花信

4 - 1

 二〇一八年、七月。

 わたしは大学生になり、アルバイトを始めた。二十歳になって、少しずつお酒を飲むようになった。

 その日は平日で、スマートフォンにショートメールが届いたのは授業が終わる三十分ほど前だった。

『今日の夜、十九時。キリシマで予約している』

 そのショートメールが届いた時――いや、通知画面に『桐嶋礼司』の名が表示された時に、わたしは少なからず心臓が跳ねた自分をはっきりと自覚した。ぶっきらぼうな文面は、まるで彼の声が聞こえてくるかのようだった。

 続いたURLはタップすると、入ったこともないような、洒落たバーのサイトに飛んだ。わたしはアクセスマップを確認した。

 新宿駅から徒歩七分。移動時間は三十分を少し超えるくらいだろうか。授業は十八時に終わるから、間に合うだろう。

 わたしは了解の意を返事した。

 施設の生活を終えてからは、彼には一度も会っていなかった。その必要がないからだが、何かあった時のためにと携帯番号だけ互いに登録していた。結局連絡を取り合う必要もないままに、三年ほどが経過している。

 施設を出る時、最後までわたしは桐嶋さんに「好きです」と言うことだけはできなかった。

 三年経った今のわたしは、まだ彼を好きなのかどうか、わからない。人間の恋と言うのは、往々にしてそういうもののような気がする。

 わたしはそんなことを考えながら、授業が終わるなり遊びに誘ってくれた友達に、断りを入れて駅に向かった。

 桐嶋さんのことだ、きっといつ来たのかと思うような時間にはもういて、「遅刻だ」とでも言い放つのだろう。あの冷たくて低い声が、聞いていて妙に安心したのを今でもよく覚えている。

 ……回想はここまでで、十分だろう。


 意外なことにわたしが先に到着して、逆に遅刻だと言い放ったことなど、今更ここに記す必要があることではない。

 思い出話もなく聞かされたのは、吉岡美月の訃報だった。

「美月が亡くなったって」

 わたしは、ゆっくりと確認するように声に出した。頭に回りかけていたアルコールは、桐嶋さんが告げた一言で簡単に吹き飛んでいった。

「質問には、想像がついている」

 まずは黙って聞けと言いたいのだと、察した。

「君が施設を出て数ヶ月経った頃に、彼女は退学して通信制の高校に通い始めたんだ。その頃には、β型の症状は軽快していた」

「美月は良くなっていたんですか?」

「ああ、そうだ。水分摂取量も吸血衝動も、薬で抑えられた。彼女は、自分の意思で通信制の高校を選んだんだ。元々学業は見た目よりずっと優秀な子だったから、あと一年もあれば卒業するまでの単位は取得できたらしい」

 軽食が来た。桐嶋さんが、ジェスチャーでわたしに食べるように勧める。

「そんな折に、吉岡に異変が起きた。瞳が光ったんだ。青に」

 わたしは思わず、カプレーゼに伸ばした手を止めた。桐嶋さんは黙って頷いた。突然死するα型は、赤く光る。血を求めるβ型は、金色に光る。青色に光る症状は、聞いたことがない。

「彼女は特に何もしなかったが、彼女の青い瞳を見た者は、次々と倒れて、のたうち回って苦しんだ末に死んでいった。そして彼女は、鏡に映った自分の青く光る瞳を見て、倒れた」

「それが、美月の最期だったんですか」

 桐嶋さんが頷いた。

「美月は、最後まで施設から出ることはできなかったんですね」

 再び、桐嶋さんが頷いた。

「わたしに何か、できることがあるんですね」

 桐嶋さんの表情が変わった。

「だからこそ、わたしを呼び出したんじゃないんですか」

「そうだ。あまり言いたくはなかったがな」

 桐嶋さんは、頷いた。

「我々の研究に、付き合って欲しい」

 恋は盲目とは往々にして言うことだ。だが、その盲目はいつまでも続くだろうか。高校生の頃のわたしは、彼のことを無条件に信頼していたけれど、今のわたしは彼の言うことにすべて従うような女の子ではなかった。

 桐嶋さんの言うことは、即ち、死ぬかもしれない人体実験のモルモットになれと言うことだ。

「今は、できないです」

 わたしは、そう答えた。ω型に、感染しないとは限らない。α型を見ても感染しなかったのも、ただの幸運かもしれない。人の幸運とは、いつまでも続かないものだ。

「協力したい気持ちはありますが、それがわたしにとって正しいのか、わからないんです」

「わかった。これ以上、強制はしない。気が変わったら言ってくれ」

 わたしは頷いてから、首を傾げた。「大丈夫なんですか?」

「何が?」

「断ったわけですが」

「適当に誤魔化すさ」

 桐嶋さんは、唇の端を吊り上げて、初めて見るような笑みを浮かべた。

「これでも、嘘と隠し事は得意な方でね」


 お会計時に、桐嶋さんはわたしに財布を開かせることもなく、クレジットカードを一枚出しただけだった。

「特権みたいなものだ。甘えておけ」

「わかりました」

 あまり食い下がるのもなんだか悪いような気がして、わたしは頷いた。

 バーを出て、階段を上がった。いつの間に手配したのか、タクシーが止まっていた。

「遅い時間に付き合わせたからな」

 桐嶋さんの態度には、どこか有無を言わせないものがあった。遅い時間といっても二十時半なので、二十二時には帰宅できているのだけれど。

 わたしは、言われるままにタクシーに乗った。桐嶋さんが隣で、わたしの自宅のおおよその住所を運転手に説明していた。施設にいた頃、何度か桐嶋さんはわたしが実家に戻る時に車を出してくれていたから、そのくらいは覚えていたのだろう。

「今日はすまなかったな、嫌な話に付き合わせた」

「いえ、ありがとうございます」

 わたしは心のどこかに本音をそっとしまいながら、言葉を選んだ。

「桐嶋さんが教えてくれなかったら、わたしは美月のことを知ることはできなかったと思います」

 桐嶋さんは何も言わなかった。

 好きだと言いそうになって、言いたくなって、何故か言ってはいけないような気がした。そんな顔を、桐嶋さんはしていた。

 流れる沈黙は、嫌いではなかった。何か間を持たせようとか、そんなことはあまり考えなかった。

「七瀬」

「はい」

「何か、言いたいことがあるんじゃないのか」

 タクシーの車窓から外を眺める桐嶋さんの声は、冷たかった。わたしはしばらく考えた。その思考時間は、五秒だったかもしれないし、五分だったかもしれなかった。

「桐嶋さんは」

「ん」

「わたしが、気が変わったって言ったら、どうしますか」

「答えたくない質問だな」

 桐嶋さんの表情はよく見えない。

 タクシーは新宿の街を、抜けていく。眠らない街と言われるこの街は、少し道を抜けるとあっという間に暗くなる。人生と言うのも、呆気なく通り抜けてしまうものなのだろう。三年経っても同じ人を好きでいるわたしは、取り残されているのか、頑固に踏みとどまっているだけなのか。

「答え次第で、君は研究に付き合うことを肯定的に考えてしまうだろう?」

「そんなこと」

「ないと言えるか」

「言えません」

 桐嶋さんの考えが見えない。わたしに、研究に参加して欲しい立場ではないのか。けれど今の彼は、参加してほしくはなさそうだった。その態度には、まるで矛盾があった。

「だから、君の質問に答えたくない」

「わかりました。十分です」

「そうか」

 タクシーが、実家の最寄駅に止まった。

 促されるままに降りて、わたしたちは歩き出す。

「桐嶋さんは、ハルナ病のことでわたしに話してないことがありますよね」

「たとえば?」

 嘘と隠し事は得意。

 自らそう言った桐嶋さんに、どこまで駆け引きは通じるだろうか。考えても仕方がないと思い定めて、言葉を重ねる。

「α型を見てもハルナ病にならなかった人は、わたしで二例目だと聞きました」

「ああ、言ったな」

「一例目だったのは、桐嶋さんですよね」

 最初に収容された施設から出た時、桐嶋さんは何の躊躇いもなく部屋に入ってきた。車内で貧血を起こした時も、彼はわたしの眼をしっかりと見ていた。

 少なくともあの時、わたしはα型を発症していてもおかしくなく、桐嶋さんの仕事はまさに命がけと言っても過言ではないものだった。普通は、眼を見ようとしないとか、そう言う態度を取っていてもおかしくはない。

「そうだ」

 桐嶋さんの返事は、静かな肯定だった。

「だから、研究に参加しているんですか。ハルナ病が発生した現場に向かって、感染経路を調べたりしながら?」

 美月がβ型を発症したのは運送業の男性を見るよりも前、と話した時も、その情報を重要なものと言っていた。あれは、美月がどこで感染したのかを知る必要があったからだと考えられる。

「桐嶋さんは、わたしと同じ仕事をさせたくないんですよね。研究に参加してほしくないんですよね」

 桐嶋さんの横顔に、どこか諦めたような感情が見えた気がした。

「当たり前だ」

 それ以上、わたしは桐嶋さんの表情を見ていることができなかった。彼は実家の近くまでわたしを送ってから、踵を返して駅に向かった。

 わたしは桐嶋さんに、声をかけることもなく、見送った。

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