流星

6 - 1

 カラン、と、アイスコーヒーの氷が溶けて動く音が響く。

 喫茶店には変わらずジャズが流れていた。他の客は談笑をしていたりウェイターに何か注文をしていた。

 ただ、ソプラノサックスの落ち着いたメロディも他の客の声も何故だかずっと遠いものに聞こえていて、わたしたちの間に流れる沈黙は更に濃密なものに感じられた。

「施設の個室には鏡がない、か」

 桐嶋さんが、ブラックのアイスコーヒーのストローを軽く回してから呟いた。

「知っていると思うが、僕はあの施設の談話室より先には、入ることはできない。権限がないからだ。だから、実は内部の構造はよく知らないんだ。内部の自販機で飲み物が手に入るとか、最近になって自販機に冷たい紅茶が欲しいと要求されるまで知らなかった」

「つまり?」

「女性が入る施設の個室には鏡がある。そう聞かされれば、そう言うものかと思うことしかできない。君には言い訳にしか聞こえないだろうが、あえて僕から言えるようなことはそのくらいだ」

 何を言っているのか。

 わたしは桐嶋さんを、睨みつけるように見据えた。彼は観念したように左手を挙げて、「視線が痛い」と呟いた。

「僕も、話さないといけないことがある。僕の推論が正しければ、今の話にも関連していると思う」

 話すことは予想ができていないわけではなかったが、わたしは黙って先を促した。

「ハルナ病を発症する前に経口摂取する、ワクチンのことだ」

 やはり、その話だった。わたしには、ハルナ病への抗体があるのではないかと思っていたのだ。念押しならば、桐嶋さんの口調は急かすものではなかったはずだ。

「君も疑問に思っただろう。君は、三年前にもあれを摂取している」

「いつ、どこでですか」

「隔離部屋に置いた、保存食だ。僕が開発したものだが、当時はあれが効くという保証がなかった。誰も使ったことがなかったんだ。その前に発症する人もいたし、あの施設で何も口にしない人もいた」

「わたしは、薬物実験に使われたってことですか」

「君の父親の了承は、とってあった」

 そんなわけがないとは、言えなかった。

 薬を飲まなければ助からないが、飲めば助かる可能性が出る。父にもわたしにも、悪い提案ではないはずだ。わたしが父の立場に立ったとして、やめてくれだなんて言えるだろうか。その可能性に、少しでも賭けたいと思わないだろうか。

「あの時、僕が君の父親に殴られたのは、君を酷いところで監禁しただけでなく、彼がハルナ病が何かを知っていたからだ」

「でも、ハルナ病は、限られた人しか知らないんじゃないんですか」

「君の父親は、もともと、その限られた人のひとりだったとしたら?」

 思考が止まった。ただ、確かにしばらく施設で過ごすことになった時も、父は意外なほど、それをすんなりと受け入れていた。そして、そう言われると、それには心当たりがある。

「……七瀬ななせはるか

「そうだ。十七年前に、ハルナ病α型を初めて発症した女性の名前で、君の母親の名前だ。車の運転中に発症して、そのまま帰らぬ人となったんだ。同時に事故を起こした。誰もが事故だと思っただろう。君の父親以外は」

 わたしが、母が死んだものと同じ病気になったのだとしたら。父が話を聞かされて思わず目の前の人を殴った気持ちも、新薬を飲ませる決断をした気持ちも、わかるような気がした。

「話を戻すが、いいか?」

「はい。ワクチンをわたしに使ったと」

「そうだ。安全性は確認されつつあるが、副作用に一時的な脳貧血になると言うものがある。ならないこともあるだろうが、もし辛くなったら言ってくれ」

 心当たりのある副作用に、わたしは頷いた。あの時、わたしがそうなったことで、その副作用が確認されたのかもしれない。

「つまり、わたしには、ハルナ病に対して、生まれ持った抗体があるわけではなかったと言うことですか」

「その理解で十分だ」

 桐嶋さんが、左手の指先で軽くストローを挟んでアイスコーヒーを口に含んでから、頷いた。

「さて、君は、僕の話がおかしいと思っただろう」

「思いました」

「言う必要もないかもしれないが、あえて言おう」

 桐嶋さんが、一呼吸置いた。わたしは何も言わずに、ただ続きを聞いた。

「ワクチンが効いたひとり目の人間というだけで、ω型の研究に呼ばれるのは、違和感がある」

「桐嶋さんは」

 わたしは、氷が溶けて薄くなったコーヒーを一口啜る。

「何故、わたしに研究に参加するように言ったんですか」

 上司に言われたからとか、そんなことを言うのだろうとわたしは考えた。だが、どこか遠い目を見るような表情をした桐嶋さんの答えは、あまり予想できないものだった。

「脅されたからだ」

「……えっ?」

「機関には、弱みを握られている。従う他なかったんだ。君が自分の言葉で断ってくれて、よかった」

 どう言う弱みかは、言う気はなさそうだった。ただ、握られて困るような弱みは、簡単に話すべきではないだろう。簡単に話せるような弱みなんて、握られたとしてもちょっと恥をかく程度のものだ。

 そう言うのは、時が来たら否応無く知ることになる。そして、秘密と言うのは、時として命より大事なことがある。

「聞かないんだな」

「どうしても話したいなら、仕方なく聞いてあげますけど」

「いや、それならいい」

 わたしの物言いに呆れたように、桐嶋さんが苦笑した。「そこまでして話したいわけじゃない」

「ですよね」

 わたしは肩を竦めて、こめかみに軽く触れる。

「大丈夫か?」

「平気です。話を続けましょう」

 桐嶋さんは少し疑うように眉を顰めたが、わたしに休む気などないとわかって諦めたようだった。おそらく副作用を気にしたのだろうけれど、そもそも体調が悪いわけではない。

「それで、桐嶋さん。機関は、わたしに何の用があるんでしょうか」

「その口振りだと、ω型の存在自体を疑っているな。まぁ、そうだな。僕も君と話していて、疑念が強くなった」

「疑念?」

「症例として、吉岡美月にしか症状がなく、他人には感染せずに死なせてしまうならば、彼女が死んだ今となっては、どう研究するんだろうな」

 わたしは思わず、確かに、と頷いてしまった。

「遺族に引き渡して火葬された以上、解剖なんてできない。生きてもないし遺体もないのに、直属の研究員でもない君に、何ができるんだ。何もできないわけじゃあないが、わざわざ指名する理由は見当たらん」

「美月の遺体で、もうひとつ気づいたことがあります」

「言ってみろ」

「顔に、かなり派手な痣がありました」

「痣?」

「ええと、確かこの辺だったかな。お化粧してたから、もうちょっと違うかも」

 わたしは、右手で自分の目尻から眉の辺りを指さした。

 桐嶋さんが、表情を変えた。しばらく何か考えている様子を察して、わたしは黙って待つことにした。

「君はもう、この件に関わるな」

 ややあってから、桐嶋さんが言ったのは、こんな一言だった。

「どうしてですか」

「君の命に関わるからだ」

 まさか、と言う言葉が喉から出かかった。

 だが、確かにわたしは、これ以上ハルナ病に縁を作るべきではない。桐嶋さんがいつでも助けてくれるわけではないのだ。次にα型を見て、わたしは無事でいられるだろうか。その時点で、わたしの命はもう関わっている。

「僕とも、もう関わらない方がいい」

「桐嶋さん」

「僕のことはやめておけ」

 言葉が出てこなかった。まだ聞きたいことがある。言いたいこともある。だけどそれは、誰のためになるのだろう。何のためになるのだろう。

「僕のような、*****は、やめておけ」

 桐嶋さんはそれだけ言って、伝票を持って立ち上がった。

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