12-5:過去の片鱗
その場から動けずにいる者たちの中から、よろよろと後退る天使がいた。彼は反逆者である片翼の主天使を拘束していた能天使の一人だった。
座天使の亡骸が消えた床を見つめる群れの中から一人離れた能天使は、後ろへ駆け出したかと思うと、翼を広げ低空で羽ばたき、謁見の間の横にある中庭へと続く扉に全速力で向かった。
二十秒もかからない場所にあるそのガラス扉は、まるで彼を招くように光が差し込んでいる。
あそこへ体ごと飛び込み、あとは上空へ逃げればいい……。ケルビムはこれまで反応しなかった。まだ大丈夫だ。
能天使は中庭へ続くガラス扉に飛び込む体勢を取る――が、次の瞬間、何かの力により彼の体は床へ激しく叩きつけられた。
「!?」
体を捻り何が起きたのかを確かめようとした。だが、上からの圧力がさらにかかり、能天使は思うように体を動かせない。
そうしているうちに、能天使の背中に集中する圧力は、彼の背骨をメキメキと砕き始めた。骨の砕ける音とともに激痛が走り、思わず呻く。そして、その砕けた骨が鋭い棘のように肺へと刺さり、能天使の口からは鮮血が空気とともにゲホゲホと吐き出された。
能天使は咳き込みながらも、目の前に見える中庭の光だけを拠り所に、なんとか前へ進もうともがく。そんな能天使の頭上から、突如、声が降って来た。
「諦めなよ。無理だって」
聞き覚えのある声に、やっとの思いで首を捻り天井を見上げた能天使。その視界に入ってきたのは、憐れむような微笑みを向ける熾天使ウリエルの姿だった。
「あ……あぁ……」
片足で能天使の体を押さえつけながら微笑む純白の翼のウリエル。彼と目が合った能天使は、恐怖で顔が引きつる。と、次の瞬間、ウリエルは手にしていた剣を大きく振り上げ、能天使の背中目掛けて一気にそれを突き立てた。
ギャーと醜い悲鳴を上げ息絶えた能天使の亡骸も、あっという間に
「おい! 貴様、やめろっ!!」
今度は、謁見の間の中央から大きな声が響く。その声の主は、反逆者を拘束していたもう一人の能天使だった。
彼の目の前で膝立ちをしていた片翼の主天使の口から大量の血が噴き出す。そして、ばたりと倒れた彼もまた、ほかの二人同様に暗黒の空間へと飲み込まれた。
「
片翼の主天使が消えた空間を見つめながら、ガブリエルがつぶやいた。
神の玉座がある謁見の間に、なんとも耐えがたい静寂が訪れる。だが、その静けさはすぐに破られた。
ヒュンと
自分の目線まで剣を上げその剣身に歪みが無いことを確かめたミカエルは、剣を鞘に収めつつ、
「ラファエル、早急に
「あ……はい」
何事もなかったかのように、地図を眺めながら指示を出し始めたミカエルに、ラファエルが半ば反射的に返事をする。
チラリとラファエルを見て頷いたミカエルは、立て続けに指示を出す。
「ウリエルは、そこの……ラジエル……だったな、彼とともに中層へ。ラジエルは連絡塔で守備隊の指揮を。ウリエルは中層ゲートの指揮だ。上層に潜んでいる反逆者はケルビムに討伐させる」
「あぁ」
「わかりました」
ウリエルとラジエルがほぼ同時に頷いた。それに頷き返したミカエルは、今度は自分の横にいる長身のガブリエルを見る。
「俺は、術者を連れて下層の連絡塔へ向かう。ガブリエルは……ここで全体の指揮を頼む」
その言葉に、ガブリエルは渋い顔をしてミカエルを見返した。
「中層ゲート前にはベルゼブブの軍がいる。さらに、塔は絶対魔法障壁で封印されているのだぞ。どうやって侵入する気だ?」
ガブリエルを見つめていたミカエルは、
「無理……だろうな」
「?」
ミカエルの意図が読めず、ガブリエルは首を傾げつつも次の彼の言葉を待った。
「中層ゲートが使えないなら、直に下層へ降りるしかない。俺の力なら、術者を守りつつ下層まで降りられるはずだ」
唯一、その歪んだ空間を越えられる力を持つ天使が『神に似た者』の名を持つミカエルであった。とはいえ、ミカエル自身も、連絡塔を使用せず大陸間を直に通り抜けたことなど、今まで一度も試したことがなかった。
「できるのか?」
眉間にしわを寄せたガブリエルの問いに、ミカエルは苦笑いしながら肩をすくめる。
「たぶんな。まぁ、ぶっつけ本番ってやつだが」
それを聞いたガブリエルは首を左右に振りながら、ミカエル同様に苦笑した。
「相変わらずの無鉄砲だな……。で、下層の連絡塔には、どう侵入する?」
「それは……」
途端にミカエルが言い淀む。
「それも行き当たりばったりか?」
呆れたままガブリエルはミカエルを見るが、沈んだ表情へと変わったミカエルは頭を左右に振る。
「いや……。絶対魔法障壁の消失と同時に連絡塔へ侵入する」
これは、己の核を使いながら連絡塔で援軍を待つザドギエルを見捨てると、ミカエルが宣言したのも同然だった。謁見の間にいる天使たちが息を呑む。
「……そうか」
ガブリエルはミカエルから視線を外し、ぽつりと言う。そして「だが……」と続けた。
「下層の連絡塔前にはルシフェルがいる。術者を守りながら突破できるのか?」
ガブリエルの口から出た『ルシフェル』という言葉に、一瞬、視線を彷徨わせたミカエルだったが、すぐさまガブリエルを見上げる。
「術者は、魔力に最も長けている鷲のケルビムを連れて行く。彼なら俺がいなくても自力で塔まで行けるだろう」
「なるほど。鷲ならば、たった一人でも障壁の維持は問題ないな。それで……お前はルシフェルと対峙するのだな?」
「……」
ガブリエルを見たまま沈黙するミカエルに、再度確認するようにガブリエルは尋ねる。
「答えろ、ミカエル。お前は、ルシフェルを
「それが……俺の務めだ」
絞り出すように答えるミカエルを見て、ガブリエルは彼の奥底を覗き込むような目つきへと変わる。
「
再三問うガブリエルを、ミカエルは露骨に睨みつけた。
「俺の敗北は
そう言い放ったミカエルは、ガブリエルに背を向けて謁見の間の出口へと大股で歩き出した。
「わかった。お前の言葉を信じよう」
ミカエルの背を見つめるガブリエルの言葉が、謁見の間全体に響き渡った――
迷いが消えた、だなんて大嘘だった。迷いはずっと俺の中で渦巻いていた。
だが、ルシフェルと対等に戦えるのは、この
そのたった一点の事実に背中を押されるように、俺はこの世で最も愛する天使の元へと向かった。向かうしかなかったんだ……。
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