02-1:不穏

 放牧地をあとにしたハルは、ルファと手をつないだまま街道を歩いていた。

 ルファは真っすぐ前を見据えたまま何も話さない。握られた彼女の手の強さから、今は口を利いてはならないと感じたハルも、ただ黙って前だけを見つめていた。


 太陽は放牧地のはるかかなたの地平線に、その身を隠そうとしていた。

 わずかばかりに残った光が、パストラルと放牧地をつなぐ街道を弱々しく照らしている。その街道の地面には、ハルとルファの影が寄り添うように間延びして映っていた。



 ルファは、ハルが物心のついたときから当たり前のようにそばにいた。

 父のほかに大人はルファしかおらず、ハルは彼女のことを母親だと思うのは仕方がないことだった。

 しかし、ハルが四歳の誕生日に、父のグレイからルファは本当の母親ではないこと、実母はハルの出産時に亡くなったことを聞かされる。

 その真実を知ったときの四歳のハルは、ショックのあまり狂ったように泣き喚いた。


「ほんとの……おかあ……さん、わたしのせいで、しん……しんじゃったぁぁぁ」


 涙を拭こともせず、しゃくり上げながら泣くハル。グレイは、どうしたらよいか分からず、ヒクヒクと泣く彼女を抱きしめることしかできなかった。

 父のグレイとしては、物事の分別がついてきた娘に、本当の母親の存在を知って欲しかっただけだった。だがまさか、ハルがこんなにも動揺するとは、彼は予想もしていなかったのだ。


「ハルのせいではないんだよ」


 グレイがなぐさめても、ハルは大きく首を振る。


「でもっでもぉぉぉ」


 さらに泣き声が大きくなるハルの前で、ルファが膝を突き、腰に下げていた綿の布でハルの涙をそっと拭う。


「あなたのお母さんは、命を懸けてあなたを生んだの」


「わたし……うまれ……なきゃ……、おかあさん……しなな……かった?」


 拭われた先から涙があふれるハルに、ルファはゆっくりと首を振る。


「いいえ、運命だったのよ」


「うん……めい?」


 聞きなれない言葉にハルは首をかしげた。ルファはうなずく。


「そう。変えられないこと。だから、ハルのせいじゃない」


「るっルファも……うんめい……になっちゃう?」


 おそらく、実母と同じように死んでしまうのかという意味だと捉えたルファは、ニコリと笑ってハルを抱きしめた。


「いいえ、ハル。私はあなたとずっと一緒よ」


 その翌年、父のグレイが流行り病で亡くなった。ハルにとって家族と言える存在はルファ一人となったが、そのときもルファは「ずっと一緒」とハルを慰め続けた。



*  *  *



 ルファの隣で歩きながら、ハルは彼女の手の温もりを感じていた。それと同時に、ルファの感情がハルの中に流れてくる。困惑、動揺、疑心、怒り……そして、わずかばかりの喜び。ハルには彼女がなぜ、そんな混沌こんとんとした感情を抱くのか理解ができなかった。


 眉間にしわを寄せたハルは、ルファの顔をチラリと盗み見る。

 そこには、子供のハルでも見れるほど、端整な顔立ちをしているルファがいた。しかし、今は、その表情はわずかに強張っている。


 ハルは、ルファをこんな風にした原因である放牧地で会った男たちのことを思い返した。

 ルファが『ミカエル』と呼んだあの人物も、ルファと同じ赤い眼をしていた。銀色の短髪を風になびかせ、苦しそうな顔でルファと向き合う彼を見ていると、ハル自身も不思議と胸が苦しくなる。ハルは、そこまで思い返してふと気がつく。



 そういえば……ミカエルあの人、ルファになんとなく似ていたような……。



 ミカエルを初めて見たとき、初対面ではない感覚がハルの中にはあった。なぜそう思えたのか理解したが、ハルはすぐさまそれを否定する。



 まさかね。だってあの人たちは……。



 ルファと彼らがことは、ハルにとって明白だった。では、なぜミカエルはルファに向かって「ともに戻る」と言うのだろう? それに「ずっと探していた」とも言っていた。



 あの人たちは、ルファをどうするつもりなの?



 ルファを探していた彼らが、簡単に引き下がるとは思えない。そう考えると、言いようのない不安が湧き上がり、ハルはつないでいるルファの手をぎゅっと握りしめた。



 放牧地から町のほうへと街道を歩くと、その左側に丘陵地へと続く脇道があった。その道をしばらく行くと、ほどなくしてハルたちが住む家が見えてくる。

 ほぼ毎日通う放牧地と家をつなぐ道。いつもは距離を気にすることなどはなかったが、今のハルにとって、わが家がとても遠くに感じられた。


 木々に囲まれた緩やかなカーブを曲がると、やがて、赤い屋根とレンガ造りの家が見えてくる。

 玄関横にある小さな窓から室内の明かりが漏れていた。辺りはすっかり暗くなり、足元を照らすランプもなかったため、この小さな明かりはハルをホッとさせた。

 普段のこの時間なら、夕食を終え、デザートを食べているはずだった。そう考えると、ハルは自分が空腹であることに、やっと気がつく。


「サキュバスさん、今日は何を作ってくれているのかな?」


 ハルはおずおずとルファを見上げた。すると、真っすぐ前を見据えていたルファが、ハルを見る。


「サキュバスが作る料理は好き?」


「うん! 大好きっ」


 ハルは、ルファが自分を見てくれただけでうれしくなり、ニッコリと笑う。ルファも、それに応えるように笑顔を返した。



 赤い屋根のわが家に辿たどり着き、ルファがチーク材でできた玄関扉の握りに手をかけようとした。だが、その直前に扉が勢いよく開かれる。


「!?」


 家から飛び出してきた細身で筋肉質な体型の男が、ルファの腕をつかみ引き寄せると、彼女の体をすっぽりと包み込むように抱きしめた。その勢いで、ルファが持っていたとうのかごから野草がこぼれ落ちる。


「もぉー、遅いぃ! 心配しちゃったよぉ」


「……」


「あ……えぇっと……、サキュバスさん、ただいま」


 無言のままサキュバスに抱きしめられ続けているルファに代わり、ハルが顔を引きつらせながら答える。

 顎くらいまである長さのサラリとした亜麻色の髪に、顔がほっそりしているサキュバスは、その頬をぷくっと膨らませてハルを見た。


「こんなに暗くなるまで放牧地にいちゃ危険だよぉ、ハルちゃん」


 ハルが遅くなった理由を話そうと口を開きかけたとき、サキュバスに抱きしめられているルファが冷たく言う。


「……というか、サキュバス……なぜ、男の姿をしているの?」


「んんー? それはぁ今夜は満月なんでぇ。なんかぁ我慢できなくてぇ」


 妙に間延びした言い方で答えるサキュバスは、そのままルファの唇に自分の唇を重ねようとした。それを見たハルがぎょっとした顔で固まる。

 二人の唇が触れ合う寸前で、ルファの手がサキュバスの顎をグイっと上へと押し上げた。


「いつも言っているでしょう! ハルの前では女の姿でいることって! あなた、そのうち地獄ゲヘナに送り返すわよ……」


「えぇぇっ! そんなぁぁ」


 半泣きになるサキュバスを無視して、ルファはハルの背中を押して室内へと入る。そして、まだ外にいるサキュバスを残したまま、ルファは後ろ手でパタリと扉を閉めてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る