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 時間通りには荷物をまとめて、外に出た。

 外に停めていた車のそばに、桐嶋さんは立って待っていた。

「遅刻だ」

 近付くと、桐嶋さんはいつもの態度で言い放った。

「時間通りです」

「黙れ。僕が遅刻だと言ったら、遅刻だ」

「理不尽です」

 いつもの言葉といつもの抗議に、わたしはちょっとだけおかしくなった。

 荷物はトランクにしまわれて、わたしは小さなバッグだけ持って、後部座席ではなく助手席に座った。

 エンジン音が鳴る。車が、走り出した。

「桐嶋さんは、氷室さんだって、わかってたんですか」

「施設の女性の部屋には鏡があると吹き込んだのは、あの女だ。それだけで、疑うには十分だ」

「やっぱり、そうだったんですか」

 わたしは、しばらく考えた。

「氷室さんは、どうしてこんなことを」

「しばらく、機関でハルナ病の資料を読み漁っていた。機関の中でも機密事項だから、多少苦労はしたが。その中でわかったことが、いくつかある」

「それは、わたしは存在さえ聞いちゃいけないことだと思うんですけど」

「そのうち明るみに出るさ」

 道路は渋滞はしていなかった。目の前のバスが停まったので、ブレーキがかかる。バス停から何人かが乗り込んだ。

「明るみには、自分で出すんじゃないんですか。証拠なんて引き出せばいいって、聞いたことがあります」

 わたしの言葉に、桐嶋さんが苦笑したのがわかった。バスが走り出すのに合わせて、アクセルがかかる。

「君らしい発想だ。頼むから、犯罪に手を染めたりするなよ」

「桐嶋さんは?」

「僕は特に問題ない」

 彼は、あの日、嘘と隠し事は得意だとバーで言い放った時の、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

「桐嶋礼司は、偽名だ」

 一瞬の間があった。わたしは「そうですか」とだけ答える。

「年齢も、今年で二十八歳と言うことになっているが、実際には二十五だ」

「そうですか」

「もう少し驚け。一応衝撃の告白をしてるつもりだ」

「……えっ、なんだってー」

 わたしはわざとらしく、棒読みで感情が一ミリもないような反応をして見せた。

「ウザいな」

 桐嶋さんは、そう呟いて笑った。わたしも思わず釣られて笑う。

「君にとって、名前や年齢を偽っていると言うのは」

「まず、年齢知らなかったし。それよりも大事なことがたくさんあるので」

「まあ、その言い分はもっともだな」

 桐嶋さんは、ハンドルをゆっくりと切った。

「それで、わたしはこれからどこに連れて行かれるんですか?」

「僕の自宅だ」

「マジですか」

「冗談だ」

「びっくりするほど冗談に聞こえないんですけど」

「コネクティングで、ホテルの部屋を予約しておいた。ふた部屋が中扉で繋がっていて、行き来できるようになっている」

 プライバシーに配慮した結果、それが最善なのだろう。保護しなければならない都合上、あまり離れてしまうと意味がない。

 いつの間にか、都心に入っていた。池袋という地名が視界に入ってきた。

「二十時か。何か食べたいものはあるか?」

 わたしは少し考えて、「あ、麺類が食べたいです」と答えた。

「パスタとかか」

「そんな感じです」

 しばらく走ると、ホテルの駐車場に停車した。チェックインして荷物を降ろしてから、外に出た。

 外には、既に桐嶋さんの姿があった。遅刻だと言われる前に、わたしが声をかけようとした時、彼は口の中に何かを入れて水を飲み干していた。

 その時、彼の瞳が金色に光った。

「僕は、ハルナ病β型だ」

 わたしが近づいたのに気付いた桐嶋さんが、呟いた。

「今飲んだのは、吸血衝動を抑える薬だ。吉岡美月が協力してくれたおかげで、開発できた。おかげでかなり楽になった」

「開発できるまでは、どうしてたんですか?」

 わたしが歩くように促したのを見て、桐嶋さんも歩き出した。

「自分の血で、誤魔化すしかなかった。指を少し切った程度のものでも、気休めになる」

「発症しなかった一例目は桐嶋さんと言うのも、嘘なんですね」

「β型の人間は、治ることはないが、α型にはならない。それだけのことだ」

 それから二、三歩歩いてから、桐嶋さんが呟いた。「ちなみに一例目だと言うのは、周りの勝手な勘違いをそのまま利用していただけだ」

 わたしは苦笑した。氷室さんも、勘違いしているかもしれない。

「この店でいいか?」

 桐嶋さんが、イタリアンレストランの看板を指さした。この話題はここで終わらせようという意思も垣間見えて、わたしは頷いた。彼の瞳に、あの日、美月に感じた狂気のようなものは感じられなかった。

 それは、美月が彼女なりに生きた証なのかもしれない。


 部屋で話しておきたいことがある、と、レストランで桐嶋さんに言われていた。

 誰かが見ているような場所では話せないと言う意味が見て取れて、わたしは指定された時間までシャワーを浴びたり髪の毛を乾かして過ごした。扉の近くまで、椅子を持ってくるように言われていたので、それに従った。

 時間になった。

 内扉をノックした。桐嶋さんが扉を開く。桐嶋さんも、同じように椅子を扉の近くに置いていた。互いに部屋に入らないように、長話をしようと言うことか。配慮なのか、いまいちわからない。

「話、と言うのは?」

 わたしは途中で買っていた麦茶を取り出して、尋ねた。

「昔話のようなものだ」

 桐嶋さんは、そう切り出した。

「ある少女がいた。周囲からは平凡な少女だと思われていたが、彼女は何故か脳科学の研究に没頭していた。少女はある日、ひとつの研究を完成させ、実験を始めた。実験は成功だったが、同時に事故が起きたことで、結果を紛失してしまったんだ」

 話が見えてこなかったが、そのまま促す。

「幸か不幸か、その紛失事故のおかげで、彼女の行動は人の目に触れることがほとんどなかった。彼女は結果を復元させるなり、多くのバックアップを残しながら、その結果を少しずつ広げた。

 少女が大人の女性になった時、ひとりの少年が彼女の目的に気付いて、実験を止めさせようとした。彼女の弟だ。しかし、彼女は弟の話に聞く耳を持たなかった」

 桐嶋さんはそこまで一気に話して、一度言葉を切った。

「ハルナ病は、殺戮目的で生み出されたものだ」

 桐嶋さんは、話題を変えるかのように話を続けた。ただ、その女性の実験というのがハルナ病のことなのだとは、想像がついた。

「発症すると、本人も忘れていたような過去が全て蘇ったりすることで精神的苦痛が急激に増幅して、死ななければならないという強い衝動に抗えなくなる。端的に言えば、脳が死ねって命令するんだ。瞳が赤く光ると言うのは、その時に脳が光らせる。周りの人間は、その光を脳への信号としてキャッチする。あとは、わかるな」

「事故で紛失したって言うのは、わたしの母が運転中だったことですか」

「そう。七瀬遙さんは、周囲の誰にも感染させることなく、亡くなった」

「β型は? あれ、死なないですよね」

「そもそも、ハルナ病には、構造上に欠陥がある。色覚異常や光の屈折で赤ではない色に見えたら、違う信号として脳がキャッチしてしまう。その結果生まれたのが、β型と言うわけだ。ちなみに僕には、色覚異常がある。君が赤だと言う例の光は、僕には暗い緑に見えた」

 桐嶋さんは、持っていたペットボトルの水を飲んだ。β型特有の渇きを隠す必要がなくなったから、彼は堂々と水を飲んでいた。

「さて、話を本題に戻そう。ハルナ病は、人を殺す目的で作られたと言ったな」

「はい。ええと、ある女性がそれを作って、弟が止めようとしたと」

「そうだ」

 桐嶋さんが、頷いた。

「そうして僕は、姉を殺した」

 彼が喫茶店で言った言葉を思い出す。

 僕のような、人殺しは、やめておけ。

 桐嶋さんの表情は、完全な無だったが、左手が震えている。彼は左利きだから、きっとその手で。

「僕はそれから、身分証を偽装して桐島礼司になった。結構長い間、なかなかクズな生活をしていたな。やがて、ハルナ病と名付けられた、その感染症の研究機関を知った。機関には、運転手のバイトとして入って、紆余曲折あって今に至る。ハルナ病の根絶を目指しながら、姉の計画に加担している人間を探していた」

「それが、氷室さんだったんですね」

 桐嶋さんは、頷いた。

 氷室さんがハルナ病から生還した人を殺して回っているのは、彼らはα型で死ぬことがないからだろう。

 ただ、そこまでして桐嶋さんの姉や氷室さんが人を殺す理由が、よくわからなかった。そして、桐嶋さんが彼女をどうするかは、聞いてはいけない気がした。

「七瀬。わかったら、この件からは手を引け。明日チェックアウトしたら、適当に時間を潰してから家に戻れ」

「桐嶋さん、わたしは」

「悪い男に引っかかったとでも思っておけ」

 思わず立ち上がっていた。前に一歩踏み込んでいた。

「桐嶋さんが、好きです」

 口をついて、言葉が出ていた。

 他に言うべきことが、いくらでもあった。桐嶋さんが悪い人だとは思わない。悪い男に引っかかったのならば、引っかかったままでい続けたかった。けれど、何を言ってもなんだか上辺だけの言葉になるような気がして、言えなかった。

 不意に、右腕を引っ張られるのを感じた。その力が強くて、思わず躓いた。わたしは左腕を伸ばして自分を支えようとしたが、その手は空を切っていた。手首を掴まれる。気付けば、目の前には桐嶋さんの顔があった。

「一瞬だけでいい」

 言葉の意味は、わからなかった。それでも、なんとなく言いたいことがわかったような気がした。

「その一瞬を、君の一瞬を、僕にくれ」

 どちらからともなく、唇が重なった。半ば強引に抱きしめられた。

 その晩、彼は、わたしを抱いた。

 閉ざされたカーテンの隙間から、まだ灯りを落としていないビルの光が見えた。それはまるで、星のようだった。

 流れ星のように、鮮明な、刹那だった。

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