10-1:後顧の憂い

*後顧の憂い=あとあとの心配



 ルファが悪魔たちと去ったあと、古びたサイロの中で、俺たちは身動き一つできないでいた。

 突如、頭上でゴォーと音が鳴り響く。

 ハルが「きゃぁ!」と悲鳴を上げて、近くにいた俺にしがみついた。


「大丈夫、風の音だよ」


 俺はハルの背中に手を添えて、彼女を慰めながら上を見た。


 サイロの屋根や石造りの壁に空いた大穴から、時折風が吹き込んでくる。それが建物の中で渦を巻き、ゴォーと音を立てていた。


「ルファ……大丈夫かな?」


 ハルは風で舞い上がるくり色の髪を抑えながら、俺と同じように天井を見上げた。

 俺が答えるよりも先に、サキュバスがハルに近づき、彼女の頭を優しくでる。


「大丈夫。だって、ルファは地獄ゲヘナの支配者だもん」


「うん……」


 サキュバスの言葉で自分を納得させるように、ハルはぎこちなくうなずいた。



 そうだとよいのだが……。



 魔王ルシファーであるルファは、確かに地獄ゲヘナの支配者だ。だが地獄ゲヘナには、ベルゼブブとアスタロトの二大悪魔が、彼女と同じ支配者として君臨している。

 元天使である彼らは、悪魔のなかでルシファーに対する忠誠心が最も強いといわれていた。

 しかし、地獄ゲヘナは裏切りと嫉妬の世界。ルファが『無垢の子』の存在を隠していたと知れば、彼らの強い忠誠心がどう転がるか見当もつかない。



 ルファのことは気がかりだが、俺たちには時間がなかった。が来るまでに、伝えておかなければならないことがある。


「サキュバス」


「うん?」


 不安げなハルを慰め続けるサキュバスの視線が、俺へと向けられた。

 声をかけたのは俺なのだが、これから話す内容の気まずさで、思わずサキュバスから視線をらす。


「その……言い難いんだが……」


「ん?」


「えーっと……」


「うん」


 怪訝けげんそうな表情のまま俺を見つめるサキュバスに、俺は意を決して言う。


天界ヘブンにいる間は、女の姿でいてくれっ」


「……」


 サキュバスからの反応がないので、俺はおずおずと彼を見た。

 俺の言葉の意味がすぐに理解できなかったのか、サキュバスの顔はポカンとしていた。だが、俺と目が合うと、ニヤリと笑って亜麻色の短い髪をかき上げる。


「あー……ミー君は、あっちのほうがお好み?」


「違うっ!」


 俺は慌てて強く否定した。すると、今度はサキュバスの顔が曇る。


「違う? あ……まさか……ルファに言われた!? 僕が男の姿だと、ハルの教育上よくないから女の姿でいさせろ――とか」



 ……そういう理由で、こいつはいつも女の姿だったのか。



 俺たちの話を黙って聞いていたハルが、不思議そうな顔でサキュバスを見上げる。


「そうなの? サキュバスさんが男の姿だと、どうしてよくないの?」


 ハルの素朴な疑問に、サキュバスが顎に手を添え「うーん」と首をかしげた。


「きっと、イメージの問題だと思うんだよね。男の夢魔ぼくの役割って、夢の中で女とセッ……」


「サキュバスっ! 時間がないから、さっさと女の姿になってくれっ!!」


 幼いハルを相手に平然と夢魔の説明を始めるサキュバス。焦った俺は、彼の話を遮るように叫んだ。



 こいつ……オープンすぎる……。



 この瞬間、俺の中でも、ハルの前ではサキュバスは女の姿であることが確定事項となる。

 ハルは納得いかない顔で俺を見た。だが、俺は苦笑いを返すだけで精一杯だった。



 俺に急かされたサキュバスはぷくっと頬を膨らませながら言う。


「もぉー、分かったよぉ。せっかちだなぁ」


 そう言うとサキュバスは目を閉じた。彼の背中から飛膜の翼が現れる。翼の羽ばたきでふわりと空気が揺れ動いた。すると、亜麻色の短い髪がハラリと広がり腰の辺りまで伸びる。そして、がっしりとした筋肉質の体型が華奢きゃしゃで妖艶なものへと変化した。ご丁寧に、服装も男物から黒のロングドレスに変わっている。


「これでいいのぉ?」


 その場で体をくねらせるサキュバスに、俺は「あぁ」と頷いた。


天界ヘブンではずっとその姿でいてくれ。特に、ウリエルの前では、男の姿になるな」


「熾天使ウリエル? 男嫌いなのぉ?」


 首を捻るサキュバスに、俺は「いや」と頭を左右に振る。



 熾天使ウリエル――神の御前にいる四大天使の一人で、『破壊の天使』『懺悔ざんげの天使』ともいわれる。

 普段は無駄に愛敬あいきょうを振りまき、面倒なことはしたがらない物臭な天使だ。だが、その実、四大天使の中で厳格さにかけてはもっとも厳しい性格の持ち主であり、ガブリエルとは別の意味で、扱いが面倒くさい天使。そして、彼には一つ困った特性がある。


「ウリエルは、天界ヘブン一、女に甘い。逆に、男には手厳しい。そして、この先、天界ヘブンにいる限り、あいつの協力が必要不可欠となるはずだ」


 俺の説明にサキュバスは、うんうんと頷く。


「つまり、女の姿でウリエルに取り入れってことぉ? そういうのは、私、得意よぉ」


 ニヤリと妖艶な笑みを浮かべるサキュバスに、俺はウンザリ気味に頭を振った。


「熾天使相手に色目を使おうとするな……。そうじゃなくて、女の姿のほうが、ウリエルの場合、事がスムーズに運びやすいってだけの話だ。ウリエルは、確かに女には甘いし、いつもヘラヘラしているから、いい加減なやつに見える。でも、天使の中では規律や道徳に最も厳しい天使だ。取り入ろうと下手に近寄ると、逆に痛み目を見るぞ」



 夢魔サキュバスが雌雄同体であることは、ウリエルも当然のように知っている。だが、そうだと分かっていても、目の前でサキュバスが女の姿でいれば、やはり反射的に女として扱ってしまう。そのよい例が、天界ヘブン一の紳士ラジエルのサキュバスに対する態度だ。それほどまでに視覚からの情報は、物事の判断に大きな影響をおよぼす。



 サキュバスは「ふぅーん」と言いながら頬に手を添えた。

 俺の説明をきちんと理解したのか怪しいところだが、時間がないので俺はハルのほうに顔を向けて話を続ける。


天界ヘブンへ行けば、俺はハルのそばにほとんどいられなくなる。狭間のそばにウリエルの孤城があるから、二人はしばらくの間、そこで暮らすことになると思う」


「しばらくの間?」


 首を傾げるハルに、俺は頷く。


「今回の騒ぎで、天界ヘブン地獄ゲヘナも当分はごたつくだろう。だが、それが落ち着いたら、人間界にあるウリエルの領地でハルが暮らせるように動いてみるつもりだ」



 人間界にあるウリエルの領地、つまりエクノール家の土地で生活できれば、ハルは人間界にいながら、天界ヘブンの保護を受けられる。そうなれば、ハルのそばにいることはかなわないとしても、遠巻きでならルファが彼女の様子を知ることも可能なはずだ。



「なるほどねぇ」


 サキュバスが感心したように言う。

 だが俺はハルを見つめたまま、険しい顔になった。


「でも、そのためには、もう一人、どうしても会わなきゃならないやつがいる」


「?」


「あ……それって……熾天使ガブリエル?」


 俺の意図を図りかねるハルとは違い、サキュバスが珍しく緊張した面持ちで言う。どうやら、サキュバスも、これが一番の難題だと気づいたようだった。

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