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 二○一八年、八月。

 大学でするべき試験を終え、夏休みは半端な時期に始まった。

 わたしは新宿駅の改札を抜けると、駅構内の売店でミネラルウォーターを買った。飲み物はどれも品薄といった感じで、品出しは追いついていなかった。

 日本の暑さと言うのは身の危険を感じるほどのもので、今年の夏の暑さたるや、旧暦では既に秋が近いことなど信じ難いと思うほどだった。もう何人の人が倒れたのか。

 地下街を通り抜けて階段を上がると、その地上は暑いと言うよりも、熱い。もはや熱風と呼んでもいいだろう。街並みは暑さのあまりに視界が揺らめいて、建物や車は歪んでいるように思えた。

 わたしは首元にまとわりついた髪の毛を軽く指先で払いながら、行くべき方向を見定めた。外で働く仕事をしている人は、本当に辛そうだ。

 赤信号で足を止めると、先ほど買った水を飲んだ。軽く一口飲んだところで、信号機の色が青に変わる。ショルダーバッグにペットボトルをしまってから横断歩道を渡り、大ガードをくぐる。目的地は、大ガードを抜けた先にある。

 猛暑だか酷暑だか知らないが、とにかくこの熱風吹き荒れる中、桐嶋さんは外で待っていた。ワイシャツにスラックス、いわゆるクールビズの格好で、彼は暑そうにシャツの首元を軽く引っ張っていた。

「遅刻だ」

 わたしの姿を認めるなり、彼はいつもの仏頂面でそう言い放った。

「七分前です」

「黙れ。僕が遅刻だと言えば、遅刻だ」

「わかりました、黙ります」

 わたしが素直に引き下がると、桐嶋さんは少しだけ狼狽えた。理不尽を訴えられた方が安心するのだろう。

「な、なんだ、珍しい」

「人を殺しにきているとしか思えない暑さの中で立っている辛さを思うと、もっと早く来ればよかったかなって」

 わたしがあえて少し悲しそうな雰囲気を醸し出して見せると、桐嶋さんが更に狼狽えた。

「や、やめろ、そんなつもりで遅刻だと言ったわけじゃない」

 正直ちょっと面白かったので、何のつもりで遅刻だと言ったのか追撃してやりたくなったが、この辺にしておくことにした。どうせ反応を面白がっているだけだ。

「とりあえず、涼しいところに行きませんか」

「いい考えだ。落ち着いて話せる場所がいいな。コーヒーは飲むか?」

「嫌いではないですけど」

「決まりだ。近くに喫茶店がある」

 わたしは頷いて、先を進む桐嶋さんの後を追った。

 この人に訊きたいことが、あった。その返答次第では、わたしは彼との関係を断ち切らざるを得ないだろう。桐嶋さんはわたしの連絡を受けて、すぐに予定を作ってくれた。決して悪い人ではないのだ。けれど、悪人でなければ信じていいわけではない。たとえ、相手のことが好きであっても。

 人間には、本来相手を信じる気質がある。だから、詐欺とかいう犯罪は成立するのだ。わたしはこの人のことを信じたいと心の底で思っている自分には、気付いていた。

 桐嶋さんが、急に立ち止まった。何かあったのかと声をかけようとしたら、わたしの前に右手を出した。

 視界に、こちらに向かってくる、ひとりの男性の姿を見た。

 夏の暑さが、どこかに遠のいた。

 その男性の瞳が、赤く光る。

 何も言われなくても一歩後ずさったわたしに、桐嶋さんが声をかけた。

「正直に言え。見たな」

 何をかは、言われなくてもわかった。

「見ました」

 その向こうで、男性が倒れた。周囲の人が男性を取り囲む。救急車を呼べと言う、声が遠く聞こえた。

 桐嶋さんが、誰かにスマートフォンで通話し始めた。周囲の感染者を探すように求める内容のようだった。桐嶋さん自身は、同行者の安全を確保するためにこの場を離れるなどと言っていた。三年前のわたしも、そんな風にして特定されて、引き離されたのだろう。

「飲め」

 通話を終えた桐嶋さんが、こちらを振り返って何かをわたしの左手に押し付けた。左手を開くと、小指の爪くらいの大きさのカプセル剤が乗せられていた。中には、白い粒状の粉が入っていた。

「これは」

「ハルナ病のワクチンだ。発症する前なら、効果がある。早く」

 暑さのせいだろうか。半分しか言葉の意味が理解できない。

 それでも、残り半分は、この薬を飲めと告げていた。

 わたしは、鞄にしまっていたミネラルウォーターで、カプセル剤を飲み込んだ。

「飲んだな。よし、行くぞ」

 桐嶋さんが歩き出す。

 頭の中で早鐘が打たれる。心が恐怖に押し込められそうになる。

「早く来い」

 わけもわからず、歩くしかなかった。まるであの日に似ている。あまりに余裕がなさすぎて、従うしか道が残されていないように感じられた、あの日のように。

 人の多い新宿の街並みの中で、彼は早足で歩きながら、時折わたしを振り返る。不思議だと思うくらいには、しっかりと後についていけた。周りの空間が切り取られているかのような、あるいはわたしたちだけが切り離されているかのような、そんな奇妙な感覚があった。

 連れて来られた場所は、あの日の場所よりも遥かに清潔だった。導かれるように、奥にある柔らかいソファに座らされた。目の前に、グラスに注がれた水が出されて、思考が追いついてきた。落ち着いたジャズが流れる喫茶店の、ソファ席だった。

「アイスブレンドコーヒーをふたつ」

「かしこまりました」

 ウェイターらしき男性が、注文を復唱して去っていった。

「七瀬」

 桐嶋さんの声は、優しかった。

「話さないといけないことがある。聞けそうなら、言ってくれ。無理なら、日を変えよう」

「今、話してください」

 お冷やを一口飲むだけで、覚悟が定まった。そもそもとっくに定まっていた覚悟だ。どちらかと言うと、心が落ち着いて戻ってきたという方が正しい。

「訊きたいことが、たくさんありますから」

「わかった。いいだろう。先に、君の質問を聞かせてもらう」

 どう切り出したものか、しばらく思案した。ウェイターが、アイスコーヒーをふたつ持って来た。コーヒーフレッシュを溶かす。ガムシロップはいらなかった。

「ハルナ病ω型は、本当に存在するんですか」

 桐嶋さんが眉を顰めて、眼鏡のブリッジに指を添えた。わたしは構わずに言葉を重ねた。

「美月の最期に、本当は何があったんですか」

 わたしは、彼に言葉を返させる前に、続けた。

「桐嶋さんが言っていたハルナ病のω型は、瞳の色が青く光り、その瞳を見た周囲の人々が、死んでいくというものでした。美月は隔離されたそうですが、そんな彼女を、誰が、どうやって状況を確認して、隔離したんですか。そんなの、不可能だとは言いませんが、物理的に難しいと思います」

「それが、君がω型の存在を疑う理由か?」

「それだけではありません。桐嶋さんの話には、他にも矛盾があります」

「言ってみろ」

「美月の最期です。鏡に映った自分の青く光る瞳を見たと、言いましたね」

「ああ、言った」

 わたしは、ミルクの色で染まったコーヒーを一口だけ飲んだ。そして、続けた。

「施設の個室に、鏡なんてないんですよ。窓もないです」

 桐嶋さんの表情が、変わった。かろうじて聞こえるような小さな声で、「なるほど」と呟いたのがわかった。

 美月の母親は、美月は個室に鏡がなくてもお洒落を怠らなかったと言っていた。

 わたしがそれを真実だと思ったのは、β型は吸血衝動から自傷行為に走ることがあるからだ。それを防ぐためにも、施設の個室には持ち込めないものがある。

 わたしも、裁縫道具の持ち込みを禁止された。施設の持ち物検査は、学校などとは比較できない厳しさで、わたしはいつも談話室の扉をくぐると裁縫道具をロッカーに預けていた。

「鏡は、部屋に持ち込めないもののひとつです。割れたら破片で怪我しますから」

 持ち込んでよかった硝子製品は、保護フィルムを貼ったスマートフォンくらいだ。眼鏡でさえ、素材に制限がかかると聞いたことがある。

「感染しなかったわたしも持ち込みが禁止されていたのに、β型を発症した美月が鏡を持ち込めるはずがないんです。

 教えてください、桐嶋さん。美月の最期に、本当は何があったんですか」

 エアコンの効いた店内に、落ち着いたジャズが流れる。

 わたしたちの間には、しばらく重たい沈黙が漂った。

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