水月

8 - 1

 二〇一八年、八月。

 夜が明けると、桐嶋さんの姿はどこにもなかった。

 そうなることは、わかっていた。彼のことだから、無理矢理にでもわたしの前から離れるのだ。

 わたしの身の安全は、彼が目的を果たした時に確保される。そのためにわたしが邪魔になるのだから、こうするしかなかったのだ。すべてをわかった上で、わたしはすべてを受け入れた。

 荷物をまとめて、部屋を後にすることにした。彼は、もう戻ってくることはないだろう。そんな予感がしていた。

 フロントで声をかけると、チェックアウトも支払いも既に終わっていた。やはりと言う諦めの感情を抱きつつ外に出ると、池袋の街が広がっていた。

 家に戻っても、父は何も言わなかった。ただ、いつも通りにわたしを出迎えただけだった。

 それから続いた平穏な時間は、わたしには少し残酷なくらいに緩やかな時間だった。

 いつの間にか三ヶ月が経って、十一月がもう終わろうとした頃のことだった。

 ある週刊誌が発売された。たまたまそれを本屋で見かけたわたしは、その記事に眼を止めた。迷わず、レジに持っていった。

『少年犯罪の裏に隠された、殺人ウィルスの恐怖!』

 わたしはようやく、桐嶋さんがしていたことを理解した。


 二〇一一年、都内の某所でひとりの女性が首を絞められて倒れているところを、自宅で発見された。

 名前は望月奈緒子。当時二十三歳、大学院生だったという。

 現場の状況から、彼女に手をかけたのは当時高校生の実の弟だと割り出された。彼女の皮膚と弟の指紋が付着された、真新しい包丁やベルトを隠すことさえなかったのだ。凶器は、包丁ではなくベルトだったらしい。

 警察は捜査を開始した。ただし、未成年だったから少年法が適用されて、彼の名前は公表されなかった。

 この少年と姉の仲は、日頃から良好だった。また、少年は甘えん坊だが真面目かつ温厚な性格で、とても人を殺すようには見えなかった。ただ、近頃はしばしば口論を繰り返していた。

 姉は情報数学を専攻していたが、その知識は脳科学や医学などに精通していたらしく、子供の頃から神童とか天才などと言われていたらしい。

 奈緒子さんは、中学生の時にふたつのプログラムを設計した。

 ひとつめのプログラムは、人間の記憶を他人の脳にバックアップするというものだった。

 その結果、ちょうど思春期ごろの子供のごく一部が、同じ時代に生まれ育って未来の時期に死ぬ記憶を持つ現象が発生し、ウィルスのように人から人へと乗り移った。

 ひとりの記憶しかインストールされないことが多く、しばらくしてそれを忘れることがほとんどだったが、複数の記憶をインストールしてしまう人が一定数現れた。そして、複数の記憶をインストールした人は、それを「前世の記憶」と呼んでいた。彼らは実験のことは何も知らないままに、記憶だけを引き継いでしまったのだ。それは確かに、前世だと思ってしまうかもしれない。

 この実験により、奈緒子さんは中学生の頃に多くの知識を得ることに成功した。水泳選手の記憶を得れば平泳ぎが得意になるとかはなかったらしいが、大抵の物事は手順くらいは知っていた。

 姉弟の間に溝を生んだのは、奈緒子さんが設計したもうひとつのプログラムが原因だった。

 彼女は、大量殺戮を目的にした殺人プログラムを設計した。――ハルナ病のことだ。

 彼女の目的は人類を滅ぼすことそのものだった。

 奈緒子さんは、記憶を引き継いでいく過程で、ある男性の記憶を知った。そして、彼女はその男性に恋をしてしまったのだ。

 他人の記憶を引き継ぐ。その自分が作ったプログラムのせいで彼が狂ってしまった事実と、プログラムがなければ奈緒子さんは彼を知ることはなかった矛盾に、彼女は発狂してしまった。

 発狂した彼女は、人類を滅ぼしたいと願ってしまった。彼女は、記憶プログラムを設計した事実を一部忘れてしまっていたらしい。自分の精神を守るために本能的に記憶を捏造することは、決して珍しいことではないという。ただ、彼女の場合は精神を守りきれてはいなかったようだけれど。

 奈緒子さんの弟は、記憶をインストールされたひとりだった。

 その記憶を蘇らせたのは、中学三年生の頃だった。

 彼はすぐに、自分の姉が何をしているのかを悟った。姉弟の間に口論が増えたのも、この時期のことだった。その内容には想像がつく。研究をやめろ、やめない。そんなことだろう。

 奈緒子さんの弟は、何を言っても研究を止めない姉を止めるために、彼女を殺害するしかないと思ったのだ。

 その手口に利用したのは百円ショップで売っているベルトと包丁という、実に安上がりなもので、手段も巧妙とは言えなかった。彼は右手の包丁で襲うように見せかけて追い詰めた末に、ベルトで首を絞めた。そして、その場を逃走した。自宅付近のバス停からバスに乗り込む姿が、近所の人に目撃されていた。

 彼が身を隠すのが上手かったのか、はたまた警察の捜査が甘かったのか、とにかく彼はすぐには発見されなかった。個人情報が伏せられる少年犯罪でも、ネットユーザーが本気を出せば特定することは難しくなかった。それでも、見つかることはなかった。

 それから数年が経ち、ハルナ病の犠牲者が少しずつ現れた。

 実は望月奈緒子さんは、生きていたのだ。ただし、後遺症から長い昏睡状態だったこともあり、死んだものとして当時は報道された。記事には、警察と報道の隠蔽や虚飾を告発する目的もあった。

 そして、意識を取り戻して回復した彼女は、「氷室遼子」と名前を変えて、ハルナ病を広げることを始めたのだ。

 彼女は看護師として、表向きハルナ病の治療法を探すように見せかけて、裏ではハルナ病に欠陥があったことにより生き残れた人たちを殺して回っていた。彼女は人類を滅ぼすことに本気で、ハルナ病で撃ち漏らした者を自らその手にかけることに躊躇いがなかった。

 そこに、ひとりの男が現れて、彼女を殺害した。今度は間違いなく殺すために、鉄パイプで殴りつけてナイフで刺したのだという。

 男はその場で通報し、駆けつけた警官によって逮捕された。

 現場の警官によると、彼の表情はどこか穏やかなように見える無表情だったと言う。

 この逮捕された男こそが、逃走していた弟だったのだ。

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