとなっている人間界でのサキュバスとのを思い出し、慌てて彼女の体を押し返し上擦った声で叫んだ。


「おっ落ち着け、サキュバス! そっその前に、男……男の姿になってくれっ」


「はぁ!? そんなのどっちだっていいじゃないぃ!」


 俺の両肩を掴んだままのサキュバスが不満の声を上げた。



 いいや、よくない……。この絵面が、精神衛生上めちゃくちゃよくない……。



 俺は顔を引きつらせながら、頭を細かく左右に振る。


「いや……次から俺の夢に入るときは、男の姿で頼む……」


 俺の言葉にサキュバスがさらに目を剥く。


天界ヘブンでは女の姿で居ろとか、夢では男の姿で居ろとか、ミー君、我がままが過ぎるっ」



 まぁ確かに……。



 サキュバスの言い分にも一理あるのだが、俺の夢に侵入するたびに、女の姿で馬乗りになられたら、たまったものではない。だからと言って男のサキュバスの馬乗りもどうかと思うが……。

 そんな俺の思いを知る由もないサキュバスは、ぶつくさと文句を言いながら、ベッドの脇に立つと目を閉じた。彼女の髪が一瞬ふわりと浮く。


「ほら、これでいいでしょ?」


 腰に手を当て、頬を膨らませながら俺を見るサキュバスは、短い亜麻色の髪と筋肉質な体型の美丈夫へと変わっていた。その姿を見て安心した俺は、ベッドの上で胡坐をかき、その横でスラリと立つ男のサキュバスを見上げた。



「で、何があった?」


 俺の問いで、サキュバスは思い出したかのように、両手をベッドに押し付けて、再び俺に顔を近づけた。その勢いと彼の体重で、ベッドがギィと軋む。


「そう! ルファのね、夢に……夢に侵入できないのっ!!」


「だから、近い……って、ルファの夢に侵入できない? どういうことだ?」


 目と鼻の先ほどに近づくサキュバスの額を遠くへ押しやりながら、俺は首を傾げた。

 今にも泣きそうなサキュバスは、崩れるようにベッドの脇へと腰を下ろす。


天界こっちに来てしばらくは、ルファの夢に入れたんだ。でも……ある時を境に一切入れなくなっちゃった……」


 膝の上にだらりと置かれた自分の両手を見つめながら、サキュバスが物哀しげに言う。



 そうか。サキュバスは一定期間、ルファと夢の中で会っていたのか……。それが突然できなくなったのなら、うろたえるのも仕方がない……か。



 少し複雑な気持ちになりながらも、俺は俯くサキュバスに尋ねる。


「ルファと、最後に何を話した?」


 サキュバスはチラリと俺のほうを見てから、思い出すように視線を彷徨わせた。


「何って……大したことじゃないよ。夢の中では、いつもハルちゃんのことを話していたんだ。今日は、ハルちゃんはこれをした、ハルちゃんとこんな話をしたって。ルファは僕の話を黙って聞いていたよ」


「その時、あいつがどこにいたのか、お前は分かっていたのか?」


 俺の質問にサキュバスは力なく頷く。


「ルファは、自分の宮殿にいたよ。『そっちは大丈夫なの?』って聞いたら、問題ないって言っていたけど……」


「けど?」


「軟禁……されていたんじゃないかな……」


 サキュバスから発せられた『軟禁』という言葉に、俺は内心動揺した。だが、それを彼には悟られないよう、俺は努めて冷静に尋ねる。


「なぜ、そう思う?」


「上手く言えないんだけど……、地獄あっちのことをまったく話さないんだ。もともとそんなに話すほうじゃないけど……何を聞いても『問題ない』の一点張りでさ」



 俺は、アルゲオネムスの原生林で、ルファと別れた時の状況を思い返した。

 ルファの息子……つまり、魔王ルシファーの息子であるマモンが無垢の子のハルを引き渡せと、ルファに迫った時のことをだ。

 あのやり取りでルファは、自分に矛先を集中させようと、わざとマモンを苛立たせるよう仕向けていた。そして、案の定、激高したマモンはハルを探すのを諦め、代わりにルファを地獄ゲヘナへ連行していったのだった。



 ルファを連れ帰る前、確かマモンは「ベルゼブブの前に突き出してやる」と言っていたな……。



 魔王ベルゼブブ――元熾天使であり、地獄ゲヘナの支配者の一人。ルシフェルが謀反を起こした『あの時』、彼女の最側近として中層で賊軍を指揮し、ウリエルが率いた軍を最後まで手こずらせた。サタンの居城から『火種』を持ち出し、元あった下層の大地を地獄ゲヘナの業火へと変えた張本人。堕天した後の彼の力は、サタンをも凌ぐと言われているほどだ。



 サキュバスも当然、ルファとマモンのやり取りを聞いていたはずで、だからこそ、地獄ゲヘナの様子を話さないルファは、ベルゼブブの手により彼女の宮殿に軟禁されているのではないか、と思ったのだろう。


 これが事実なら、マモンの告発により、悪魔の中でルシファーに対する忠誠心が最も高いベルゼブブの怒りを、ルファは買ってしまった可能性が出てくる。


 ならば、次に起こる事態は何か?


 不安そうに俺を見るサキュバス。そんな彼を見つめ返しながら、俺自身も不穏な空気に飲み込まれつつあるのを感じていた。


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