緋/Rouse of Avenger

7 - 1

 煙草の匂いが漂う喫煙席で、ケーキを頬張っていた。

 モンブランの中に入っているさくさくしたメレンゲが、望月もちづき奈緒子なおこは好きだった。

 青海あおみ優征ゆうせいは、甘ったるいガトーショコラを口に運んでいた。奈緒子はチョコレートが嫌いなわけではないが、口の中に味が残るような濃いものは苦手だった。それは、甘かろうが苦かろうが変わらない感覚だ。

 奈緒子は氷が溶けかけたアイスコーヒーを流し込んだ。空いた皿を店員が回収していく。

「イレギュラーって言うものを、奈緒子ちゃんはどう捉えてる?」

「イレギュラー?」

 あまりの唐突さに、奈緒子は思わず復唱した。

「うん。イレギュラーってのは、まさしく俺らのことじゃないのかと思ったんだ。俺と君は同じ人間を前世とする、って、輪廻転生の概念から考えてもあり得ない話だし、これまで一度もなかったことだ」

「うーん。あたしは、個人的にはイレギュラーって言うか、バグなんじゃないかなって思うんですけど」

 奈緒子は首を捻って、思考を巡らせた。

「本当に、あり得ない話だったんですか」

「え?」

「今までなかった、もしくは、今までにもあったかもしれないけれど、誰も発見できなかった。それだけだと思います」

 目を丸くする優征に、奈緒子はゆっくりと話し出す。

「先輩、反例がひとつでもある命題は偽になるんですよ」

 たとえその反例が偶然見つかったものだとしても、偽は偽であり、その本質は変わらない。

「命題『ひとりの人間に対する転生はひとりである』は、偽になった。それは、あたしたちがその反例になったからです。誰が証明しようが、それは変わらない。そもそも概念の話なら、あくまでも宗教や文化からなる思想だから、何か根拠があるわけでもない。それに、複数の転生は過去にも起きてたけれど、それに本人が気付いていなかったってことも十分考えられますよ」

 前世の記憶を持っているのは、普通なことではない。それは、前世の記憶が教えてくれたことだった。だから、あえて誰かにカミングアウトすることは、考えなかった。

 奈緒子も優征も、同じ前世を共にしているだなんて、言われるまでは互いに気付かなかっただろう。

「それに、たとえイレギュラーだとしても、それが起こる原因はどこかにあるはずです」

 奈緒子はそう呟いて、アイスコーヒーを軽く口に含めた。もう三分の一ほどしか残っていないから、氷が透き通って見えた。

「たとえば、シュレディンガーの猫の確率解釈は、箱の中に猫が一匹だけ入っていることが前提です。先輩。もし、箱の中の猫が妊娠していたら? あたしたちが誰もそれに気付かなかったとしたら?」

「箱の中で猫が出産すれば、生きている猫と死んでいる猫が、どちらもいる可能性が考えられる」

「そうです。この場合のイレギュラーの原因があるとしたら、猫が妊娠していることに誰も気付かなかったことです。猫の妊娠期間は短いので、実験した際の状況によっては決して非現実的とは言えない。……奇蹟なんて呼ばれるものは、往々にして、変でもなんでもない物事がきっかけだったりするものです」

「奈緒子ちゃんは、俺たちが、命題『ひとりの人間に対する転生はひとりである』の反例になった原因は、何だと思う?」

 奈緒子は、赤い箱から煙草を一本引き抜いて、呟いた。気が強そうな色をした赤い薔薇が、煙草にも描かれている。

「根拠はないですが」

 煙草に、火を点ける。

「天宮知彰にあるだろうと」

 それから、ゆっくりと気怠げに吹かす。

「そうすると、あたしたちよりもむしろ、天宮知彰がイレギュラーって解釈はできますよね。彼がバグの原因を作ったって言うか。彼の人生のどこかに、エラーコード吐いちゃうような一行があったのかも」

 言いながら、奈緒子はどこかでそれが何なのかは予想ができている自分に気付いた。

「まぁ、俺らがどう解釈しようと、たぶん同じ時期に同じ死に方をするんだろうから、きっとそう簡単には再現できないよな。あの人の人生を再現するの、どう見ても無理だろ」

 その言い草に、奈緒子は思わず苦笑した。確かに、彼の人生と同じことをするのは相当難易度が高そうだ。

「無理ですね。まず、茶髪ロングで高身長美人、しかも家庭的で凄まじく一途な彼女を、どこでどうやって捕まえるんですか」

 奈緒子が冗談めかして言ってのけると、優征が無理、と笑い飛ばした。

「奈緒子ちゃんは、これからどうするつもり? あと十二年あるけど」

「うーん。今はそんな先のことより、統計学の課題の方が大事です」

「わかる。俺も新人賞の方が大事だ」

「先輩は、書き続けるんですね」

「まぁね。作家になりたいのは、本当だから」

 はっきりと自分のやりたいことを見つけ出して、この世界で生きることを全うしようとしている優征が、奈緒子は少しだけ羨ましいと思った自分に気付いた。ただ、その羨ましさは、隠した方がいいような気がした。

「先輩は、書き続けた方がいい気がします。だって、書くのやめたら、先輩はただの変人になりそうだもの」

「酷いな。奈緒子ちゃんより、普通だろ」

「酷いのはどっちですか」

 奈緒子の切り返しに、優征が吹き出す。優征は、本当は常識的なのに、何故か変人にしか見えないのだ。

「ねぇ、奈緒子ちゃん」

 何でもないことのように、優征は切り出した。

「あの十二年のうち、一瞬でいいから、俺のものになってよ」

 奈緒子は、静かに首を左右に振った。

「不毛だよ」

 煙草を灰皿に押し付けて、潰した。煙が立ち上る。換気扇に吸い込まれる前に、溶けて消えた。

「誰かを好きになることを不毛とか言ったり、生産性を問うのは、筋違いです」

「だけど、君は」

「黙ってください」

 彼女は立ち上がり、伝票だけ取り上げて、歩き始めた。

「奈緒子ちゃん」

 優征の声には、答えなかった。彼女は振り返らずに、喫茶店を後にした。

 彼の言葉が間違っていないことは、奈緒子にだってわかっていた。

 だが、何も知らない人間に、その苦しみと痛みと切なくて甘いものを知らない人間に、何を語る資格があるだろう。

 前世の自分に、恋をした。

 叶うことはない。伝えることもできない。そして、会うことはおろか、相手に自分の存在を知ってもらうこともできない。

 それは確かに、優征の言う通り、不毛なのかもしれない。けれど人間の感情は、彼が言うほど簡単に変えたり断ち切ったりできないものだ。だからこそ、人は道ならぬ恋というものに堕ちてしまうのではないか。そして、人の感情や欲望は、倫理や理性などと言うものを簡単に突き破ることがある。

 優征は、明るい先輩で、下心はあっただろうが優しい人でもあった。嫌いではない。だけど、違うのだ。あの人とは。

 奈緒子は、彼にはもう会わないだろうと確信していた。

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