8 - 2

 二〇一九年、一月。

 成人式の二日前のことだった。

 空気が冷え込む朝に、わたしは家を出た。向かった先は、渋谷にあるカフェだった。

 お店の前に、その人は立っていた。

 三十歳くらいだろうか。一九〇センチくらいありそうな背丈に、整った顔立ちの目立つ男性だった。服装ははっきりとしたブルーのコートで、それがかなり目立つものだった。靴は何故か銀色で、帽子は派手な赤だった。

 何なんだこの人すごく目立つぞ、とは思ったがわたしはその人の前に立ち、声をかけた。

銀次郎ぎんじろうさん?」

「うん、七瀬咲ちゃんだね」

「はい」

「外は寒いから、入ろうか」

 わたしは頷いて、銀次郎さんの後に続いて、店内に入った。

 ジャーナリストの銀次郎を名乗るこの男性と知り合ったのは、つい最近のことだ。実家の店に現れた彼は、日と場所を改めて、わたしと話をしたいと申し込んできた。

 わたしはそれを承諾した。あの週刊誌の記事を書いたのは、この人だからだ。

 週刊誌が発売されてから、二ヶ月が経った。その記事はじわじわと侵食するように、世間に広まった。最近ではテレビのワイドショーでも、話題になっている。

 席に着いてから、内容を反芻する。

「咲ちゃんは、甘いものは好き?」

「え、はい」

「何か食べる? この店、パフェとかケーキとか、めっちゃ美味いから」

「はぁ」

 わたしは突き出されたメニューを眺めた。銀次郎さんはニコニコ笑っている。悪い人ではなさそうだった。ウェイトレスが現れた。

「ブレンドコーヒーを、ホットで。あと、チョコバナナパフェ」

「カプチーノと、シフォンケーキお願いします」

 ウェイトレスが復唱してから、奥に戻っていった。

「糖分は正義。うん。だからいいんだ」

「あの?」

「あ、ごめんね、独り言」

 独り言にしては声が大きいとは思ったが、あえて何も言わないでおいた。変わった人なのだろうか。

「軽く話を始めようか」

 銀次郎さんは、朗らかな口調で切り出した。

「もうわかってると思うけど、俺が君と話したいと思ったのは、記事についてのことだよ」

「この記事ですよね」

 わたしは、ショルダーバッグにしまっていた雑誌の記事を開いた。

 世間では警察への批判が広まっていた。同時に、ハルナ病を知る人たちにより、逮捕された望月奈緒子さんの弟への救済の声も広まっていた。

「うん、それで合ってる。あ、君との話を記事にする気はない。ならないだろうしね」

 彼は冗談っぽく肩を竦めてみせた。

「たぶん、君は知りたいよね。俺が何者なのか」

「はい」

「俺は、ただのしがないジャーナリストでしかないんだけど」

 そんな前置きをしながら、銀次郎さんはテーブルの上のお冷やを手に取った。

「俺がジャーナリストになったのは、この記事を書き起こすためだったと言っていい。『前世の自分』に取材を申し込んだり、瞳が赤く光って人が倒れる現象について調べて回っていた。調べてる間に、君の名前が出てきたの」

「前世の自分? 記憶をインストールするプログラムの」

「そう。俺が取材したのは、真鍋雅だ。小説家だ。名前くらいは知らないかな」

「『イデア』の作者」

 そう、と銀次郎さんは頷いた。『イデア』は真鍋雅のデビュー作で、多くの新人賞を総なめにして、映像化不可能とさえ言わしめた。日本の映画界は意外なほど何でもできるから、意外と映画になりそうだが。

「俺が記事に書いた前世の記憶は、何故かみんな同じタイミングで瞳が赤く光って死ぬ。ハルナ病だ。老若男女問わず、二〇二〇年十二月。降っていた雪が止んだ直後――たぶん一分以内じゃないかな。つまり俺は、自分の前世がどのタイミングで何故死ぬのかを潜在的に知っているわけだ。俺自身も同じタイミングで死ぬって思って、それを阻止したかった。俺アラサーだし、どう考えたって死ぬにはまだ早すぎるよ」

 ブレンドコーヒーとカプチーノが来た。

 銀次郎さんが、テーブルの隅に置いてある瓶から角砂糖を出してコーヒーに落とした。わたしはカプチーノを一口飲んで、砂糖とミルクはいらないと判断して、差し出されたものを断った。

「銀次郎さんは、脳に他人の記憶をインストールされたひとりで、真鍋雅の記憶を持っているんですか?」

「そうだ。取材した時の約束だから、俺はあの人のことについてこれ以上詳しく話す気はないけれど」

 真鍋雅がいつ死ぬのか、垣間見えた気がしたが、わたしはそれ以上は何も言わないでおいた。踏み込んではいけないはずだ。銀次郎さんか、あるいは真鍋雅のプライドを守るために。

「とにかく、俺はあの瞬間に、人類が滅びるんだって思ってた。いや、みんなそう思ってたんじゃないかな。だけど、為すすべもないのが現状だった。奈緒子ちゃんが殺されたニュースを見るまではね」

「どういうことですか?」

「俺は、学生の頃に彼女と知り合っていたんだ。本当に偶然だったんだよね」

 銀次郎さんの口調には、親しみがあった。彼女への呼び方を含めて考えると、知り合いだと言うのは事実だろう。

「彼女は、自分も前世を引き継いでいるひとりだと自己申告していた。けれど、彼女は同じタイミングでは死ななかった。それが偶然なのかイレギュラーなのか、調べて回るうちに俺は彼女の計画を知った」

「記事を書いたのは、生きるため……計画の阻止のためですか?」

「それもあるな」

 パフェとケーキが運ばれてきた。銀次郎さんは食べなよ、と促しながらフォークでバナナを刺した。

「俺が、奈緒子ちゃんが生きてることを知ったのは、それからすぐだった。と言うか、最初に散布した記憶のインストールプログラムには、ひとりの少年が姉を殺す断片的な記憶が混入されているバグがあった。ねえ、咲ちゃん。もしその記憶を引き継いでて、自分は身内に殺されるかもってわかってたらどうする?」

「未然に防ぎます」

「そうだよね。俺もそうする。まあ、わかるよね、奈緒子ちゃんもそれを実行したんだ。彼女は、自分の死を偽装した。ざっくり言うと、死んだ振りをしたんだよ。方法はわからないし、それでもしばらくはリハビリが続くような状態だったらしいけど、仮死状態ってのは作ろうと思えば作れるんだね」

 銀次郎さんはスプーンを手にとって、パフェの一番上に乗っているチョコアイスを掬った。

「奈緒子ちゃんの弟は、もう一度姉を殺した。そして、彼も、自分の方法でハルナ病から世界を救うことを選んだ」

「ワクチンの開発ですね」

「そうだね。彼は氷室遼子を姉だと認識したのか、姉の計画に加担した誰かだと認識したのかはわからない。ただ、彼にはどうでもいいことだろうね」

 わたしは、シフォンケーキを軽くフォークで切り分けながら口に運んだ。淡い甘さがあった。

「話を戻そうか。俺が記事を書いた理由だ。確かに、ハルナ病の存在をこの世に広めることでその流行を抑制し、ワクチンの量産に繋げる事も目的のひとつだ。実際、世間は告発者の登場によってその通りの流れになっている。二年後にワクチンが間に合うかはわからないけど、俺の役目としては、これだけでも十分すぎるくらいだろうね。二年後に人類が滅びるなんて、今の状況では考えにくいだろうし」

「他の目的が、あるんですか?」

 銀次郎さんの言い方に何か含みを感じて、思わず尋ねていた。彼の言う通り、彼は記憶をインストールされた上で望月奈緒子に出会った人として、十分すぎるくらいにやれることを成し遂げたはずだ。まさか、まだ足りないのか。

「そうだね。むしろここまでは、君にも想像できる目的しかないんじゃないかな?」

 銀次郎さんは、溶けかかったチョコレートアイスをコーンフレークと混ぜながら頷いた。甘いものを頬張っているとは思えないような真剣さが、そこにはあった。

「俺の本当の目的は、望月もちづき絋哉こうやの救済だ」

 誰なのかなんて、聞くまでもなかった。

 それが、桐嶋礼司と名乗った彼の、本名なのだろう。

「姉を二度殺して、自分の人生の多くを犠牲にして、彼は多くの人を救った。彼を救わずして、誰を救えと言うの? ったことがったことだから無罪放免とはいかないだろうけど、情状酌量で執行猶予くらいあってもいい。君も、そう思わない?」

 わたしは、何も言えなくなって頷いた。

 銀次郎さんが、紺色のタオルハンカチを差し出してきた。

 左眼から、涙が零れ落ちていたことに、わたしは初めて気付いた。そのまま、涙がぼたぼたと溢れてくる。しゃくりあげて、嗚咽が止まらない。人はどうして、泣くのを簡単に止められはしないのだろう。

「よーし、泣きたいだけ泣いちまえ。それから、好きなもんでも食って笑うの。OK?」

 わたしは、もう一度頷いた。

「うーん、それにしても、なんだか俺が若い彼女泣かせたみたいになっちゃうな。……あー、えっと、ケーキもう一個食べる?」

 その言葉で、ようやくわたしは少しだけ笑うことができた。

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