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 その後のことは、よく覚えていない。

 いつの間にか美月とは引き剥がされていて、気付けばわたしは到着した救急車に彼女と共に乗せられていた。男性は病院に搬送され、わたしたちは古びたアパートのような三階建ての建物に連れて行かれた。

 その建物の前に、男性が立っていた。背が高い。スーツ姿で、眼鏡をかけていた。両隣に、迷彩服の男性がふたりいた。

「吉岡美月を、二番へ」スーツの男性は、短くそう告げた。二番とは部屋番号だと、後にわかった。

 迷彩服の男性ふたりが、美月の両隣に立って両腕を掴んでどこかに行った。

「美月」

 わたしは彼女の名前を呼んだが、彼女は振り返ることもなく、返事もなかった。そして、その後ろ姿が、わたしが彼女を見た最後の姿だった。

「君は、僕に付いてこい」

 スーツの男性がそう言った。

「あの、ここはどこなんですか」

 口をついて、疑問が出た。「あなたは誰ですか。美月はどうなっちゃったんですか。それに、わたしは」

 わたしは大丈夫です、と言おうとして、美月に噛まれた首筋の感触を思い出す。それが大丈夫と言えるのか、わからなかった。

「わたしは、何だ?」男性の声が、異様に低かった。

「わたしは、大丈夫なんですか」

「それを、この場所で確かめる。吉岡美月も、そうだ。僕は桐嶋きりしま礼司れいじ。ここは国が運営している機密研究施設の一棟で、僕は研究員の端くれだと思ってくれていい。これで君の質問の回答にはなったか?」

「何の研究をしているんですか」

「目の前で倒れたと言う宅配業者の男や、君の友人の身に起きたことに関するものだ。君には知る権利があるとは思うが、今はこれ以上話すことができない」

「わかりました」

「もういいか?」

「はい」

「ならば、こちらだ」

 桐嶋さんが歩き出す。わたしはその後を追った。

 二階まで案内され、奥にある部屋の前まで連れて行かれた。壊れていないが古びている扉には数字で五、と書かれていた。桐嶋さんが、ドアノブに一度手を触れてから、わたしに振り返った。

 桐嶋さんは、少し迷ったようだったが、口を開いた。

「三日間、この施設で過ごしてもらう。その後のことは保証できないが、三日後には迎えが来ると思ってくれていい」

「わかりました」

「これから、君にかなり酷いことをする。痛い思いはしないだろうが、辛い思いはするだろう。……入れ。細かい説明をする」

「はい」

 部屋の中に入れられた。

 外観から和室を想像したが、中の床は石材のようだった。壁はむき出しのコンクリートで、部屋の中には古びたシーツに覆われているベッドがひとつあるだけで、床には保存食が大量においてあった。自然災害に備えた避難道具と考えるには、あまりにもその量は多すぎた。まず持ち運べない。

「ここで、三日間?」

 頷いた桐嶋さんの顔に表情はなかった。わざと、眼鏡の向こうに感情を隠しているような気がした。隠しているからこそ、深いものがあるように思えた。

 このぼろぼろの部屋で、三日間過ごす。その間、外に出ることもできなければ、外部からの干渉も許されない。ただ、監視カメラの類はないから、最低限のプライバシーは守られる。

 桐嶋さんは、淡々と説明した。

「君にできることは、三日間をここで過ごすことだけだ」

 わたしが返事をしたのを聞き届け、桐嶋さんは表情を消し去ったような表情で部屋を出て行った。

「無事に過ごしてくれ」

 彼はそう呟いて、扉の向こうに消えていった。そして、鍵がかかる音がやけに強く響いた。

 何もない場所で、三日間を何もせずに過ごす。

 そのどこが辛いのか、想像もできなかったわたしは、まだ子供だったということだろう。ほとんどの現代人は、いつも手元に何か暇を潰せるものがあるものだ。

 わたしは硬いベッドに腰をかけながら、首筋に手を触れた。美月に噛まれたそこに、もう痛みはなかった。


 わたしは正直、この時に過ごした三日間のことを思い出すことができずにいる。

 記憶から消し去ることは、脳の防衛機構みたいなものなのだろう。だから、わたしはここで三日間を過ごしたというデータを情報として持っていただけにすぎない。ただ、このデータを開いても中身が文字化けしてしまっているような感覚だった。

 それに、わざわざ語るようなことでもないだろう。

 三日経った夜に部屋の扉が開いた時、わたしは日付の感覚が曖昧になっていて、三日が経ったことにも気付かなかった。そのことしか、わたしは思い出すことができない。

 部屋の扉が開いた。中に入ってきた人に、わたしは声を上げた。

「桐嶋さん」

 暗かったが、確かにその人は桐嶋さんだった。

「僕の名前を覚えてくれていたか。自分の名前はわかるか」

「七瀬咲です」

「生年月日は」

「一九九八年、五月十三日です」

 桐嶋さんは、わたしの顔をしっかりと覗き込みながら確認を重ねた。

「見た感じだと顕著な変調は見られんな。今の気分は?」

「お風呂に入りたいです」

 即答すると、桐嶋さんが面食らったのがわかった。

 メディカルチェックの一環の質問だから、少し的外れな回答だったかもしれない。ただ、何しろ収容された部屋はお手洗いはあっても、お風呂はなかったのだ。

「いや、確かにそうだ。若い女の子に三日は……違う。男でも嫌だ。配慮が足りなかった」

 桐嶋さんは、驚くほど率直に頭を下げた。

「一時間だけ、待てるか? ここから別の研究施設に移動する。詳しい話は、移動しながらしよう」

 わたしは頷いた。どうせ断ることはできないのだ。ずっと部屋に引きこもると言うのは精神から身体に疲労が乗り移るようなものだったから、桐嶋さんを疑うなんてことをするには少し疲弊しすぎていた。

 部屋を出る桐嶋さんの後を追うと、外に車が停めてあった。どこにでもあるような軽自動車だった。言われるまま、後部座席に乗り込んだ。桐嶋さんはスマートフォンで誰かに通話をしてから、運転席に座り、ペットボトルのコーヒーに手を伸ばした。

「一時間ほどで着くと思う。その間に話せることを話したいが、無理をせず寝てくれていい。どうする?」

「聞かせてください」

「わかった。……大事なことだからしっかり聞いて欲しいが、大事なことだからこそ何度でも話す。何度でも聞いてくれ」

「はい」

 わたしがシートベルトを締めると、エンジンが動き出した。車内にもライトが点灯して、車が動き出したのがわかった。タイヤが砂利を踏む音が聞こえる。

「まず、こちらの事情があるとはいえ、君に何の説明もなく三日間監禁したことを、改めて謝らせてくれ。大変申し訳なかった」

 彼の言う事情とは、上からの許可が下りないと話せない内容だ、と桐嶋さんは呟いた。今は、逆にわたしに話すように言われているらしい。

「どこから話せばいいのだろうな」

 と、桐嶋さんは一度独り言ちてから、続けた。

「我々は、ある新型の病気を研究している。その病気を、最初のひとりとして認定された患者の名前から、ハルナ病と仮称している」

「ハルナ病?」初めて聞く病名に、わたしは首を傾げた。「何ですかそれ」

「ああ、ハルナ病の存在は一般に明らかにしていない。君が知らないのは普通のことだろう。発症すると、瞳が光る」

 一般公表されていない病気と言う現実離れした話に首を傾げる一方で、その症状には心当たりがあった。

 サービスエリアで、瞳が光った人を知っている。

 運送業の男性と、吉岡美月だ。

「根本的な原因がどこにあるかもはっきりしていないが、感染症に近いとされる線が一番強い」

「瞳が光るだけなんですか?」

「いいや、違う」

 桐嶋さんはそう答えてから、ハンドルを軽く回した。

「現時点で明らかになっている症状で、ハルナ病はふたつに分類される。瞳が赤く光るα型、金色に光るβ型だ。α型の主な症状は、何の兆候もなく突然倒れるものだ。そして、それまで怪我をしていないのに、大量の血を流して、大量出血で死に至る。そう、君が見た運送業の男性がこれだ」

 確かに、そうだった。運送業の作業着を着た男性は、あんな大量出血を起こすような怪我はしていない。

「β型は」

「喉が異様に渇く。症状が水中毒に似ているから、報告されている症例は多くない」

「水中毒、って何ですか?」

「水の依存症だ。常に大量の水を飲んでいないと、気が済まない。心が落ち着かなくなったり、不安になる。この言い方をすると危険性が薄いように感じるかも知れないが、身体が処理できる量を超える水を飲み過ぎてしまって、死に至ることもある」

 桐嶋さんはそこで一度言葉を切って、続けた。

「話を戻そう。β型と水中毒との決定的な違いは、彼らは人体の血液でその渇きが満たせるということだ。血液を飲まずにいると、他人を怪我させたり自傷行為に走ってでも血を求め始める」

 頭の中がぐらつく感覚があった。美月に噛まれた首筋の痺れが蘇る。

「顔色が悪い」バックミラー越しに、桐嶋さんが呟いた。「大丈夫か?」

「すみません、少し休ませてください」

「わかった」

 桐嶋さんはそれ以上何も言わずに、ハンドルを切った。

 視界の中に、カメラのフラッシュを焚いたときのような歪な光が浮いてくる。甲高い機械音のような耳鳴りがする。暑くもないのに額に汗が浮く感覚がある。目の前が、真っ暗になった。

 不意に、明るくなった。目の前に、桐嶋さんがいる。後部座席のドアを開けて、こちらを覗き込んでいた。

「気が付いたか」

 気を失っていたようだ。外がまだ暗く、車内はライトがついていたから、それほど時間は経っていないのだろう。

「気分はどうだ?」

「頭が痛いです」

「着いたら診せた方がいいな。考えるまでもなく、体調を崩す理由なんて列挙したらキリがない」

 桐嶋さんは呟いて、助手席から黒いブランケットを引っ張って、わたしに押し付けた。それから、路肩に停めた時に買ったのか、ペットボトルを差し出してきた。どこにでも売っているような、スポーツドリンクだった。あまりスポーツをしないわたしは、これは風邪をひいた時にお世話になる飲み物という印象しかない。

「無理にとは言わないが、飲んでおけ」

「桐嶋さん」

「ん」

「その痣、どうしたんですか」

 桐嶋さんの顔には、眼鏡で見えにくい位置に痣ができていた。彼は少し不機嫌そうな仏頂面になって、答えた。

「君は自分の心配をしていろ。こんなの、放っておけば治る」

 明らかに答えになっていないが、桐嶋さんは後部座席のドアを閉めて運転席に戻った。

 桐嶋さんが手元のコーヒーに口をつけてから、車が発車する。さっさと目的地に到着することを優先したのだろう。

「続きを話してください」

 路肩から車線に戻った時に、わたしはペットボトルのキャップを緩めながら、声をかけた。

「しかし」

「大丈夫です」

「わかった。無理はするな」

 桐嶋さんは嘆息して、話を続けた。

「β型の症状を話していたはずだが、ここまでで質問はあるか? 僕の顔の痣以外で」

「α型とβ型は、瞳が光る以外は症状が違うのに、どうして同じ病気だと言えるんですか」

「いい質問だ。これは、ハルナ病を感染症と考えている理由に繋がる話だ。どちらの患者も、α型の患者の瞳が赤く光る姿を見て二十四時間以内に発症するんだ。だが、β型から発症する例は確認されていない。だから、このふたつの症例は、同じものが根本にある病気だと考えてられている」

「二十四時間以内」

 わたしは一度だけ声に出して呟き、ペットボトルの中にあるスポーツドリンクを口の中に流し込んだ。身体の中に、冷たいものが流れ込んだような気がした。

「わたしがあの部屋で過ごした三日間って、α型を人に移すわけにはいかないってことですか」

「その通りだ」

「でもわたし、生きているし、喉もそんなに渇いてないです」

「α型の発症者を見ても、ハルナ病を発病していない例は、僕が知っている限りでもふたり目だ。極めて、珍しい」

 わたしはスポーツドリンクをまた飲んでから、呟いた。

「わたしと美月は、これからどうなるんですか」

「検査や観察はするだろうな。まぁ、あれ以上酷い目にはあわないだろう。君の友達は運送業の男性の瞳を見て、β型を発症している。僕の担当ではないが、カウンセリングや検査を重ねて、社会復帰できるようにサポートすることになっている」

「待ってください、桐嶋さん」

「どうした? もう間も無く到着するが」

「わたし、違うと思います」

 桐嶋さんに、最後まで言わせなかった。

「美月はあの日、朝からずっと、最近よく喉が渇くって言ってたんです。だから、サービスエリアで感染したわけじゃないと思います」

「もっと早く発症していただと?」

 桐嶋さんが、眉を顰めた。

「ありがとう。有力な情報だ」

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