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 二〇一八年、八月。

 旧暦では秋になっているというのに、まだまだ暑さが通り抜ける気配はなかった。

 喫茶店での別れから二週間、桐嶋さんは姿を消したままだった。わたしは心の中に靄がかかったような心地で、それでも平和で穏やかな時間を過ごしていた。そう、彼がいない日常というのは馬鹿馬鹿しくなるほど穏やかなのだ。

 テレビでは平成の最後に、未解決事件のニュースが流れていた。

 七年前に、当時十八歳の少年が、実の姉を絞殺して逃亡したらしい。その逃亡した弟と言うのは、今尚捕まっていないと言うのだ。

 平成のうちに解決させたいと、刑事らしい人が目撃情報を持ちかけた。殺したのが身内だからか、親族などは出ていないし、少年犯罪だから時間が経っても弟の名前は出ない。そう言うことは、あと一年もしないうちに平成が終わるからとかではなく、常日頃から訴えないと風化してしまう気がする。

 あるいは、それは、わたしにとって他人事でしかないからかもしれない。誰かが亡くなったところで、残酷だけれど他人事でしかない。命の大切さなんて人は簡単に言うけれど、それを簡単に語れるほどに、人の命は軽いのだ。

 わたしはそんなことを考えながら、アルバイトのために家を出た。


 わたしは、昼過ぎに帰宅した。

 父の店はランチタイムから夕方の隙間時間を休憩時間にしているから、店は閉まっていた。正面から入れるのは、身内の特権かもしれない。

「お、咲」

「ただいま」

 店に入ると、父が店の中で売上の集計をしていた。

「お帰り。おまえに、客だ」

 見ると、ふたり掛けの席に女性がひとり座っていた。麦茶を出してもらっているようだ。髪の毛をお団子にまとめている後ろ姿が見えた。知っている人だ。

「久しぶりね。七瀬さん」

「氷室さん」

 氷室遼子。施設にいた看護師の女性だ。施設の外で会うのは、初めてのことだ。

「お久しぶりです」

 わたしは、氷室さんの前の椅子を引きながら声をかけた。

「すっかり大人になったわね」

「そんなことないと思います」

 わたしの物言いに、氷室さんが少し苦笑した。

「それで、何かあったんですか」

 氷室さんが、麦茶を一口飲んだ。

「吉岡さんのこと、桐嶋君から聞いたでしょう。あたしからも、話しておこうと思ったのよ」

 彼女の雰囲気は、あまり変わらなかった。ただ、わたしにとって氷室さんは、一度話を聞きたかった相手だ。

「氷室さんは、美月も担当していたんですか?」

 わたしは、慎重に言葉を選んだ。「美月のお母さんから、氷室さんの名前を聞いたんです」

「初めは、違ったんだけどね」

 彼女は肩を竦めた。「あの子には別に担当がいたのよ。あなたが別の施設にいるって聞いて、どんな様子か聞きたがったみたいで。それで、週に一回だけ」

「そうなんですか」

「元々の担当とは、性格的に合わなかったのかもね。難しい子だって聞いてたけれど、見た目よりもずっととっつきやすい子だったのは、よく覚えてるわ」

「そう、ですね。頭も良くて、明るくて、誰にでも分け隔てなくて。わたしなんかが友達でいいのかなって、よく思ってました」

 それはあまり人には話したことがない、本音だった。

 自分には釣り合わないという負い目を、わたしはいつも感じていた。わたしには、欠けているものばかりだ。

「そんなものよ」

 氷室さんは、否定しなかった。

「友達も恋人も、そう言うものよ。尊敬できる一方で、引け目を感じてしまう。自分が足手まといになってないかとか、考えたりするのよ。けど、案外、相手も同じことを思ってたりするかもしれないわよ」

「そうでしょうか」

「そんなものよ。人って、自分にとってはなんでもないようなところで、他人から尊敬されてたりするわ」

 だとしても、わたしにはもう、彼女にそれを聞くことができない。それがわかっているからか、氷室さんはこれ以上は何も言わなかった。

「氷室さん、聞きたいことがあります。いいですか」

「いいわよ」

「美月の最期のことです。彼女は、鏡に映った自分の青く光る瞳を見て、他の人のように倒れたと聞いています」

「そうよ」

 氷室さんの表情が、柔らかいものから、どこか冷めたものに変わった。彼女が何か言う前に、わたしは素早く畳み掛けた。父が、向こうでこちらを窺っているのが、視界の端に見えた。

「わたしがこれを聞くのは、美月の様子は氷室さんから連絡を受けていたと、聞いたからです。……でも、おかしいですよね。美月の直接の担当ではないみたいですし、週に一度会うだけの氷室さんが彼女の家族に頻繁に連絡を取る立場だったなんて」

「そう言うこともあるわよ、就職すればわかるわよ」

「大人の事情?」

「簡単な言葉でまとめれば、そうね」

 わたしの物言いに何か気付いたのか、父が物音を立てずに立ち上がったのが、わかった。粗暴な父が、そんな動き方ができるとは思わなかった。

「それなら、氷室さん。もう一度聞きます。美月は、鏡に映る自分の青く光る瞳を見たんですよね?」

「そうよ。桐嶋君からも聞いたと思うけれど」

「鏡を? β型発症者の施設の部屋には、持ち込めないのに?」

 氷室さんは、その言葉に、呆れたように嘆息した。

「七瀬さん」

 綺麗な人の表情が、歪んだ。その眼は、明らかに敵意があった。

「あなた、桐嶋君に何を吹き込まれたの?」

「わたしが自分で気付いて、桐嶋さんに指摘したことです」

「もっと早く、手を打っておけばよかったわ」

 氷室さんが立ち上がる。がたりと、音が鳴る。彼女の手に、折り畳みのナイフがあった。もう気付いていたから、わたしはすでに立ち上がっていた。しかし、彼女の手は届かない。

「娘に刃物が突きつけられて、止めねぇ親父は男じゃない」

 父が、氷室さんの腕を掴んでいた。彼女の抵抗は早かった。空いた手で父を殴ると、たじろいだ隙にナイフを構え直す。

 氷室さんは父に構わずに、わたしにナイフを突きつける。その直後に、誰かに腕を引かれた。身体が横に逸れて、氷室さんのナイフは空を切った。父が、その隙に氷室さんを押さえつけた。

 わたしの腕を掴んだのは、桐嶋さんだった。

「間に合ったな」

 桐嶋さんが、そっとわたしを背後に隠すように動いた。

「どうして、あたしの居場所が」

「業務上、外出をしないあなたが行く場所なんて、α型に引っかからなかった人の場所くらいだ。七瀬、さっさと警察呼べ」

「は、はい」

 わたしはスマートフォンを取って、通話した。

 父が押さえつけている間に、警察が現れた。手に持っていたナイフが決定打になって、氷室さんが拘束される。店だったから、強盗か何かだと思われたのだろう。

 桐嶋さんが身分証を警察官に見せた。彼はわたしがハルナ病の研究参加を断ったところ、氷室さんが激昂して突然ナイフを出して脅したから、父が拘束したと説明する。半分どころかほとんど嘘でしかなかったが、警察はその説明で納得したらしく、氷室さんだけを連れて去って行った。

「参考人聴取で連れて行かれると、面倒だ」

 桐嶋さんは、嘘を言った理由をそう説明した。

「とは言え、あの女はすぐに解放されるだろう。我々の機関は、少々強引なことをすることを君も知っているだろう」

 わたしが最初の施設に監禁されたことを、言っているのだろう。

「身分を明かしたのは何故だ?」

 父がぶっきらぼうに呟いた。

「あの姉ちゃんの罪を軽くしたんだろ?」

「彼女が先に身分を明かしたら、何を言うかわかりませんから。僕が先に身分を明かしたことで、この場の安全確保のために彼女が拘束されただけになった。これが逆だったら、僕も脅したことになるとか、そう言う可能性が出てきます」

「なるほど、まだマシな方を選んだってことか」

 桐嶋さんが頷いた。父は納得したように、質問を重ねた。

「うちの娘が危険な目に遭ってる理由は、何だ?」

「僕にも理由まではわかりません。ただ、彼女はハルナ病を生還した人の命を狙っているようです」

「生還?」

「おおまかな言い方をすれば、α型にならなかった人、です。それは娘さんも含まれるし、そして吉岡美月も」

「そうすると、咲は」

「いずれ、また命を狙われると思います。今まで無事だったのが、不思議なくらいだ」

 桐嶋さんの即答で、しばらく沈黙が流れた。氷室さんがわたしや美月の命を狙う理由を、彼は本当は知っているような気がした。

「咲の安全を確保できる場所は、あるか」

「なくもないです」

「そこに、しばらく咲を避難させてやってくれ」

 桐嶋さんの表情が変わったのがわかった。

「今はたまたま休憩中だったが、店を開いてる間は、家でもどうにもならんこともある。死なれるよりは、ずっといい」

「お気持ちはわかります。ですが」

「しばらく、だ。ずっとじゃねぇよ」

 父は、反論を聞く気はなさそうだった。わたしは、どういうわけか取り残されたような感情は抱かなかった。

「咲には、やるべきこともあればやりたいこともある。己の芯を強く持っている。それを邪魔することは、誰にもさせねぇ」

「わかりました」

 桐嶋さんが諦めたように呟いた。

「なるべく早く、ご自宅に戻れるようにします。七瀬、急で悪いが荷物をまとめてくれ」

「えっと、ちょっと時間をください」

「所用を済ませるので、十八時に迎えに来る」

 三時間後だ。わたしが了解の意を返事すると、桐嶋さんは店を後にした。

「お父さん」

「ああ、わかってる」

 父は、わたしが何かを言う前に頷いた。

「あの男も、何か隠してる。いつでも逃げられる用意は、しておけよ」

「わかった」

 わたしはそれだけ頷いて、部屋に向かった。

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