12-4:過去の片鱗

 ガブリエルに殴られ、壁にもたれながら崩れるように床に座ったミカエルは、罵る彼の言葉すら耳に届かず、虚ろな目でただくうを見つめるだけだった。


 そんなミカエルを見たラファエルが、体の大きなガブリエルを押し退け、慌てた様に小走りで彼の元へと駆け寄った。そして、その場にひざまずいたラファエルは、彼の赤く腫れあがった頬に手を添えようとした。

 だが、それを拒むように、ミカエルは彼女の手を払い除けた。


「俺に……構うな……」


 しかし、ラファエルは黙ったまま首を左右に振り、ミカエルに振り払われた手を再び彼の腫れた頬に軽く添えた。そのまま瞳を閉じると、ミカエルの頬に添えたラファエルの手から淡い光がふわりと光った。すると瞬く間に、ミカエルの赤く腫れあがった頬は元に戻り、切れて血が滲んだ唇の傷も塞がれていった。


 腫れの引いたミカエルの頬に手を添えたまま、ラファエルは静かに口を開く。


「兄さま……本当に、このままでよろしいのですか? 姉さまは、きっと待っていらっしゃると思います」


「待って……いる?」


 何を……? と顔を上げたミカエルの視線が、ラファエルのそれとぶつかる。

 ミカエルの頬からそっと手を離したラファエルは、自分の両手を握り締め、寂しそうな笑顔を彼に向けた。


「姉さまなら、こんな回りくどい方法ではなく、もっと確実な方法をとったはずです。確実に天界ヘブンを手に入れる方法を……。でも、それをしないのは、兄さまと正面から対峙することを望んでいらっしゃるからではないのでしょうか?」


「……」


「姉さまは、兄さまを待っているはずです。兄さまもお嫌でしょ? ほかの誰かが姉さまと戦うだなんて……」


 ラファエルの言葉にミカエルの顔が歪み、彼は頭を左右に振る。


「それは……嫌だ……」


「でしたら……」


「だけど……」


 そう言ったきり俯くミカエルの銀髪の頭を、ラファエルは包み込むように優しく抱きしめた。そして、ミカエルの耳元で、彼にしか聞こえないか細い声で囁く。


「兄さまの苦しみを私も一緒に背負います。ですから、どうか天界ヘブンを……私たちをお救い下さい……」


 ミカエルは目を見開き、体を引き起こしてラファエルの顔を見た。彼女の顔が今にも泣きだしそうに歪む。

 ラファエルの頬に涙が伝う寸前、周囲からそれを隠すように、今度はミカエルがラファエルの頭を抱き寄せた。


 ミカエルの脳裏に、なぜか幼い頃のルシフェルが思い出される。



『ここにいるのは、みーんな私たちの可愛い弟妹ていまいたちよ』



 ミカエルとルシフェル、そして父である神のたった三人しかいなかった頃、生誕の間で、ミカエルを抱きしめながら微笑む幼いルシフェル。

 そんな光景が目の前にチラついたミカエルは、苦悶の表情を浮かべる。


「くそっ……」


 そう一言だけ発したミカエルは、ラファエルの頭に手を添えたまま固く瞳を閉じた。抱きしめている彼女の体が小刻みに震えるのを感じる。


 幼い頃からラファエルは、全天使の首領であるルシフェルを尊敬していた。そして、理想の天使として、誰よりもルシフェルの背中を追いかけていたのだ。

 そのラファエルが自分の気持ちを押し殺し、ルシフェルを倒してくれとミカエルに哀願している。

 声を上げずに泣く彼女の気持ちと、愛した人に裏切られた自分の気持ちが重なり、ミカエルの中で怒りが沸々と湧き上がってくる。



 お前は弟妹ていまいたちを大切に思っていたんじゃなかったのかよ! は、一体何をしているんだ? ルシフェル!!



 ミカエルは一つ大きく息を吐き、再び瞳を開いた。手を添えていたラファエルの頭に、自分の頭をそっと寄せる。


「すまない、ラファエル。お前の気持ちも考えずに……」


 その言葉を聞いたラファエルは体を起こし、涙に濡れた顔のままミカエルに力なく微笑んだ。


「わかっています……」


「……行ってくる。ルシフェルのもとに」


 ラファエルの頬にそっと触れたミカエルは、そこに伝う涙を優しく払い、彼女に向けて一瞬だけ微笑む。そして、何かを断ち切るように立ち上がり、謁見の間全体を見回した。



 精気を取り戻したミカエルを見て、今まで張り詰めていた謁見の間の空気が、ほんの少しだけ緩む。


「はぁ……やっと総司令官様の復活ですか」


 ウリエルが苦笑いをしながら肩をすくめたときだった。


 ガブリエルの斜め後ろにいた座天使の一人がそっと剣を抜いたかと思うと、奇声を発しながら前方にいるガブリエル目掛けて飛び込んできた。

 咄嗟の出来事にガブリエルはおろか、周囲は誰一人反応できない。

 座天使の剣がガブリエルの脇腹を捉える。彼の体を一気に切り裂こうと座天使の剣は、その速度をさら上げる――が、彼の体に到達する刹那、座天使とガブリエルの間に割って入った黒い影があった。


 ギギギギッ……金属同士が擦れる嫌な音が響く。


「ミカエル!?」


 その黒い影がミカエルであったことに驚愕したガブリエルが声を上げる。

 見ると、ミカエルが握りしめる剣が、ガブリエルの体を切り裂こうとしていた座天使の剣をギリギリのところで受け止めていた。

 無言のままのミカエルは、握る剣にさらに力を込めて座天使の剣を弾き返す。


「クソっ!」


 後ろに体勢を崩しかけた座天使はなんとか踏みとどまり、次の一撃をミカエルに向けて放つ。だが、その一撃がミカエルに到達する直前に、ヒュンと空気を切り裂く音が辺りに響く。と同時に、剣を持つ座天使の腕が血しぶきとともに天井高く舞い上がった。


「うわぁぁっぁぁ」


 悲鳴を上げる座天使の後ろで、どさりと落ちる彼の腕。ミカエルが握る剣の剣身からは、座天使の血が滴り落ちる。だが、それだけでは止まらないミカエルの剣は、次の獲物を狙うように弧を描き走る。激痛に耐えかねて床に膝を屈している座天使に狙いを定めたミカエルの剣が、真横から鋭く襲いかかる。

 片腕を失い半狂乱の座天使が顔を上げた瞬間、彼の体はミカエルの剣によって真っ二つに薙ぎ払われ、ばたりと音を立てて左右に転がった。



 二つに割れた座天使の亡骸から流れるどす黒い血が、床一面に広がっていく。


 座天使の黒い血の広がりは、前触れもなく暗黒の空間へと変貌した。

 口が開いた黒血の底から無数の青白い腕が湧き上がり、まるで何かを探すように血で汚染された空間をバタバタと動き回り始めた。

 やがて、爪も生えていない青白い指先のひとつが薙ぎ払われた座天使の亡骸に触れた途端、ほかの腕もそれに反応して彼の亡骸に群がり、自分たちが湧き出てきた闇の空間へと彼の体を引きずり込み始めた。

 座天使の亡骸をすべて飲み込んだ暗黒の空間は、彼の痕跡をすべて消し去るように血の跡すら残さず、瞬く間に消失した――


 目の前で起こったその状況を、顔を背けたラファエル以外のミカエルたち四大天使は、顔色一つ変えずに見ていた。だが、その場にいたほかの天使たちは、青ざめた表情で座天使の亡骸が飲み込まれた床を見つめる。


「あれが……『地獄ゲヘナの門』」


 謁見の間の隅に置かれたソファーに座り、傷の手当てを受けていたラジエルがポツリとつぶやいた。

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