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穏やかな時間が、ただ流れた。
休み休みならば自分で歩くことだってできた香織は、次第にそれがままならなくなり、家に引きこもるようになった。
知彰はそんな彼女を時折外出に誘っては、「出不精のあなたが」などと苦笑された。車椅子でそこら中を回ることは、日常的なことになりつつあった。ペーパードライバーだから、あまり遠くに連れて行ってやることはできなかったが。
香織が台所に立てなくなった頃に、知彰はようやく彼女に小言を言われない程度の料理ができるようになった。
皿も洗えるし、アイロンのかけ方だって覚えた。今となっては香織はコーヒーを飲みながらその光景を見守るばかりだった。そのコーヒーも、はじめに比べたらだいぶまともに飲める味になった。
もともと、知彰は手先が不器用なだけで、要領は悪くなかったし、簡単な家事くらいならば過去の前世たちもできることだったから、大まかな手順は覚えていた。作家の
そんなささやかなところにしか前世を覚えていることのアドバンテージなどないというのに、世界を救うだなんて、馬鹿げたことを考えるものだ。
もっと他にあったとしても、それはきっと、知彰よりも先の誰かが活かすものだろう。そこまで諦念と達観を得ると、もう今の幸せしか見えなくなっていた。
約束は、毎日守り続けた。
彼女が好きなケーキや花を贈るとか、見晴らしがいいところまで連れて行くなんて、特別なことはあまりしなかった。求められたら別だが。
ただ、たった一言を何気なく告げるだけだ。寝る前に。食事の後に。他愛ない会話の中に。
「ありがとう。愛しているよ、香織」
その約束の言葉は、何度口にしても慣れなかった。いや、慣れない方がいいのかもしれない。たった一言の囁きさえ、くだらない意地で言えなかった馬鹿な男なのだから。
「わたしもよ。愛しているわ、知彰」
穏やかな時間が、ただ流れた。
「わたしね、時々思うのよ」
ある時、香織がベッドに横たわったまま、不安そうな表情で呟いた。
「あなたの子供を産みたかったな、って。そしたら、あなたはひとりじゃなくなるわ。けれど、ルーシー・ジャクソン症候群って、遺伝子が原因で起きるんでしょう?」
「子供を産んだとしても、その子もルーシー・ジャクソン症候群になるのではないか、と言うことか」
「そうね」
知彰をひとりにしたくない。
それは、彼女なりの愛情だろう。
香織はずっと前から、彼が孤独や空虚を抱えていたことに気付いていた。だから、ひとりにしたくないが、子供に先立たれる孤独を背負わせたくもないのだろう。
ただ、香織がいても満たされなかったものが、子供がいれば変わると言うのは、理屈で考えても感情で考えても筋が合うとは思えなかった。
「香織、そんな君に質問だ」
知彰は、冗談めかして笑って見せた。
「何よ」
「僕が、いい父親になれると思うか? だって、ほら。……僕だぞ?」
「あっはははっ。そうね、そうだわ」
香織が声をあげて笑った。
「その通りね。お父さんになった知彰なんて、全然、想像つかないわ!」
「笑いすぎだぞ、まったく。さすがにちょっと酷いな」
知彰は苦笑しながら、恋人が笑顔になったことを純粋に喜んだ。
どうせ、自分も遠からず死ぬのだ。残される者のことなど、あまり深く考えないでほしいとしか思わない。
「ほら、安心したら、早く寝よう」
「そうするわ。おやすみなさい」
「おやすみ、香織。愛している」
香織はただ頷いて、毛布にくるまった。
睡眠時間の多さも、残された刻限の短さを告げているかのようだった。
穏やかな時間が、ただ流れた。
仕事をすることを、香織が願った。自分がいなくなった後のことを、彼女は心配しているのだ。気を遣うことはないのだが、それで彼女の不安がなくなるのなら、知彰に厭う理由は特になかった。
煙草の量は減っていない。仕事部屋にいる時間が減ったから、増えてはいないだろう。ただ、知彰はあまりそれを考えないでいる。考える意味が、ないからだ。
香織が倒れてから、三ヶ月が過ぎた。
二〇二〇年、六月。
知彰が死ぬまで、あと半年。香織は、知彰よりも早く死ぬだろう。瞳が赤く光る死に彼女を巻き込みたくないと思っていたのに、死とはもっと違う角度から襲ってくる。死ぬことも生きることも、命の営みだから、それはもう受け入れるしかないのかもしれない。
煙が漂う部屋の中で、知彰は不意に咳き込んだ。左手を口許に運ぶ。喉の奥から、何かが迫り上がってくる感覚があった。
口内に広がる、錆びた味。
赤く汚れた、左手。
とっくに知っていたのに、目を背けていた現実が、そこにはあった。
香織は医者に告げられた余命を受け入れて生きていたのに、知彰は自分が医者に告げられた余命を無視していた。実に皮肉なことに、その余命よりも長く生きることを、知彰は既に知っていたのだから。
インフィニティの箱の意匠には、愛らしい白い花があしらってある。以前香織に聞いたことがあるが、
一生手放せない享楽を、あなたに。
知彰にとっての享楽とは、愛おしくて、残酷なものだった。
二〇二〇年、十一月。
幸運と言うべきか、ルーシー・ジャクソン症候群の症状は、あまり内臓には到達しなかった。だから、香織はあまり苦しむこともなかった。
医者に告げられた半年の余命よりも少しだけ長く生きて、香織は穏やかに息を引き取った。
知彰は、彼女に、いつもの言葉を囁いた。
死の間際に最後まで残る五感は聴覚。そう聞いたことがあった。
それが真実かどうかなんて、どうでもよかった。もしかしたら彼女は、既に聴覚を失っていたかもしれない。そんなこともどうでもよかった。
伝えられたら、それでよかったのだから。何度言葉にしても、どうしても馴れなくても、伝えたかった感情は一部分も言葉になってない気がした。
彼女に、きっと届いていると信じた。
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