雪/スノウドロップ
5 - 1
病室のベッドに横たわる恋人を、
香織は自分と違って、いつも健康的な女で、倒れるなんてことにはおおよそ無縁だった。一緒に暮らし始めて二年経つが、風邪を引くどころか咳ひとつ聞いた記憶がないのだ。
いつも元気な印象のある人間が急に体調を悪くすると言うのは、何故これほどにも心配になってしまうのだろう。
どうしても、湧いて来るように出てきた嫌な予感が、知彰は拭えなかった。信じたくない勘は信じないでいたいのに、どうしても信じてしまうのは何故なのだろう。
――そしてそれは、現実となった。
点滴のチューブに繋がれたまま横たわる香織は、意識を失って八時間後に目が覚めた。
「香織、おはよう。八時間振りだな」
知彰は、冗談めかして明るい声で言った。
「おはよう」
少し戸惑った調子で挨拶を返した香織の声は、掠れていた。経口では水分を摂っていないから、喉が渇ききっているのだろう。水を飲ませていいのか判断に困り、知彰は手元のナースコールを押した。
看護師は早々に到着し、特に説明がなくとも事情を察してくれた。随分と若い女だったが見た目以上に仕事には馴れているらしく、手際よく香織を起き上がらせ、水を飲ませて点滴を交換してから医者を呼んだ。
「ねぇ知彰」
看護師が姿を消してから、香織が戸惑った様子で声を呟いた。
「八時間振りって、どう言うこと?」
「君は、今朝倒れたんだ。それで、この病院に搬送されて、ずっと目が覚めなかったんだ。今はもう、夕方だよ。ほら、だいたい八時間だ」
窓から見える空は茜色で、時計を見せられて、香織はようやくそれを理解したようだ。
倒れる瞬間から、実感がないのだろう。意識を失うとはそう言うものだろうから、知彰はそれ以上は何も言わなかった。
倒れたのはキッチンだったから、包丁や食器を持ったままだったりしたらと思うと肝が冷えたことは、言わなかった。彼女が持っていたのはバレッタだけだった。食事の準備をするとき、彼女は長い髪をバレッタでまとめる習慣がある。
「それじゃあ、知彰」
家事もできないくせに、ひとりで何を食べていたのかとでも聞かれると思ったが、香織の問いは意外なものだった。
「あなた、自分で救急車を呼べるのね?」
「さすがに、電話くらいかけられるさ」
知彰は思わず苦笑した。料理をしたことがない自分が、初めてフライパンとフライ返しを手にしたことを自慢して、呆れられてやろうかと思ったのに。
数分してから現れた医者から、軽く説明を受ける。翌日に退院していいと言う話でまとまり、医者が去っていく。
「何か必要なものはあるか?」
「明日だからいいわ」
「そうか、わかった。明日の朝、また迎えに来るよ」
「なら、お言葉に甘えて迎えにきてもらうわ」
そこまで遠い病院ではない。ひとりで帰れそうだけど、と言いたげに、香織は笑って見せた。心配だと言うことだけが伝われば、知彰には十分だった。
自宅に戻ることにした。簡単な料理ならば少しはできるようになったのに、やはり何かが違う気がした。
「胃袋を掴まれるとは、このことだろうな」
独り言ちて、苦笑した。
皿を洗ってみても、綺麗になった気がしない。洗濯物は、皺が寄っている。引っ張って伸ばしてみるが、皺は残る。この時の彼は、アイロンなんて、思いつきさえしなかった。
散々引っ張った結果、皺ではなく袖が伸びてよれたシャツに、笑ってしまう。
「怒られそうだ」
そうやって、ずっと説教を続けてくれればいいのに。
煙草を吸うには、少し忙しかった。
翌日になって、知彰は香織を迎えに行ってから帰宅した。
「それで、結局わたしは何で倒れたの? そう言うのを、
知彰が自分でコーヒーを淹れている姿を少し不思議そうに眺めながら、香織が呟いた。彼は、マグカップに注いだものを差し出しながら、椅子に腰を下ろした。
「医者には話すべきかどうか、僕が決めるように言われている」
香織のことだから、隠したところで何かを隠していることくらいは勘付くだろう。
いや、むしろ彼女は今の時点で既に何かに気付いているはずだ。それくらい、鋭い女だと言うことは、知彰もよくわかっている。
だから、心の準備などと言うものをさせる必要はないと思った。
「香織。君は、ルーシー・ジャクソン症候群だ」
ルーシー・ジャクソン症候群は、多くの難病が克服できるようになったこの時代に新たに発見された、新型の難病だ。
それは身体の様々な部分が、動かせなくなる病気だ。
香織が倒れたのは、脚の筋肉が急激に動かなくなったことにあった。当たりどころが悪くて、意識を失ってしまったのだ。医者によると、自律神経も弱くなってしまっている可能性が高いと言う。今のところ、彼女は歩くことはできないでもないが、それもいつまで続くかわからない。
ルーシー・ジャクソン症候群は、治療法が確立されていない。原因も、遺伝子の突然変異とされている程度のことしか、わかっていない。
「わたしは、遠からず死ぬのね」
「そうなる」
知彰は、頷くことしかできなかった。
「進行具合からは、おそらく半年くらいだろうと聞いている」
香織が、半年、と小さな声で反芻する。知彰は、いきなり余命を告げられる気分はどんなものかと考えた。所詮いつ死ぬかわかっている自分には、それは永遠にわからないものなのだろう。
「なんだか、知彰より先に死ぬのは癪だわ」
「何だそれは」
思わず苦笑した。知っていたが、彼女は強い。この状況で、冗談を言って笑うことができる女なのだ。もしかすると生活力が低いヘビースモーカーの男より先に死ぬのは、本当に癪なのかもしれないが。
「ねぇ、わたしには何ができるかしら?」
「そうだな。家事を教えてくれ」
「仕方ないわね。このコーヒーも薄すぎるわ。なんかそれっぽい感じに適当に淹れたでしょ」
「バレたか」
「まったく」香織が嘆息した。「他には何かないの」
知彰は少し思案した。いざ考えてみると、なかなか思いつかない。と言うよりも、自分が彼女の強さや優しさに甘え過ぎている気しかしない。
「君は、何かないのか」
「そうね、これから、思いついた我が儘を言うわ。心しておきなさい」
わかった、と、頷く。
「まずは、駅の方の交差点近くにあるケーキ屋で、チーズケーキを買って来て。それから、美味しいコーヒーの淹れ方を覚えるのよ」
「了解した」
思わず苦笑する。香織は、彼女の我が儘のフォーマットに、知彰の我が儘を勝手に埋め込んでいる。それはそれで、こう言う女なのだと思うことしかできない。今までずっと、そうだった。息を吸うように、知彰に尽くしてくれる。自分はそんな価値のある男ではないというのに。
時計を見上げると、行けと言われたケーキ屋は開店しているようだった。早速財布を取って買いに向かうべきだろう。
「その我が儘を遂行する前に、ひとつだけ僕の我が儘を聞いてくれ」
「どうしたの」
知彰は、まるで大したことではない雰囲気を、装った。
「香織、君を愛している」
時計の音だけが、やけに重たく響いた。
言葉に出すのは、やってしまえば呆気ないものだった。それなのに、そこまでの過程が、あまりに歪んでしまっていた。
永遠でなくて何が悪い。束の間で何が悪い。後悔したくないとか、それだけの理由で何が悪い。
生きている一瞬が死に向かう一瞬であるのならば、何故、その一瞬に全力を尽くさない。貫かない生き様に、何の価値があるのか。
「馬鹿ね。とっくに知ってたわよ」
香織が苦笑したのが、わかった。
「馬鹿な僕からの我が儘だ。これから毎日一度は言わせてくれ」
「仕方ないわね、聞いてあげる」
香織の笑顔と声が泣きそうだったのを、知彰は見なかったことにして、ただ、「ありがとう」とだけ言った。
「それじゃあ、行ってくる」
「ええ、行ってらっしゃい。気をつけて」
知彰は財布と鍵だけを取って、マンションの自室を後にした。
心の空隙からは、目を背けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます