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立てるかとか歩けるかだなんて心配されながら車から降りると、目の前にはマンションのような施設があった。
「ここも研究施設なんですか?」
「そうだ」
施設は三階建てだった。外から見ると、少し階層の低いマンションにしか見えない。
桐嶋さんに連れられて、エントランスから中に入った。病院の待合室のような受付があったが、そこを素通りした。廊下を通ると、ラウンジのような綺麗な空間が広がっていたが、もう夜中だからか人は少なかった。
「ここは談話室だ。向こうには個室がある」
「はぁ」
わたしが気の抜けた返事をすると、桐嶋さんは肩を竦めた。
談話室の奥には四十インチくらいのテレビが置いてあり、その側に白衣の女性がひとり座っていた。わたしたちを確認して立ち上がった。
「来たわね。お疲れ様」
女性がこちらに近づいてくる。
「
「七瀬咲です」
氷室さんはわたしの方を覗き込む。「うん、聞いてた通りね。β型でもなさそう。ここから先は男子禁制だから、代わりに案内するわね」
「はい」
桐嶋さんは、氷室さんに簡単に引き継ぎをしてから、
「七瀬、明日の午前九時半に、この談話室だ。覚えておけ」
それだけ言って、桐嶋さんは談話室を出て行った。
「えっ、ちょっ、明日の午前九時半?」
復唱する暇は与えられず、氷室さんが少し吹き出したのが分かった。
翌日の朝。
わたしは朝食を摂りながら、氷室さんから説明を受けた。久しぶりに温かいものを食べたような気がした。
昨夜、移動中に貧血になったことも桐嶋さんが説明していたので、お風呂だけ済ませて軽く処置をしてから休んでいた。
この施設は比較的症状が軽いβ型の女性患者が社会復帰できるようにサポートしたり、あるいは治験に参加するための施設だ。美月は症状が重いので、別の施設にいるそうだ。
「わたしは、これからどうなるんですか?」
朝食に出てきた目玉焼きに胡椒をかけながら、訊く。
「その辺も含めて話し合い。桐嶋君に、九時半に談話室って言われたでしょう。あなたのお父さんにも、来てもらうことになっているわ。高校生の娘さんを何日も預かることになるから」
「わかりました」
「それまでの間、少しメディカルチェックをしておきましょう。昨日は体調を崩したって聞いたし」
わたしは頷いて、出された食事をすべて食べ終えた。
改めて、氷室さんに施設内を案内された。
食事は食堂で摂ることになっているが、β型の特性上難しい人は自分の部屋で摂ることもあるのだと言う。
二階にはお風呂や医務室、あとはスタッフの事務室などがあり、三階に個人の部屋がある。氷室さんは、看護スタッフのひとりだ。
わたしに用意された部屋は三階の比較的階段に近いところにあり、中はベッドと机とカラーボックスがふたつとハンガーラックがあるだけの、シンプルな部屋だった。
一階のエントランスから談話室までは、外部の人間の出入りは、自由でなくとも認められている。談話室から奥(食堂に繋がっている)は男子禁制だと聞いたが、正確には許可が下りていない人間の立ち入りは男女問わず禁止されているらしい。
この施設に入る際のルールとして、わたしは一枚のカードキーを渡されていた。ネックホルダーに入れて常に持ち歩くように言われているそれには、わたしの部屋の部屋番号が書かれてあった。このカードキーは部屋を出入りするときだけでなく、食堂やお風呂の時間の予約、外出許可の申請、あとは施設内の自動販売機の利用に使われる。
「ここまでで質問は?」
氷室さんはわたしの腕に血圧計を巻きながら、尋ねてきた。
「自動販売機にカードキーを使うんですか?」
「カードの認証を通して飲み物を手に入れてもらうことで、個人の水分摂取量を管理しているの。だから、あなたが突然喉が渇くようになっても気付けるってわけ。あとで試しに使ってみるといいわよ」
「はい」
血圧を測る。腕に締め付けられるような感覚を覚えながら、わたしは次の質問をした。
「あと、外出ってしていいんですか?」
「いくつかの制約はあるけどね。症状が軽ければ他人に害がある病気ではないから、社会に出てもらうことは喜んで推奨しているわ」
「わかりました」
「少し血圧が低いけど、大丈夫よ」
氷室さんが血圧計を外した。それから血液検査や心電図など。どこにも問題はなかった。
午前九時十八分。桐嶋さんに言われていた時間が近かった。
「問題はなかったから先に行っていいわよ。細かい分析と資料の準備が終わったら向かうから」
「はい」
わたしが立ち上がると、氷室さんは思い出したように呟いた。
「桐嶋君、ちょっと変わっているでしょう?」
「そうですか? 優しくて普通の方だと思いましたけど」
「あら、そう思うの。まぁ、変な奴だけどあなたの言う通り、優しい奴ではあるから、よろしくしてやって」
頷いて、医務室を後にした。
彼女が桐嶋さんを変な奴と評した意味は、すぐにわかった。
先に断言しておくと、わたしがこの日談話室に到着した時間は九時二十六分だ。談話室の壁に掛けられている時計の針も、九時半にはなっていなかった。
だけどもわたしが談話室の扉を開くなり、ソファに腰をかけていた桐嶋さんは開口一番に「遅刻だ」と言い放った。
「え、まだ四分前です」
「うるさい」
桐嶋さんは露骨に眉間に皺を寄せた。「僕が遅刻だと言えば、遅刻だ」
「理不尽です」
以降、わたしは桐嶋さんと、このやりとりを繰り返すことになる。
わたしは決められた時間よりも早く来るのに、桐嶋さんは何故かそれよりも前に待ち構えていて、その度にわたしに遅刻だと言うのだ。
前言撤回。桐嶋さんは、意外と普通ではない。
「氷室さんから話は聞いたか?」
桐嶋さんは口論をする気がないようで、あっさりと話題を変えた。
「はい。父は」
「もう来ている。入館手続きもすぐに終わるだろう。とりあえず座れ」
わたしは言われるまま、ソファに腰を下ろした。談話室の扉が開くのに数分も待つことはなく、エントランスから父の姿が現れた。白髪混じりの髪のいかつい顔立ちをした中年男性。
「咲!」
父は談話室にいるわたしの姿を確認して、声を上げながらこちらに駆け寄ってきた。
「咲、怪我はないか? そこのクソ野郎に何もされてねぇだろうな?」
クソ野郎とは桐嶋さんのことだろう。
「お父さん。まず、桐嶋さんにクソ野郎は失礼だと思う。あと、わたしは何もされてないから」
「監禁したが」何故か桐嶋さんが突っ込みを入れてきた。確かにそれはぐうの音も出ないほど正論なのだけれど、わたしは軽い口調で切り返した。
「桐嶋さん、そう言う余計なことを言うから父に殴られるんです」
桐嶋さんが閉口した。彼の顔の痣が事情を聞いた父に殴られたものだと、とっくに察していた。反論しないから事実なのだろう。
「お父さんも、事情はともかく人を殴っていい理由にはならないでしょ。ちゃんと謝ったの?」
「娘を監禁したような輩に謝るわけねぇだろ」
「男ってのは拳じゃなくて背中で語るモンでしょうが」
空気が固まった。次の瞬間、女性の笑い声が聞こえた。氷室さんだった。
「そうね、拳で語るのは時代遅れだわ。お父様が桐嶋君を殴ったのは、そう言うことではないと思うけれど」
「分析は終わったんですか」
この奇妙な空気が居た堪れないとでも言いたげに、桐嶋さんが話題を変えた。気持ちはわからないわけではないので、わたしもこれ以上は何も言わないでおいた。
「まだわからないことだらけ。α型にはほぼならないと思うのだけれど」
「そうですか。本題に入りたいので、お座り頂けると」
桐嶋さんは改めて、これまでの過程を掻い摘んで説明した。何度かわたしに確認を取る。彼が殴られたのは、最初の施設に運ばれてすぐに父に事情を話した時らしい。
「質問がある」
父は驚くほど静かに話を聞いていたが、最後に呟いた。
「咲が、他の奴らよりも、かかるのが遅かっただけだとしたら?」
「その可能性は否定できません」
答えを引き取ったのは、氷室さんだった。
「そのため、我々はこの施設でご息女のモニタリングを、しばらく続けたいと考えております。もちろん、彼女がハルナ病に抗体があるというのであれば、この病気の研究や対策を大きく進歩させることになるでしょう」
「しばらく、ここに住まわせる気か」
氷室さんは一度頷いてから、続けた。
「通学や他の習い事はもちろん、一時帰宅など、外出については我々が全力でサポートいたします」
「そんなことできんのか」
「もちろんです。高校生の女の子の将来を不用意に拘束することは、我々の本意ではありませんから」
父の表情は白々しいと言いたげだったが、それを言葉に出すことはしなかった。
「わかった、それでいい。あまり我が儘は言わないが、甘えん坊の娘だ。迷惑はかけるが、よろしく頼む」
聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたが、氷室さんの「かしこまりました」を聞いてスルーせざるを得なかった。
その日のうちに、わたしは外出許可を得て実家に一時帰宅した。
着替えや勉強道具くらいは欲しいと言ったら納得してもらえたので、わたしは中学生の頃に修学旅行で使った旅行用の鞄にひたすら荷物を詰め込んだ。ただ、怪我に繋がる刃物などは持ち込めないので、裁縫道具は持ち込めなかった。
その後のわたしは週に一度くらい実家に戻った。父は実家に戻ると必ずと言っていいほど「何か食ってけ」と言っては食事を作ってくれた。
わたしが学校に再び通い始めたのは、一ヶ月ほど経ってのことだった。
学校では、わたしと美月はサービスエリアにいたところ、運転手が大動脈解離で急死したトラックに突っ込まれて事故に遭ったことになっていた。
学校には吉岡美月の姿はなかった。
人気者だった彼女のことを何も言わないわたしに、薄情者と罵る声もあったが、それも夏休みが始まる前には無くなっていた。誰もが目の前にある物事やすぐに会える友達のことで忙しいから、いつまた会えるかわからない生徒のことなんて、誰も気にかけなくなる。薄情者はどちらなのだろう。
その後、わたしの施設での生活は半年で終わった。
結局ハルナ病にはかからないまま、わたしは以前の生活に戻っていった。
その間に、わたしは何度も桐嶋さんと会って話す機会があった。
ただ、「好きです」の一言は、半年の間一度も言うことができなかった。
高校三年生になった頃、吉岡美月は人知れず退学したことを先生から聞かされた。
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