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 土曜日の一限前は、キャンパス全体が閑散としていた。

 朝は早いが季節は九月の末。

 八月には旧暦上の秋が訪れ、九月は秋分の日などと言うものがあるが、気温は三十度を軽く超える。世のサラリーマンもクールビズの終了は一ヶ月先だし、世間の九月への認識はもはや夏だと言って過言ではない。

 キャンパス内の喫煙所でひとり、煙草を吹かす女子学生の姿を、優征は視界に捉えていた。

 染めたこともないと思われる黒髪のショートボブ。白と紺のストライプのブラウスに青いマキシワンピース。グレーのスニーカー。

 望月奈緒子だ。

 奈緒子は成人して三ヶ月も経っていないことを思い出す。その間に吸い始めたことは知っていたが、随分と喫煙に慣れているように見えた。彼女の場合、おそらく飲酒よりも慣れているだろう。

 青を基調としたファッションだからか、あるいは喫煙と似つかわしくない風貌の女子学生だからか、ともかく赤い箱の銘柄がやたら目を引く。指先のネイルはオレンジだった。スクエア型のネイルストーンが、太陽の光に反射する。

 優征が近付くと、奈緒子は煙草を灰皿代わりの汚いバケツに投げ込んだ。箱とライターを、赤と金の派手なデザインのポーチにしまった。煙草よりもポーチの方が似合わないな、と思った。

「先輩」

 ポーチを無造作に鞄にしまいながら、奈緒子が近付いてくる。最近まで可愛い女の子だった後輩が、急に大人になったような気がした。

「ここかな、って思ったんだよね。談話室は一限始まるまで開かないし。奈緒子ちゃん、一限は?」

「土曜日は授業取ってませんよ。先輩は?」

「俺も土曜日は開けてある。何だ、わざわざここで待ち合わせることなかったのか」

 そうみたいですね、と奈緒子は苦笑した。

 優征の提案で、大学の最寄り駅から電車で二駅のカフェに向かうことにした。

 奈緒子の表情は相変わらず、どこか冷めているけれど明るい女子大生なのに、彼らの間に会話はなかった。会話がない理由は、優征が一番よく理解している。

 土曜日に、大学で。

 時間もわからなければ、場所も曖昧。そんな約束で当然のように会えた理由なんて、互いの行動を知っていただけのことだ。運命なんて、馬鹿げた言葉を使う気はない。運命と言うのは、もっと、優しいロマンに満ちているものだ。

 最低限の会話だけでカフェに入り、一番奥の狭い席に着いた。

「喫煙席ですよ」

「奈緒子ちゃん、吸うでしょ」

「まぁ、そうですね」

 お冷やを持ってきた店員にアイスブレンドコーヒーをふたつ、注文した。注文内容を復唱した店員が去って行った。

 優征はお冷やを口に含めた。軽く口に含めたつもりだったが、グラスの半分近くが減った。

「暑かったなぁ。もう十月なのに」

「本当に」

 奈緒子は答えながら、先程の赤い箱の煙草を取り出した。『緋色の薔薇スカーレット・ローズ』と言う名前のようだった。

「女の子がそんなの吸うもんじゃない」

「吸うもんじゃないのは、男も女も変わらんでしょう」

「そう言う問題じゃないって」

「わかってますって」

 灰皿を手繰り寄せながら、奈緒子は口許だけで笑った。その笑みは、どこか酷薄に見えて、優征は妙な既視感を覚えた。

「『この世界は、まるで、万華鏡のようだ』」

 煙草に火を点けながら、彼女は唐突に呟いた。

「『ナイトフライト』か」

「そうです」奈緒子は頷いた。

 四つ前の前世だった真鍋由美子は、『終末』が襲うその瞬間まで執筆を続けていた。彼女は完成していない原稿を人に見せることはなかったから、彼女が書いた原稿の続きは、他の誰にもわからないはずだった。唯一知っているのは、真鍋由美子の記憶を引き継いだ人間だけだ。

「先輩が寄越してきた小説は、この世に存在するはずがないものです」

「君の前世が、完成させられなかった小説だからかな」

 頷いた奈緒子の表情は、これまで優征が一度たりとも見たことがないものだった。どこまでも、厳しい。

 そして、瞳の奥に闇を飼い慣らしている。その闇は、優征が抱える闇とよく似た色をしていた。冷たい。深い。重い。そんな言葉で表現するのも、どこか生ぬるい。

「真鍋由美子が――犯罪組織の総長が、世界を万華鏡と比喩したことを知っているのは、あたしだけなんです」

 優征は、反論しなかった。いや、反論できるはずがない。正しいのだ。奈緒子の気持ちは、胸を焼き焦がすほどによくわかる。

「どうして、先輩が知っているんですか。先輩は、何者なんですか」

 店員がアイスブレンドコーヒーを持って来たので、会話が中断される。奇妙な沈黙が流れた。

 かつて、キャンパス内で道に迷っていた新入生らしき可愛い女の子に声をかけた時、優征はその出会いに特別な感情は抱かなかった。ちょっとの下心がなかったわけではないけれど。

 だが、彼らは出会うべくして出会ったのかもしれない。これが、運命とか宿命とか言うものなのだろうか。

「それは、君の方がよくわかってるんじゃないのかな」

 優征は、コーヒーにガムシロップを流しながら呟いた。

「俺がやったのは、前世のひとりが書いてた小説を最後まで書いて、君に読ませたことくらいだ。先に答えを導いたのは、それを読んだ君自身でしょ」

「質問を変えてもいいですか」

「どうぞ」

「先輩の前世は?」

「直前が、天宮あまみや知彰ちあき。男、死んだのは、三十二歳の時だったかな。引きこもりでヘビースモーカーで、彼女に甘えまくってたプログラマーだ。おまけに彼女が歳上美人」

 優征は半分冗談めかして答えながら、二個目のガムシロップをコーヒーに溶かして、コーヒーフレッシュを開けた。奈緒子が飲むコーヒーは、ブラックのままだ。

「そうなると、あたしたちは、兄弟と言うよりは双子の方が正確ですね」

「奈緒子ちゃんも、直前は天宮知彰なんだね」

「はい」やや間をおいてから答えた奈緒子の表情は、妙に優しいものだった。「天宮知彰でした」

 ああ、そうか。

 喫煙に言及したときの奈緒子の反応への既視感の正体に、気付いてしまった。

「それはそうと」優征はあえて話題を変えた。彼女の前世への感情は、今は触れたくないし、奈緒子も今は何も言われたくはないだろう。

「奈緒子ちゃん、ケーキ食べない? ここのケーキ、美味しいから」

「そうなんですか?」奈緒子も話に乗ってくれた。彼女は甘いものは苦手なわけではないようだ。

「たまには奢るよ。ちなみにモンブランがお勧め」

「じゃあ、それにします」

 優征は近くを通りかかった店員を呼んで、奈緒子のモンブランと自分のガトーショコラを注文した。

「先輩」

「ん?」

「コーヒーそんなに甘くして、ケーキまで食べるんですか。ガムシロップ四つくらい入れてませんでした?」

「甘党なもので」

「いや、別に何をどう飲んだっていいと思いますけど、先輩はあたしの肺を心配する前に、自分の血糖値を心配した方がいい気がします」

「余計なお世話だ」

「こっちの科白です」

 間髪入れずに言い返す奈緒子に、優征は思わず吹き出した。

 お互い、本当は健康に気を使うのなんて無駄だとわかっている。

 どんな生活を送っていても、十二年後に世界は滅びてしまうのだ。

「奈緒子ちゃんは、前世とか来世とかって話をすることを、どう思うの」

 奈緒子は暫しの沈黙の間、グラスに刺さったストローを掻き回した。彼女はミルクもガムシロップも使わないから特に意味もない行動だが、氷が小気味良い音を立てた。

「正直、こんな話をする日が来るなんて思ってもなかったです」

 彼女の回答は、率直なものだった。

「けれど、あたしは、この日が来ることをずっと待ち望んでいたような気がします」

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