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 機内の照明が窓を反射して、窓から外を見ることはできない。

「まるでこの世の縮図みたい」

 彼女は言った。

「ここから見える景色くらい、しっかり見させてほしい」

「総長の、お言葉があります」

 男の口調は相変わらず、電話の音声ガイダンスのように無感情だった。

「『この世界は、




   *




 その作家のペンネームを、真鍋まなべみやびと言った。

 メディアの前に顔を出すこともなければ、声も決して聞かせない。グロテスクかつサディスティックな作風の推理小説作家だったから万人受けはしなかったが、年齢も性別も謎に包まれる作家は多くのファンの心を掴んで離さなかった。

 真鍋雅が最後に書いていた小説は、夜間航空の飛行機内が舞台である。

 犯罪組織に自分の失踪を依頼した女子高生と、実行犯としてその手引きを行う誘拐犯の男。彼らが姿を消すために乗り込んだ機内には、組織を追う探偵も同乗していた。

 事件は、探偵が突然倒れるところから始まる。処置が早かったことで探偵は一命を取り留めるが、飲み物に毒が盛られていたことが発覚した。女子高生と誘拐犯のふたりは緊急着陸までの間、何故か事件解決に協力することになる。

 真鍋雅は、この小説をほとんど結末近くまで書いていた。

 事件を解決し、飛行機は着陸を待つだけになった。誘拐犯の男は探偵が自分の正体に勘付いていることに気付いて、女子高生を逃がす方法を思案することになる。

 その中で、窓から外を眺める彼女に、男は絶対的信頼を寄せる『総長』の言葉を伝えた。

 その言葉を書く途中で、真鍋雅は命を落とした。

 真鍋雅の本名を、真鍋由美子ゆみこと言った。

 年齢は、七十五。性別は、女。作家デビューは、六十五歳の頃だった。雅と言うペンネームは、娘の夫が考えたものだ。

 専門学校を卒業して就職し、職場で出会った男と結婚した。その後は三人の子と五人の孫に恵まれた。

 小学生の時から日々を小説と共に過ごしてきて、図書館の小説を読み尽くした彼女自身が知らない物語を求めて、自ら書くことを始めるようになった。

 彼女の作家としての人生は十年少々と短いものだったが、その間に多くの小説を刊行して、その最期も原稿と共にあった。

 彼女は、自分がいつ死ぬのかを、知っていた。

 いつ死ぬかを知っていたから、それまでの間に書きたいものをただ書いていただけのことだ。あと五年でどれだけ書ける。あと三年で何が書ける。あと一年で。ただそれだけを考えて、時間を過ごした。

 二〇二〇年、十二月十七日、午前零時三十二分。

 窓から見える空は、舞っていた雪が止んでいた。手をキーボードから離すことは、しなかった。

「まったく、せっかちね」

 反射してディスプレイに映る自分の顔が、赤い光を発するのを見ながら、由美子は呟いた。

「ちょっとぐらい待ってくれたって、いいじゃない」




 視線が合うと、網膜が抉り取られる。いつも、そんな気がした。


 そんな文章で、真鍋雅の最後の小説『ナイトフライト』は始まる。

 書き始めた時、彼女は書き上がることはないだろうと予想していた。それでも書かずにはいられなかったのだと、奈緒子は知っていた。

 真鍋由美子は、彼女の四つ前の前世にあたる。

 網膜が抉り取られるような視線とは、どれほど強烈なのだろう。ギリシャ神話のメデューサのように、石にでもなってしまいそうなのだろうか。

 女子高生を誘拐する犯罪組織の男は、普段は音声ガイダンスのようだと表現されるほど無感情だ。この冒頭は、彼が感情を見せた数少ない一場面となった。それは、畏敬なのか、恐怖なのか。

 この強烈な視線の持ち主が、彼が絶対的な信頼を寄せている、組織の『総長』だ。

 奈緒子がそんなことを思い返していたのは、永川亜蘭――優征が渡してきた小説『ナイトフライト』がきっかけになった。

 単に題名が同じだけならば、それ以上のものにはならないだろう。

 なのに、奈緒子は一行目で手が止まった自分に気付いていた。


 視線が合うと、網膜が抉り取られる。いつも、そんな気がした。


 重くて冷たいものが突き刺さるような、感触があった。続いたのは、締め付けられるような何か。

 飛行機が離陸した時に感じる、耳の奥に何かが詰まるような感覚が、奈緒子を襲う。スピーカーから垂れ流していた、ロックバンドの新曲が、遠のいて聴こえる。

 何かに突き動かされるように、奈緒子は続きを読んでいた。スクロールバーが降りていく。

 四つ前の前世が書いていた小説を、青海優征が書いた。何故。答えは出てこない。こんな芸当ができる人は、この世に自分しかいないはずだ。

 一字一句はともかくとして、内容は、真鍋雅の『ナイトフライト』とほぼ酷似していると言っていい。登場人物の名前、言葉遣い、事件の概要、使われた毒物、犯人の正体とトリック。

 奈緒子の手は、一時間後に再び止まっていた。もちろんそれは、最後まで読み終えてしまったからではない。

 彼女は最後まで読んでしまう前に、自分の携帯電話を手繰り寄せた。

 通話ボタンを、押下する。もうすぐ日付が変わるような時間だったのに、ワンコールも鳴らさないうちに反応があった。

『そろそろ、連絡がある頃だと、思ってたよ』

 相手は、奈緒子が何か言う前に、そう言った。電話の奥から、アナウンスらしい音が聞こえる。駅にでもいるのだろう。

『明日でいいかい?』

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