16-0:ラジエルの傷痕(本編外)

 部屋に備えられたマホガニー製の小さな書斎机の上で、ラジエルは黙々と筆を走らせていた。

 静寂が満ちる部屋にカリカリと筆の鳴く音だけが聞こえる。

 一日の終わり、いつも通りの日課。しかし、今日は筆の動きがいつもよりも鈍い。ラジエルはため息をつくと、手帳の横に筆をそっと置いた。

 本来ならば、今日中に上層へ向けて出発するはずだった。だが、ハルのあの涙を見たラジエルは、急遽、彼女が滞在するこの石造りの別棟に一泊することを決めたのだ――




 しかし、迂闊だったな……。



 横たわる筆に手を添えたまま、私は窓の外に目をやった。窓ガラスに映り込む自分の姿と暗闇の広がる景色が重なる。

 年齢のわりに賢いとはいえ、ハルはたった十歳の少女なのだ。しかも、両親はすでに他界しており、『別れ』に人一倍敏感なはずだ。彼女の精神的な負担に、もっと配慮すべきだった。


 私はもう一度ため息をついてから、再び筆を手に取り、今日あった出来事を書き記していく。



 この記録も一体どのくらい書き溜めたのだろう?



 筆を走らせながらも、私の頭の中は昔を思い出していた……。




「一体どういうことなのでしょうか?」


 座天使の長だったザフキエル様が生誕の間で眠りにつき、新たな長となった私は、目の前にいる熾天使に対し不満をあらわにした。


「今言ったとおりだ」


 顔の上半分が白い陶器の仮面で隠されているその熾天使は、抑揚のない声で私に言った。それが私の不満をさらに増幅させる。


「先代の長ザフキエル様も、メタトロン様の直下でした。そもそも、組織として座天使の長はメタトロン様の下につくはずです。なぜ、私だけがミカエル様の下につかねばならぬのですか!?」


 己の配属先に異を唱えることなど、組織に属する者としてあってはならない。

 頭では分かっていても、納得できない気持ちを、私はそのまま上官であるメタトロン様へぶつけていた。



 熾天使メタトロン――『神の代理人』『契約の天使』と呼ばれており、神の代弁者として、常に神のそばにおり、天界ヘブンのあらゆる知識を知りうる天使。

 先代の長ザフキエル様がそうであったように、座天使の長を引き継いだ私も、当たり前のようにこの方の下で働くのだと思っていた。なのに、よりにもよって……。



「ミカエルの下につくのは、そんなにも不満か?」


 金色の長髪とガブリエル様よりもさらに長身のメタトロン様が、陶器の仮面越しに私を見る。

 メタトロン様の表情が読めず、気後れした私は途端に言い淀む。


「……そう言う……わけでは……」


 もちろん、大いに不満だった。なにせ、ミカエル様なのだから。


 天界ヘブンに仇を成したルシフェルを討ち、今や英雄ともてはやされているミカエル様だが、私は伏せられている事実を知っている。

 同胞たちをたばかって組織した賊軍を使い、次々と天使を滅ぼした憎むべき敵ルシフェル。彼女を討ち取ることに、あの方は最後まで躊躇っていた。そのような不甲斐ない方の下につけと、メタトロン様はおっしゃるのか?


 私はメタトロン様から視線を外し、握り拳に力を込めたまま床を睨みつけた。『あの時』のことが私の頭を過る。



 ルシフェルの側近、元熾天使ベルゼブブ。『火種』を手にしたあいつを目撃したのは、本当に偶然だった。


 その日の予定にはなかった中層の淵にある高台へとザフキエル様と共に視察に訪れたとき、ベルゼブブの姿を見つけたのだ。

 私たちに気づいたベルゼブブは、いきなり剣を抜き、無言のまま迫ってきた。

 ザフキエル様と私、そして、侍従として同行していた我が妹の主天使ケエルも加わり、三人がかりでベルゼブブを止めようとした。その時、あいつが何を企んでいたのか知る由もない。とにかく、襲いかかってくる熾天使相手に、私たちは無我夢中で応戦した。

 だが、ザフキエル様の体があいつの剣で貫かれ、その剣身から赤い血が滴り落ちるのを見た途端、私の体は強張り動かなくなった。

 これは現実なのか? 信じがたい光景を目の前にして、私はそんなことを思っていた。


 ザフキエル様が動かなくなると、ベルゼブブの次の標的が私に移る。

 一方の手には闇の炎が灯るランプを、もう一方にはザフキエル様の血がベットリとついた剣を携え、ベルゼブブが私に近づく。

 だが、私は絶対的な力の差に恐怖し、尻もちをついたまま微動だにできなかった。



 熾天使を相手に、座天使がたったひとりで何ができよう?



 すると、主天使である妹ケエルがベルゼブブの死角から、剣を振りかざして飛び出してきた。不意打ちを食らったあいつは、寸前のところでケエルの剣をかわすが、その反動で手にしていたランプを空高く放り投げてしまう。

 ランプは綺麗な放物線を描き、そのまま大地の切れ間に落ちていった。

 ケエルの視線が思わず、ランプの動きを追う。その瞬間を逃さず、ベルゼブブの剣は彼女の体をも貫いた。


「ケエルっ!!」


 妹の口から噴き出す深紅の血。それは『絶望』という現実が突き付けられた瞬間だった。

 私もこのまま滅ぶのか……? 私たちが何の犠牲になるのかも分からず、私もただあの剣に貫かれるというか? 確実に歩み寄る滅びに、私は抗うことなくうなだれた。


 その時だった。


 私に迫るベルゼブブの背後でゴォォォっという音とともに炎が上がった。

 ベルゼブブが振り返る。

 中層にまで達した火柱に、私の目は釘付けとなった。まさか、あの火種が下層に到達したのか? そんな馬鹿な……。中層と下層の大陸間には、天使も通れぬ空間の歪みがあるのだぞ?


 炎の柱を唖然と見つめる私の視界に、口角を歪めて満足そうに笑うベルゼブブの姿が入ってきた。それを見た途端、私の何かが弾け飛んだ。


「貴様ぁぁぁぁぁっ! 何をしたっ!?」


 目の前にいる熾天使が絶望から憎むべき敵へと変わる。ザフキエル様と妹の滅びを無駄にしてなるものか。手から離れてしまっていた剣の柄を再び握り、私はあいつに飛びかかる。

 だが、ベルゼブブは私の剣をいとも簡単に弾き飛ばし、私は壁へと叩きつけられた。


「くっ……」


 口の中に鉄の味が広がる。よろよろと立ち上がった私は血の混じった唾を吐き出し、剣を構え直した。その姿に、ベルゼブブはわずらわしそうな表情をする。


 再び轟音と共に火柱が立つ。今度は最初に上がった炎とは別の位置からだった。それを見たあいつは、口角を歪め嬉しそうに言う。


「遊びは仕舞いだ。このあとの宴をせいぜい楽しめ」


 それだけ言うと、翼を広げたベルゼブブは、私を残し空へと去っていった……。



*  *  *



 握りしめた私の拳を見ていたメタトロン様が、静かに口を開く。


「今のお前は、私の下につくのは相応しくない」


「それは……私ではメタトロン様のお役に立たない、ということでしょうか?」

 

 私は思わずメタトロン様を睨みつけた。

 だが、メタトロン様は小さく頭を左右に振り、ため息をついて私を見る。


「今のミカエルにはお前が必要だ。そして、今のお前にもミカエルが必要だ」


 メタトロン様の真意を測りかねた私は、困惑しながらも素直にそれを言葉にした。


「おっしゃっている意味が……分かりません……」


「今は分からなくてよい。いずれ理解する時が来る。ただ、ひとつ。ラジエル、私の下にいては、世界は見えない。ミカエルの下で世界を知り、そして、すべてを記録しろ。お前の書は、必ず天界ヘブンの糧となる」


 そう言って私を見たメタトロン様は、白い陶器の仮面越しに微笑まれていた――




 あれから私はミカエル様のお傍に仕え、メタトロン様の言いつけ通り、己が見聞きしたことのすべてを書き記している。


 今なら、メタトロン様が私をミカエル様の下につけた理由を理解できる気がする。


 『あの時』の私は己の未熟さ・弱さを、ルシフェル討伐を躊躇うミカエル様にすべて押し付けていた。

 座天使の私が熾天使であるベルゼブブを討てないのは仕方がない、と己を納得させ、天界ヘブン一の強さを誇るミカエル様は目の前の敵を討つべきだ、と身勝手な考えを持っていた。


 だが、ミカエル様のお傍にいるうちに、私はあの方の苦悩に何度も触れるようになる。


 あの方は、天界ヘブンで最強の力を持っているにもかかわらず、優しすぎるのだ。

 それに加え、誰を非難することもなく、すべてを己の背に背負ってしまう。

 あの背中に生える六枚の純白の翼を見るたびに、その重責を思い、私の胸は苦しくなる。そして、ひとときでも、私があの方を蔑んだことを恥じに思うのだ。



 今日の出来事をひと通り書き終えた私は、筆を置き、手帳をパタリと閉じた。そして、中身がすっかり冷めてしまったカップに手を伸ばすと、残りを一気に飲み干した。


「それにしても……」


 ポツリとつぶやいた私は天井を見上げた。昼間のことが頭に浮かび、渋い顔をしてから苦笑いへと変わっていく。

 以前の私なら考えられなかったことだ。悪魔である夢魔とあんな風に話すだなんて……。


 堕天使も悪魔も、地獄ゲヘナそれ自体が、私にとって、妹ケエルを滅ぼした憎むべき敵であった。それは今も変わらない。目の前に悪魔がいれば、私は躊躇いなく剣を向ける。

 それなのに、気がつけば、私はサキュバスと普通に会話をしている。いや、むしろ、ほかの天使たちよりも少し近い距離になっているかもしれない。


 サキュバスの大っぴらな性格のせいもあるが、私がミカエル様の影響を受けていることも原因のひとつだった。


 人間界でハルたちと過ごしているうちに気づいたことがある。

 ミカエル様は、どうやら、悪魔を地獄ゲヘナそのものを憎んではいらっしゃらないようなのだ。

 あの方は、どこの種族かではなく、一個人として相手を見ている。だからこそ、ミカエル様はサキュバスを悪魔と認識しながらも、偏見を持った態度で彼女と接することがない。

 そうしたミカエル様のお姿を見ているうちに、私も、もしかすると、サキュバスも種族の垣根が消えたのではないだろうか。



「メタトロン様は……神は、こうなると予期しておられたのだろうか?」


 メタトロン様の行動は、常に神の代弁者としてのものだ。つまり、神は、私がミカエル様の下につくことを望まれていた、ということになる。


 ミカエル様たち四大天使にとって父上であられる神。しかし、ほかの天使にとっては、神は近いようでどこか遠い存在に感じていた。

 だが今、私は神の存在を身近に感じている。そして、そのお姿は、謁見の間にある玉座にお掛けになる神ではなく、なぜかミカエル様を思い描いてしまうのだ。


「不敬神だな……」


 自分の心の内を漏らすように独り言を言った私は、片手で口を覆い、ひとり静かに苦笑いをした。


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