緋/Encounter with Fate
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朝は六時には起床して、朝の準備に追われる。この時間帯に就寝する学生もいるのだから、友人の中ではかなりの早起きに属する。
彼女が家を後にするのは、七時二十分。それから最寄り駅までは徒歩十分で、大学に向かうのに電車で五十分。
八時二十分。厳密には、列車遅延や駅の混雑でこれを数分過ぎることが多いが、誤差の範囲と言っていい。時間に追われて生きる現代社会においてこの数分の誤差でさえ許せない人はいくらでもいるのだが、これはその人が神経質と言うよりは、日本と言う社会が神経質なのだろう。
奈緒子が大学に着くのは、一限目の講義が始まる十分ほど前だ。
入学した頃は友人と仲良く講義を受けたものだが、一年目の梅雨が訪れた頃から少しずつその人数を減らしていき、今となっては朝から姿を見せる友人はいない。
二年の後期を迎えた奈緒子は、友人からは真面目で物好きだと思われていた。ちょっと解せない気持ちはなくもないが、嫌われているわけではないので笑って許していた。
金曜日の一限目の教室は、後期に入ったこともあって、閑散としていた。それでも、奈緒子も講師も気にしてはいなかった。
一限が終わり、時刻は午前十時。次の授業は十三時からだから、妙な隙間時間ができてしまう。
普段は課題をこなして時間を過ごしているが、後期授業が始まって間もないので、済ませるべき課題も復習項目もない。
この暇をどう持て余したものか、考えていると、見知った顔を発見した。
「奈緒子ちゃん」
奈緒子が声をかける前に、こちらに気付いた相手が声をかけてくる。
「先輩」
整った顔立ち。灰色のシャツ。デニムジーンズの脚は細くて長い。一八七センチだと言う高身長は、遠くからでもわかるほどに目立つ。
去年、キャンパス内で道に迷ったのを助けてもらって以来、何かと世話になっている先輩だ。学年は一年上だが、二年間休学していたから、年齢は三歳上だ。
「おはようございます」
「おはよ。今日も早いな」
「いつも通りです」
「あれか、社会心理学」
面白いよな、と優征が笑ったから、奈緒子も頷いた。
優征は、早い時間からの授業の情報は多く握っている。大学で単位を取るというのは、情報戦でもある。少しでも多くの情報を握った方が、勝ちは近い。
「先輩は?」
「一限が応用幾何学。この時間、授業ないから暇なんだよね」
「あたしもです」
「昼飯って時間でもないし、まぁ談話室で適当に過ごすか」
「そうですね」
ふたりは特に待ち合わせたわけでもないのに、談話室に向かった。
途中で立ち寄った大学生協で、奈緒子はオレンジジュースを、優征はバナナオレとチョコレート、それから菓子パンを買った。奈緒子はいつも弁当を持参しているが、優征はだいたい甘いものを買っている。
エレベータに乗った頃に、奈緒子の携帯電話が鳴動した。
「先輩」
「ん?」
奈緒子は、メール画面を見ながら嘆息した。
メールの送り主は、同級生の男子学生だった。
『なぁなぁ、微分方程式の単位落としたんだけど。どうせ、おまえも落としてんだろ。おまえバカだもんな』
軽蔑なのか自虐なのかわからない笑いを表すネットスラングを挟んで、概ねこんな内容を送りつけてきた。
この男子学生は、奈緒子の方が成績が悪いからと何かとからかってくる。優征は、きっとこの男子は奈緒子が好きなのだろうと思っていたが、彼女の方は興味がなさそうである。
「男の子って、どうして女の子を心底どうでもいい理由でいじめるんでしょう」
冷めた眼で呟く奈緒子の横顔に、優征は肩を竦める。これは脈がないどころか、嫌われているようだ。
「うーん。自分だけを見ててほしいんじゃないかな」
「好かれるどころか、嫌われるのに?」
「視界を独占できれば、それでいいんだろ。逆効果だなんて考えもしないんだよ。優しくした方がいいのにね」
「よく理解できません」
奈緒子は携帯電話を鞄にしまうなり、エレベータを降りる。
「何て返事したの?」
「してませんよ」
「え?」
「微分方程式なら、
唇の端をつり上げて、悪びれずに微笑んで彼を見上げる奈緒子に、優征は思わず吹き出した。本当にいい性格をしている。
「彼を見ていると、バカは死ぬまで治らないのは本当なのか、疑問になりますね」
談話室に入り、適当に選んだ席で奈緒子はオレンジジュースを啜りながらぼやいた。向かい合って座ることで、身長差が補われたような気がした。
「少なくとも成績なら、どこかで治る可能性があるバカだよな」
「そうじゃなくて、死んでも治らない気がします」
そっちなのか、と言う優征の突っ込みを奈緒子は無視して続けた。
「あたしが死んだ後も、周りの人が『望月奈緒子はバカだった』って言えば、あたしはバカだと言う既成事実が人の記憶に残るわけでしょ」
「あー、言いたいことはわかる」
優征が曖昧に頷いた。「けど、自分が死んだ後どう思われるかって言うのは、考えたことないなあ」
「そう言うものでしょうか」
「少なくとも俺はね。奈緒子ちゃんは考えるの?」
「うーん」奈緒子は、少しだけ慎重になった。
普通の人は、前世の記憶なんて持ってない。
溶け込んで生きることに馴れてはいるが、自分が普通でないことを忘れたことはない。そして、自分が普通でないことは、あまり他人に知られていいものではない。
談笑する声が聞こえる談話室の中で、その机だけが静まり返る。騒々しい空間での沈黙は、下手に騒ぐよりも響くものだった。
「遺産相続とか?」
「今そう言う話してたっけ」
「ジョークですよ。かの有名な、望月ジョーク」
「初めて聞いたよそんなの」
「あたしも初めて言いました」
奈緒子は、まるで取るに足らないことであるかのように笑い飛ばして誤魔化した。こう言うのは雑なくらいがちょうどいい。
十二年後に世界が滅びるなんて、前世の自分が退廃的に生きたプログラマーだったことなんて、奈緒子しか知らない情報でいいのだ。
「奈緒子ちゃんって、本当に時々おかしいこと言うよなぁ」
そう言って優征は笑い、違う話題に切り替えた。
……だから、誤魔化せていたと思っていた。
「ところで、奈緒子ちゃんって本は読む?」
昼食の菓子パンの袋を開けながら、優征が尋ねた。
「高校生くらいまでは読んでいたんですが、今はあまり」
奈緒子は、鞄から保冷バッグに包まれた弁当箱を出しながら答えた。「先輩は?」
「俺は、最近は読むよりも書く方だな」
「書く?」
「うん。俺、作家になりたいんだ」
「作家って、小説とか書く作家?」
「そう、その作家」
小説の一冊も読まない学生が多い理系の中で、それは少し目立った。
奈緒子も小説を読むことはほとんどない。四回前の前世が小説を書くことと読むことに人生を捧げてきたような女だったから、多くの小説を『彼女』が読んでしまったのだ。何を読んでも、その頃に読んだ何かに似ている。
「まぁ、そんなわけで、作家を目指してる俺から奈緒子ちゃんに頼みたいことがあるんだけだ」
「何ですか、改まって」
「俺が書いた小説、読んでみてほしいんだよね」
「あたしが?」
その短い一言に、他に相手がいるだろうと言う感情が見えたか、優征は苦笑した。
「書き上がって、どっか応募する前に誰かに読んでほしいなって思ったとき、真っ先に君が浮かんできた。頼んじゃっていい?」
「あたしでいいんですか?」
「君がいいの。言ったでしょ」
そこまで言われて悪い気はしなかった。
「あたしでよければ」奈緒子は快諾した。
その返事を聞いた優征は、すぐにメールを送った。
「そのURLから、データがダウンロードできるから。パソコン使った方がいいかも」
「わかりました。家でやります。ところで、これは、ペンネームですか?」
「そう。
センスいいだろ、と言いたげな彼に、奈緒子は本名の方がいいと言うべきか迷った。
だが、これだけは教えてもいいだろう。
「先輩知ってますか。江戸川乱歩のペンネームは、エドガー・アラン・ポーに由来するそうですよ」
「えっ、マジで?」
「え、マジで知らなかったんですか。知ってるものだと思ってたのに」
奈緒子は嘆息を噛み殺した。だが、優征がペンネームを変えることはないだろう。根底にあるリスペクトや、気に入っていると言う感情まで否定するつもりはない。
奈緒子はその日、帰宅してから、データをダウンロードした。
彼女は考えることになる。
題名を『ナイトフライト』と言うその推理小説を奈緒子に送りつけた、
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