8 - 3

 二〇二〇年、十二月。

 あれから二年が経った。

 大学卒業と就職を控えたわたしは、アルバイトに励み、従兄に頼まれて、ルーシー・ジャクソン症候群で亡くなった恋人の葬儀を手伝ったり、何かと忙しい日々を送っていた。

 従兄は何も言わなかったが、彼女のことを心から大切に思っていたことは、彼を見ているだけでわかった。そして、今でも大切に思っているのだろう。そうでなければ、十年ほど前の年末年始を最後に会おうとさえしなかった義理の叔父に頼ったりなんかしないはずだ。

 父は、何かと従兄のことを気にかけていた。母の兄の息子。父にとっては血の繋がりのない、他人でしかない男性だ。それでも、たとえ彼が母の甥などでなく、見ず知らずの他人だとしても気にかけてしまうのが、わたしの父だ。

 父が従兄に語りかける。

 人は、死んだ人間の記憶だけを糧にして生きていくことはできない。家族でも友達でも何でいいから、心のどこかに生きている人間がいないと、駄目になる。

 望月奈緒子が、そうだったかもしれない。恋心を抱いた相手が、とっくに死んだ男でなければ、狂ってしまうほどにその心を燃やしたりはしなかったかもしれない。あるいは、七瀬勝頼が、そうだったかもしれない。妻を失った父は、わたしがいなければどう生きていただろう。

 当事者だから、父の言葉は重たかった。それくらいわかっているだろうに、従兄の返事は生返事だった。いや、今はひとりにしてほしいだけだろう。

 この従兄は、何か秘密を抱えている。自らの意志で、彼はそれを伏せている。そんな気がした。もう少し正確に言葉を選べば、似ていたのだ。あのひとに。

 だから、わたしは笑う。

「わたし、隠し事と嘘が得意な人の話を聞くの、得意なの」

 従兄は奇妙な表情を浮かべていたが、何も言わずに帰っていった。

「ああ言う人に限って、隠せてなかったりするよね」

 わたしは従兄が飲んで行ったお茶のグラスを洗いながら、呟く。

「少なくとも何かを隠していることは、バレバレだな」

 父が神妙に頷いた。考えてみれば、それは滑稽な矛盾だ。

「つまらねぇ意地張りやがって。あいつ、ひとりで生きてくなんて無理だって、たぶんわかってやがる」

 父は嘆息しながら吐き捨てた。従兄がひとりにしろと言っても、父はひとりにする気なんてないのだろう。お節介なのだ。

「まったく、どうしてこう世話が焼ける奴が多いんだか」

「わたしのこと言ってるの」

ちげぇよ」

 父がぼやく。

桐嶋礼司お前が惚れた男のことだよ」

 あいつ、今頃仕事ないだろ。どうすんだ。

 そう呟く父に、わたしは思わず吹き出した。


 二〇二〇年、十二月十七日。

 日付が変わって間もない時間帯だった。数時間前から降り始めていた雪は、比較的温暖な東京の街をさながら銀世界に変えるには十分すぎた。

 父は雪が降り始めてしばらくして、お客さんやアルバイトが帰れなくなるからと店を閉めた。この分だと明日も無理だろうと、父がシフト表を照らし合わせながら連絡し終えた時に、わたしのスマートフォンに一通のメールが届いた。

 従兄からだった。

「お父さん、どうしよう」

 わたしはメールを見せた。従兄からのメールは、さながら遺書のような内容だった。このメールが来ることには僕は死んでいるだろう、と言うような趣旨が、遠まわしだがはっきりと伝わる言葉で書かれていた。

「よし、俺が行ってくる。おまえは、ここで待ってろ」

「わかった。気をつけて」

 父が車のタイヤにチェーンを巻くのを手伝ってから、わたしはその姿を見送った。

 それからしばらくして、わたしは従兄からのメールは受信予定日時よりも十二時間ほど前倒して届いていることに気付いた。

 未来に届くメールアプリの不具合に、受信予定日時の表示がおかしいと言うものがあったのを思い出す。確かアプリサーバーの設定時刻が海外のものに設定されていて、時差が考慮されていなかったのだ。それで誕生日のサプライズが失敗したと、アプリのレビューは炎上していたのだ。

 その不具合が、従兄を助けますように。わたしはそんなことを思いながら、早めに眠ることにした。

 スマートフォンの着信で目が覚めた時は日付が変わった直後、零時三十分だった。父からの連絡で、詳細は明日の朝に連絡するがとにかく帰れないという内容だった。わたしは了解の意を返信した。

 ふと、窓の外を見る。まだ雪は降っていた。交通機関がよほど乱れたのか、今帰宅しているらしい人の姿もあった。

 午前零時三十二分。不意に、雪が止んだことに気付いた。

 窓の向こうに、男性が立っていた。

 雪の中を歩くには薄過ぎる、薄手のダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んでいた。ずぶ濡れのデニムジーンズにスニーカー。雪に濡れて額に前髪が張り付いていた。

 あの日の、眼鏡をかけていて、すらりとしたスーツ姿とは全く違う格好だった。けれど、誰なのかは、すぐにわかった。

 わたしはスウェットの上にコートを羽織って、慌てて飛び出した。寒い。だが、そんなことを気にしている場合ではない。

「遅刻だ」

 と、いつものように、彼は不遜な態度でそう言った。

「約束してないです」

「うるさい」

 ただ、どこか楽しそうに、口元に笑みを浮かべていた。わたしは何も考えずに、彼の方に歩みを進めた。

「僕が遅刻だと言えば、遅刻だ」

 そう言いながら、近付くわたしに一歩距離を詰めて、頭を掴んで引き寄せた。顔が濡れたダウンジャケットに当たる。こんなに寒いのに、彼も冷えているのに、その手は温かかった。

 それこそ、水面に映る月を掴むかのような夢の続きが、現実に結びついた。

 懲役三年、執行猶予五年。犯した罪に比べたら、十分すぎるほど軽い罰だった。

 それでも、失ったものは多かった。これからの道には、多くの苦難があるだろう。それでも構わない。幸せなんてものは、束の間で十分だ。

「ええと、望月絋哉さん、でいいんでしたっけ」

「知っているのか。それで構わない」

「じゃ、絋哉、さん?」

 敬称に困りながらわたしが呼ぶと、彼は呼び捨てでいいと苦笑した。

 ただ、彼は、名前を呼べば嬉しそうに笑った。

 彼はようやく、彼に戻れたのだ。

 残酷だけど、美しいこの世界で、わたしたちは生きている。

 この世界は、まるで、万華鏡のようだ。

 隣り合った硝子玉は、残酷なほど簡単に離れてしまう。だけど、何度か時間を繰り返せば、やがてまた巡り合う時が訪れるのだろう。

 だからこそ、万華鏡は――この世界は、美しい。

「なんだ?」

「寒いです。さっさと中に入りませんか。父には、ここで放置するのは男が廃るって言っておきますから」

「なるほど」

 彼は、小さく笑った。「それならば、その言葉に甘えよう」

 雪が降り積もる地面を、歩き出す。彼のダウンジャケットの腕を軽く引っ張ると、彼は笑って頷いてくれた。

 雪解け水は流れ落ち、春が訪れる。

 そこには陽が射して、やがて、花が咲くのだろう。



          了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

落花流水 桜崎紗綾 @saya_sakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る