05-1:ガゼボ

 夢を見ていた……俺たちがまだ子供ガキだった頃の夢――



「ミカエル! こっちよ、早くっ」


 背中に届くほどの黒髪をゆらゆらと揺らし、俺の前を小走りで行くルシフェルが、時折振り向いてはニコリと笑って俺を急かす。


「待ってよ、ルシフェル。そっちは父さまが『行ってはならない』と言っていたよ?」


 ルシフェルを追いかける俺は、父の大きな手で頭をでられる感触を思い出し、躊躇ためらいがちに言った。


「平気よ。だって、父さまは絶対に怒らないもん」


「そうだけど……。でも……僕、こんな薄暗いところは怖くて嫌だよ」


 暗がりで冷やりとした空気をまとう白の回廊は、幼い俺にとって少し不気味な場所だった。

 先を行っていたルシフェルは俺の言葉に立ち止まる。揺れる黒髪とともにくるりと体を反転させると、パタパタと足音を立てながら俺のところまで駆け戻ってきた。そして、俺の両手を、まるで大切なものを包み込むように優しく握りしめる。


「大丈夫。私がそばにいるから。ね?」



 薄暗い白の回廊をしばらく進むと、それまでの景色とは対照的に光が差し込むアーチ状の入り口が見えてくる。

 ルシフェルに手を引かれた俺は、その入り口をくぐり抜けた。まぶしさで一瞬目がくらむ。


「ほら、ここよ」


「わぁ……すごいねぇ」


 俺は、ため息交じりに辺りを見回した。

 そこは、透明なガラス天井がはめ込まれたドーム型の広い空間だった。上から光が降り注ぐ部屋の中央には、その屋根を突き破るほどの巨大な樹木が主のように君臨している。そして、幼い俺たちを飲み込むほどの大輪のつぼみが、大樹の周りを囲むように部屋いっぱいに広がっていた。


「きっと、もうすぐ産まれるわ」


 ルシフェルは、手近にあった巨大なつぼみを人差し指で優しく小突く。

 小突かれた花のつぼみは、まるで踊るようにゆらゆらと揺れた。それを見ながら、俺は首をかしげる。


「僕たちだけじゃなくなるってこと?」


「そうよ」


「ふーん」


 俺は、しげしげと花のつぼみを見た。花弁はしっかりと閉じられていて、当分は開きそうにない。


「こんなに広い世界なのに、父さまと私たちだけじゃ寂しいでしょ?」


 ルシフェルは後ろ手を組みながら、俺の顔をのぞき込む。だが、俺はプイっとルシフェルから顔を背けた。


「僕は、ルシフェルと父さまだけでも構わないけどな」


 口をとがらせながらぽつりと言う俺を見て、ルシフェルはクスクスと笑う。そして、組んでいた自分の手を離し、彼女はふわりと俺を抱き寄せた。


「ここにいるのは、みーんな私たちのかわいい弟妹ていまいたちよ。だけどね、ミカエルは私にとって、誰よりも特別で大切なの」


 ルシフェルの言葉と俺に触れた彼女の肌がなんだかくすぐったくて、俺もクスクスと笑う。


「うん、僕もだよ、ルシフェル。僕にとって、君は誰よりも特別で大切だよ」


 ルシフェルを抱きしめ返すように、俺は彼女の体にそっと腕を回す。そして、ルシフェルの額に自分の額をコツンとくっつけた。



 二人の想いが永遠に続きますように。



 目と鼻の先にいるルシフェルの息遣いを感じながら、幼い俺はそう願わずにはいられなかった。


「ミカエル、何かお願いごとをしたでしょ?」


「別に……」


「ふぅーん」


 そう言うとルシフェルは、いたずらっぽく笑う。その笑顔に釣られ、俺も照れながら笑った。

 ドーム状の部屋に満ちあふれる光は、笑い合う俺たちを優しく包み込んでいた――



*  *  *



 目を開けると、古い木で組まれた天井が俺の視界に入ってきた。薬草の匂いが暖かい空気に紛れて香ってくる。


「目が覚めましたか?」


 ラジエルの声が聞こえ、俺の意識は夢の世界から現実の世界へと徐々に順応していく。


子供ガキの頃の夢を見ていた……」


 体を起こした俺は右手で額を押さえながら、ついさっきまで見ていた夢を思い返していた。


「珍しいですね。『あの時』の夢ではないなんて」


 ベッドの横に置かれたスツールに座るラジエルが、心配そうに俺の顔を覗き込む。



 確かに……いつもなら、ルシフェルを貫いた『あの時』の夢を見るのに。今日に限って、あんな昔の、しかも、俺自身も忘れていたような子供ガキの頃の夢を見るなんて……。



 時間の感覚がまひしている俺は、ラジエルに現状を尋ねた。


「俺はどれくらい寝ていた? ルシフェ……いや、えっと……ルファたちは?」


「一時間ほど寝ていらっしゃいましたよ。彼女たちはリビングにおります。行かれますか?」


「あぁ、そうだな」


 俺は一つ大きく伸びをして、ベッドから立ち上がった。



 寝かされていた部屋を出た俺は、あらためてルファたちが住む家のリビングを見回す。

 向かって左側の奥に、鉄製の使いこまれた暖炉が置いてあり、その近くの天井には大きな柱が一本、家の屋根を支えるように走っていた。暖炉の横には、庭につながる大きな格子窓があり、その先にはウッドデッキが見える。


 格子窓の手前に置かれたソファーには、ハルが座っていた。摘まんだクッキーを頬張った瞬間に俺と目が合う。


「みひゃえる! ふぁいじょうぶ?」


 口の中がクッキーで占領され、まともにしゃべれないハルに俺は思わず吹き出した。


「心配かけたな。もう大丈夫だ」


 俺は笑いながら、そばに駆け寄ってきたハルの頭を優しく撫でた。

 ハルは照れながらもニコリと笑い返す。そのとき、後ろから声がした。


「さすがは熾天使様ね。回復がお早いこと」


 ティーカップを載せたトレイを持つサキュバスが、涼しい顔をして俺の横を通り過ぎる。俺は苦笑いをしたが、ラジエルはむっとして彼女から顔を背けた。


 ハルは「こっちへ来て」と、先ほどまで彼女が座っていたソファーへ俺の手を引く。

 ソファーが置かれたリビングの向かいには、オープンスペースの部屋があった。小さな出窓の前にロッキングチェアがぽつりと置かれ、壁際には天井まで高くそびえ立つ書棚が見える。

 その書棚の前には、もたれかかるように立ち、本に読みふけるルファの姿があった。



 こんな光景を天界ヘブンの書庫でも見た気がするな……。



 たくさんの天使たちが誕生した天界ヘブンで、俺とルシフェルが二人きりになれる時間は極端に減った。当時、知識欲の塊だったルシフェルは、時間があれば必ず書庫にこもっていた。俺もルシフェルとの時間を過ごしたくて、暇さえあれば書庫へと通った。

 俺たちが素の自分に戻れる唯一の場所、それが天界ヘブンの書庫だった。


 俺に気がついたルファが顔を上げる。手にしていた本をパタリと閉じると、「こっちよ」とリビングで最も主張している大きな格子窓から庭へと出て行った。



 格子窓からウッドデッキへ出ると、すぐ横にとうで組まれたカウチソファが目に入る。しかし、ルファはそれには目もくれず、庭の奥にある八角形のガゼボ(*)へと向かったので、俺も彼女のあとに続いた。


 ガゼボへ続く芝生で造られた小道の左右には、カンパニュラやキンギョソウ、チューリップなどのさまざまな種類の植物がセンスよく植えられている。

 小道の終着点にあるガゼボは、緑地にたたずむ白亜の塔のようだった。その中には、白く塗られた木製の小さな丸テーブルとガーデンチェアが備え付けられている。



 何というか……本当に、貴族の小さな屋敷だな。



 よく手入れされたこの庭もそうだが、家具一つとっても家主のこだわりが感じられた。こうしたセンスと細かな配慮は、天界ヘブンにいた頃と変わらないんだな……なんて思ってしまう。

 

 ガゼボに置かれたガーデンチェアの一つに座ったルファは、頭を少し斜めにかたむけ、俺に向かい側へ座るようにと促した。

 俺たちから遅れるように姿を現したサキュバスが、林檎リンゴの香りが漂う紅茶と焼き菓子をテーブルの上にセットする。そして、「ごゆっくりぃ」と俺にウインクをして下がっていった。


 こうして、森と庭園で周囲から隔離されたガゼボには、まるで相対するように座る俺とルファだけが取り残された。



*ガゼボ=庭に設置された西洋風あずま屋

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