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 二〇一一年、十一月のことだった。

 このところ、弟がうるさいと、奈緒子は思っていた。

 少し前までは、甘えん坊の可愛い弟だった。

 五歳離れている。どちらかと言うと物静かで友達を作るのは得意ではなかったが、学校の成績は優秀で運動も苦手ではない。

 末っ子気質が強いからか甘えるのが得意で、友達は少なくても歳上には可愛がられる。悪事を働くようなこともないから、奈緒子も可愛い奴だと思っている。

 反抗期なのだろうか。弟は、しばしば突っかかるようになった。

 だからと言って人様に迷惑をかけたり、暴言を吐いたりはしない。反抗期とは自立の始まりだとはよく言うが、彼は姉がやることが気にくわない雰囲気だった。つまりそれは、自立とは少し違う。

 奈緒子は大学を卒業してから、進学した。自分の成績が悪いと馬鹿にしてくる奴がいたが、最後までそれなりの成績を維持し続けた彼女は、推薦の切符を勝ち取った。馬鹿にしてきたあいつは、留年したらしい。留年自体は勝手にすればいいと思うけれど、人を馬鹿にしておいて成績不良ではいただけない。まるでウサギとカメのようだ。自分がウサギにならないように気を付けないといけない。

 進学してから、実家に戻った。

 学生という看板を背負っていられるうちに、やれることは全部やっておきたかった。子供の頃に作ったものの再現は進んでいた。もうすぐで、全部出来るはずだ。

 一度事故にあって失われたデータは、今度はしっかりとバックアップを取得した。

 今度こそ、成功させないといけない。


「姉さん」

 部屋のドアの前に、弟が立っていた。

「コンビニに行くけど、何か欲しいものある?」

 突っかかってくる時以外は、変わらない弟だった。筋金入りの甘えん坊というのは、普段は意外なほど気配りができるものだ。だからこそ、甘えられて悪い気はしない。

 確か弟がよく読んでいる雑誌の発売日だったなと、どうでもいいことを考えた。

 高校三年生だが、大学は内部進学の推薦入試に合格していたから、勉強はやや余裕がある。この時期でも勉強をしていた奈緒子にしてみれば少し羨ましいが、中学受験で自分の進学先を自分で決めた時点で弟は全てを決めていたのだ。

「アイスがいいかな。バニラのカップアイス」

「姉さん、十二月だよ」

「炬燵にアイス、いいでしょ」

「まぁ、わかるけど」

「一番安いのでいいから」

「わかった」

 弟は肩を竦めた。奈緒子は百円玉を二枚渡してやった。それだけあれば、買えるだろう。

「お釣りで好きなもの買いな。あんたバイトしてないでしょ」

「いや、姉さん。二百円でアイス買ったら、八十円くらいしか残らないから。嬉しいけど、何も買えないよ」

「あんたねぇ」

 奈緒子は苦笑混じりに嘆息した。

 ただ、言われてみると確かにその通りだ。釣銭で好きなものを買えと言ったところで、何も買えない金額だと意味がない。駄菓子屋に行けと突き放したところで、その駄菓子屋が近くにない。小さなチョコレートくらいならば買えるだろうが、生憎この弟は甘いものはあまり好きではないようだった。

「じゃあ、これでどう?」

 百円玉を、一枚増やしてやる。

「さすがにポテトチップスくらいなら、買えるでしょ」

「やったー。姉さん、ありがとう」

 眼鏡の奥で、弟が笑みを浮かべた。本当に十八歳の少年なのかは一瞬迷うものがあるが、弟なりに苦労は多かっただろう。周囲からは期待されていたし、本人に色覚異常があることも苦労する要因にはなったらしい。確か、黒板の赤いチョークの文字はほとんど読めないと言っていた。

「バニラのカップアイスだよな。行ってくる」

「間違えないでよね」

「わかってる!」

 弟が三枚の百円玉を握って廊下を去っていくのを見て、少し甘やかしすぎたなと、奈緒子は束の間後悔した。だが、代わりに買ってくれる弟に文句を言うのは筋ではないだろう。

 弟は、悪い奴ではないのだ。優しいから、つい甘やかしてしまう。世渡り上手と言ってもいい。ああ言うのは出世しそうだ。

 奈緒子が自宅で続ける研究に文句を言うところ以外は、本当によくできた弟だと思ってしまう。

 病棟の一部で研究結果を散布した。あの病棟では、食中毒か何かが集団感染しただけだと思ったことだろう。集団感染と言う点においては、正解だが、食中毒では突然死しない。

 ……弟の方が正しいのだ。奈緒子は人を殺したいだけなのだから。ひとりでも多くの人間を、殺したいだけなのだ。

 唯一恋をした男――天宮知彰に、恋人が言った言葉を、思い出す。


「もし、知彰が自分を犠牲にして世界を救ったとしたら、わたし、きっとあなたに自己犠牲を強いた世界を憎むわ」


 天宮知彰が、この世界に何をしただろう。何の罪もなく人生を狂わされた男が、確かに奈緒子の記憶の中にはいるのだ。

 彼の生き方は、奈緒子が知る幸せの在り方ではなかった。

 本当はもっと陽のあたる真っ当な世界で、恋人と真っ当な幸せを掴めたはずなのだ。一生手放せない享楽になど頼らずとも、生きられたはずなのだ。たとえ、隣にいるのが自分でなくても――会うことさえできなくても、好きな人には幸せになって欲しかった。それだけだったのだ。

 なのに、自分の一番好きな人は、苦しみながら残酷なほど静かに人間らしく狂ってしまった。

「だから、あたしは」

 ディスプレイの前で、独り言ちた。

「この世界を憎んでいる」

 ひとりでも多く殺して、復讐して、滅ぼしたいと願う。その裁きを下すのが、自分ではいけない理由はどこにもない。

 この世界は、まるで、万華鏡のようだ。

 幾度姿を変えようと、中にある硝子玉が変わることはない。見てくれが変わったくらいでは、本質は変わらない。なんて馬鹿馬鹿しくて、救いようがない世界なんだ。

 だが、自分はその万華鏡の風穴だと、奈緒子は思っていた。

 天宮知彰は、確かにイレギュラーだった。何故なら彼は、『その時』の前に死んだのだ。『その時』は、雪が止んでから訪れる。彼は随分と前から肺を侵していたから、いつもと違う理由で死んだのだ。

 もし、来世が分かれたことに原因があるのならば、それは天宮知彰の死因にある。

 天宮知彰は、本人も知らないうちに万華鏡に風穴を開いた。その風穴を開いた奈緒子は、万華鏡を壊すのが役目のはずだ。たとえ何が、それを阻もうとしても。


 部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「姉さん」

 弟の声だ。コンビニエンスストアから、帰ってきたのだろう。

「お帰りなさい」

 彼女は振り返らずに言った。

「姉さん、――いや、こう言った方が、いいかな」

 弟が部屋に入ってきたのが、わかった。不用意に人の部屋に立ち入るなと教えられている弟は普段は、部屋に入ってきたりしない。珍しいことだった。

「久し振りだね、******」

 奈緒子は、振り返った。

 弟の右手には、包丁があった。その無表情は、どこまでも猟奇的で、恐怖が湧いて溢れた。

「世界のためなんだ。姉さんを、殺さなきゃ」

 踏み出してくる弟の口調は、冷静だった。瞳の色が光った気がするが、蛍光灯に反射しただけだろう。

「僕は、犠牲になれるんだよ、姉さん」

 奈緒子は椅子から立ち上がる。じりじりと距離を詰めようとする弟を避けようとした。

 望月奈緒子が発狂するのは、何度目のことか。

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