02-2:不穏
ルファに家から閉め出されたサキュバスは、バンと派手な音を立てて扉を勢いよく開けた。
「ひどぉぉぉぉぉいっ! なんで、置き去りにするのぉぉ?」
室内へ入ってきたサキュバスは、先ほどの細身で筋肉質な男の体型とは打って変わり、腰までストンと落ちた亜麻色の髪の妖艶な女になっていた。
夢魔サキュバス――男の姿でいるときの名はインキュバスと呼ばれ、女の姿でいるときにはサキュバスと呼ばれる。ただ、子供のハルが混乱するといけないからと、ルファたちの中では男でも女でも『サキュバス』と呼ぶことになっていた。
夢魔とはどんな意味なのかと、ハルがルファに訪ねたことがある。だがルファからは「今は知らなくていい」とだけ言われ、ハルは夢魔が悪魔であるということ以外はよく知らない。
そう、ハルの目の前にいるこの二人ルファとサキュバスは『悪魔』だった。
二人はもともと『
サキュバスはというと、ハルの父グレイが亡くなったあと、ハルとルファが二人きりで生活していることを心配して、
ハルにとって、ルファとサキュバスはかけがえのない家族だった。
悪魔といえども、二人はハルの前で、
ハルは、放牧地で会ったミカエルの「ともに戻る」という言葉を、再び思い出した。
彼はルファとサキュバスに危害を加えるかもしれない。ならば、この二人を、この生活を守るためにはどうすればよいのかと、ハルは考える。
もし『ミカエル』のことを聞いたら、ルファは悲しむかな? でも……。
ハルはルファとサキュバスに気づかれないよう、不安そうに二人を見た。
* * *
サキュバスが作った遅めの夕食と食後のデザートも食べ終わり、ハルはリビングにあるソファーに身を沈めていた。サキュバスがいれたカモミールティーをゆっくりと口へ運ぶ。
ソファーの正面に見える書棚が詰め込まれた部屋で、ルファはロッキングチェアに座っていた。すっかり暗くなった夜空を窓辺から眺めている。
ロッキングチェアの横にある小さな丸テーブルに、ルファがティーカップを置いたのを見計らい、ハルが思い切って話を切り出した。
「ねぇ、ルファ」
「うん?」
夢でも見ていたかのようなルファのぼんやりとした視線が、窓の外からハルへと移る。
「夕方に会ったミカエルという人は、ルファの知り合いなの?」
ルファが反応する前に、サキュバスの悲鳴にも似たような声が聞こえてきた。
「えぇぇぇ!?」
サキュバスは、クッキー入りの器を載せたトレイをテーブルの上にガシャリと置く。そして、慌てたようにハルの隣に座ると、目を剥いて彼女に顔を近づけてきた。
「みっミカエルって、まさか、
サキュバスの動揺する姿にハルは驚き、体を少し
「え? えぇっと……サキュバスさんも知っているの?」
近づきすぎたと気がついたサキュバスは「えぇ、まぁ……」と歯切れの悪い言い方をしながらハルの隣に座り直した。そして、あらためてハルを見る。
「ねぇハルちゃん。あなたが会ったミカエルに翼は生えていた?」
ハルには生まれながらにして不思議な能力がある。
それは、普通のヒトなら見えるはずがない、天使や悪魔の姿が見えてしまうという能力。しかも、翼を隠してヒトに紛れている彼らも見抜けてしまうのだ。
この能力のおかげで、ハルは、放牧地で会ったあのミカエルの背にも、彼の近くにいた藍色の髪の男にも、純白の翼が生えていることに気がついた。
つまり、その翼を持つ彼らは『天使』と呼ばれる者となる。
悪魔であるルファとサキュバスは、彼らとはまったく違う翼を持っていた。
ルファの翼は、コウモリの飛膜のような黒い翼が六枚。サキュバスも、ルファと同じ翼が二枚生えている。
「私が見たミカエルは、真っ白な翼が六枚も生えていたよ。あの人は天使なんだよね? すごい人なの?」
「すごいも何も……」
ハルの問いに、サキュバスは少し困った顔をして、正面の部屋にいるルファをチラリと見た。
しかし、ルファはこちらを見向きもせず、丸テーブルに置いていたカップを手に取ると、何ごともなかったかのように口へと運んだ。
彼女のその姿を見たサキュバスはため息をつく。
「そいつはね、熾天使ミカエル。
ハルは『天使軍』という言葉に驚き、サキュバスを見る。
つまり、ミカエルの「ともに戻る」という言葉は、天使軍の前にルファを連れて行く、という意味なのだろうか? そもそも天使と悪魔は敵対する者同士。やはり、ルファたちに危害を加えるかもしれない。
そう考えるハルだが、もしかしたら、彼らの目的はルファとは違う別人ではないかという
「ミカエルは、ルファのことを『ルシフェル』と呼んでいたわ。ルファは『ルシファー』なのよね?」
ルファの本当の姿は、
それだけではなく、ハルとルファの間ではいくつかの約束ごとがあった。その中で最も重要なのは『うそをつかない』ということだ。このことから、ルファはハルに対してうそを言うことがない。答えられない、または答えたくない場合は素直にそう告げていた。
そういったこともあり、ハルは父のグレイが亡くなったあと、悪魔や天使、
「……」
ハルの問いに、サキュバスは何も答えずルファを見た。ハルも彼女に
二人の視線を受けたルファは深くため息をつくと、なぜか寂し気な目をして
「とうの昔に捨てた名だわ。今の私は『ルファ』よ」
それを聞いたハルは「でも……」と、
「ミカエルは『ルシフェルとともに戻る』と言っていたわ。それって、ルファを
ハルの言葉を聞き、サキュバスが驚き青ざめる。
「それって大変なことじゃない! 一刻も早くこの場所から移動しないと。ハルちゃんの身にも危険がおよぶかもしれないわっ」
「あ……そうか……。あの人たち、私を……」
ハルはそれ以上の言葉が続かなかった。
ルファのことばかりを気にしていて、彼女は根本的なことを忘れていた。そもそも、この家の住人は、誰一人として
時が止まったかのように固まるハルを見たルファが、ロッキングチェアから立ち上がる。そして、ハルのそばまで行くと彼女をふわりと抱きしめた。
「大丈夫よ。私は
「ルファ……」
ハルの心は騒めき、波のように押し寄せる不安でいたたまれなくなる。それを打ち消すように、彼女は自分を抱きしめるルファの胸元に顔を押し付けた。
ハルに応えるようにルファの腕に力がこもる。
「あなたのそばを離れることはないわ。ずっと一緒よ、ハル」
ルファの首筋から漂う
そんな二人の姿を、隣に座るサキュバスは不安そうに見つめていた……。
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