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 二〇二〇年、十二月。

 終焉が訪れるまで二十日を切る中、香織の葬儀が終わった。

 彼女に、身寄りらしい身寄りはいない。家庭環境が複雑で、親族とは絶縁したのだという。無縁仏にならずに済んだのは、知彰がいたからだろう。

 知彰は、身寄りらしい身内はふたりだけいる。事故で亡くなった叔母の夫と、その娘である。

 従妹は、来年の春に大学を卒業して就職する。卒業も就職も内定しているらしく、今はアルバイトに励んでいた。将来的に一人暮らしをすることもあるだろうし、職場や仕事によっては服装も趣味だけで選べなくなることが多い。何かと金は入り用だろう。

 義叔父とは、長らく疎遠だったが、香織が倒れた時をきっかけに、交流していた。家事は彼女に教えてもらえたが、葬式の手配はさすがにひとりではわからないことだらけだった。

「知彰」

 義叔父は、ぶっきらぼうだが心根は優しい男だった。

「おまえ、これからどうするんだ」

「ひとりでやってみるよ。香織にあれこれと叩き込まれたしな」

「人はひとりじゃ、生きていけねぇぞ」

 義叔父は、奥で事務を手伝っている従妹の方を見やった。

「人は、生きてる奴が側にいねぇと、生きられねぇんだよ。いなくなった奴を心の中から追い出せなんて言わねぇし、ひとりになりたい気持ちも、否定はしないけどな」

「ああ、心に留めておくよ」

 知彰の態度が話半分だと気付いたのか、義叔父は眉を顰めた。ただ、彼はそれ以上何も言わなかった。

従兄にいさん」

 最後に従妹が、声をかけてきた。久しく疎遠だったが、物静かな女の子は優しげな女性に成長していた。もう大人と言っていいだろう。

「何かあったら、いつでも言って。何もできないけど、話くらいなら聞けると思う」

「ありがとう」

「わたし、隠し事や嘘が得意な人の話を聞くの、得意なの」

 口元だけで曖昧に笑った彼女の言葉が冗談なのか本気なのかは、わからなかった。心理学の類を勉強したわけではないらしいが。

 ただ、その言葉はどうにも意味深だったから、なんとなく記憶に残った。


 二〇二〇年、十二月十六日。

 そして、なんでもないように訪れたその日には、人の気配がなかった。

 タブレットの画面には、何度か義叔父から連絡を告げる通知があったが、それに適当に返信をくれてやるだけだった。従妹からは一度連絡してきただけで、彼女はそっとしておくつもりのようだった。

 もし、長く生きる未来があるかもしれないとしたら、彼らを頼ったのかもしれない。義叔父の言う通り、人は孤独を感じることはあっても、ひとりで長く生き続けることはできないのだ。

 残された刻限は、以前のように知彰を苛むことはしなかった。そこにあるものとして、ただ目の前に聳え立つだけだ。

 ひとりで眠るセミダブルベッドは、無駄に広くて、そして寒かった。それでも、眠ることはできた。

 香織に叩き込まれたから、だいたいの家事はそつなくこなしていたが、やはり料理は上手くできなかった。キッチンの片隅には、彼女が使っていたバレッタが今でも置いてあった。ただ、不思議なほど、炊事も洗濯も掃除も当たり前にこなしていた。

 知彰は香織に依存していたし、香織もまた知彰に依存していた。彼女が死んだ後もなお依存する自分は、情けなくもそれが一番幸せなような気がした。

 孤独だが、そこには疑いようのない、生活感があった。

 自分の死は誰がどう見ても孤独死なんて言われるものだが、知彰は自らそれを望んでいる節があった。従妹は、それを何となく察していたのかもしれない。後になって、そう思い始めた。

 その日の朝は、タブレットの画面を確認するところから始まった。死んだ後に義叔父と従妹に届くメッセージを用意しており、その設定を何度も確認していたのだ。自分の孤独死で近所に迷惑をかけたくないという、我ながらに方向性を間違えた気遣いだった。

 昔はこういう携帯メールもあったな、などと知彰はどうでもいいことを考えた。自分が高校生の頃のことだから、従妹は知らないかもしれない。今は、わざわざアプリを使わないとままならない。サプライズメッセージから予定のリマインダーまで、何だかんだで役立ちそうなのだが。とは言え、この機能を使うのは最初で最後のことになるだろう。不具合は、多少あっても構わない。

 知彰は、その日に訪れるものを終末だなんて思っていなかった。

 だからこそ、世界を救うことを早々に諦められたのかもしれない。多くの人間が死ぬ、そう言う災害は日本と言う国では珍しくないし、しかしそれでも人は生き残って這い上がってきた。そして人は、災害に対して被害を減らすことはできても、災害そのものを防ぐなんて到底無理なことだ。

 義叔父か従妹か、どちらかは生き残るかもしれない。もし明日の朝、知彰が生きていたら、笑って認めてやろう。もうそんなに長くはないが、どうやらひとりで生きるのは無理なようだと。

 昨夜畳んだばかりのタオルで、咳き込む口を押さえる。血で汚れる。

 白かったそのタオルは、血で汚れて洗うことを繰り返して、もう薄い土のような染みが取れなくなっていた。

「これが、僕なんだよ、香織」

 生きることを諦めて、それで彼女が喜ぶとでも言うのだろうか。彼女は、生きてほしいと願っていたのではないか。ちゃんと向き合ってくれる人は、そばにいてくれる人は、他にもいたはずだ。

 それでも、ずっと前から死にたかった。

 いずれ訪れるだろうとわかっていた刻限が、彼のすべてを狂わせた。知らなければ、もっと幸せで真っ当な人生が彼にも待っていたかもしれない。だが、もうすべては過去のことだ。

 時間が流れる。時計の針の音が、やけに大きかった。

 十九時頃から、雪が降ってきた。十二月の東京には、珍しい大雪だった。

 やがて、日付が変わった。

 身体を蝕んだ知彰には、その寒さは辛いというより、苦しくて耐え難いものだった。それでも、手は勝手にベランダの戸を開けた。

「香織」

 ふと、かつて呟いたことを思い出す。

「たとえば、自分ひとりが犠牲になれば世界が救われると仮定して、君はそのひとりに名乗り出るか」

 香織の答えは何だったか。確か、こうだ。

「もし、知彰が自分を犠牲にして世界を救ったとしたら、わたし、きっとあなたに自己犠牲を強いた世界を憎むわ」

 そんなことを思い出したのは、何故だろうか。あの日の夜は、彼らにとってささやかな情熱があっただけで、それは何度も繰り返したことがある決して特別ではないものだ。

 思い出したのは、そこに香織の幻影がいるような気がするからだろうか。

 その幻影は言うのだ。

 知彰、雪が降っているわ。

「はは、僕ももう、終わりだな」

 独り言ちて、自嘲気味に笑った。死んだ女の幻影が、そこに立っているのだ。

 そして、彼女は生きろとも死ねとも言わない。そんなの幻に決まっている。彼女なら、もっとしっかり生きろと、一喝するはずだ。寒くて身体に悪いから、早く窓を閉めなさいと、そう言うはずだ。なのに、その幻影は、ただ笑うだけなのだ。こんなの、彼女じゃない。星谷香織はそんな女じゃない。

 孤独だった。心にむなしさと空隙を、いつも抱えていた。死ぬ時に幻影まで現れて、かえって孤独感が強くなるだけではないか。

 咳き込む。雪が赤く染まる。ベランダの雪に向かって、倒れ込んだ。

「香織、君に逢いたい」

 その呟きは、声になったのかも、わからなかった。

 この世界は、まるで、万華鏡のようだ。

 見る度に、景色を美しく変える。そこにあるものは何ひとつとして変わってなどいないのに、時間が過ぎれば世界は変わっていく。誰が望んでも、誰が恨んでも。

 彼は動くことを拒んでしまった。そして変わることを拒んでしまった。彼は、変わらない一瞬に、束の間の陶酔を寄せた。

 身体が動こうとしなかった。雪が降っていた。伸ばされた手の上に、雪が乗る。それが溶けているうちは、手の方が温かいということだろう。

 天宮知彰の記憶は、そこまで続いた。

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