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自己紹介が、遅れた。
わたしの名前は、
実家は中華料理屋で、父はその三代目だ。店は古かったが味はよく、それなりに繁盛していた。口が悪くて荒っぽい性格の父だが、毎朝早く起きては丁寧に仕込む姿を見てわたしは育っていた。
母は、わたしが三歳の頃に事故で早世した。わたしは毎朝、学校に行く前には母の遺影の前で手を合わせるのが習慣になっていた。古いアルバムの類はほとんどわたしの姿ばかりで母の写真は少なく、だからわたしにとって母と言えば遺影に映る、いつも明るく笑う若くて綺麗な女性の姿だった。
わたしは手芸部に所属していた。裁縫と刺繍は得意だったが、編み物は苦手だった。地味で内向的だったわたしに友達はあまり多くなかったが、時々雑談をしながら針を動かすのは嫌いではなかった。
わたしが吉岡美月と知り合ったのは、高校一年生の頃だった。
美月は多分、部活には所属していなかったと思う。髪の毛を金髪にして、制服はほとんど着崩しており、派手な感じの女の子だった。明るくて、いつも誰かの中心にいるような存在で、わたしとはあまりにもかけ離れていた。派手だけれど、学校の成績はいつも上位で、人気者だった。
知り合ったとは言っても、それは同じクラスだから互いに顔と名前くらいは一致しているという程度のものだった。彼女と本当に知り合ったと言えるのは一年生の秋頃で、金髪が原因で生徒指導の先生に追いかけられていたときのことだった。
「ほら、七瀬を見習え」
部活に行こうと席を立った時に、先生がいきなりわたしを指差して言った。わたしが校則を守るのはむしろ破る方が面倒なだけだったし、今だから言えるけれど音楽プレーヤーは持ってきていたのだが、先生方にはどうでもいいのだろう。
「七瀬、お前からも何か言ってやれ」
昨今では何かあればすぐに体罰などと言われるから、先生もあまり強く出られないのだろう。
美月を含めた周囲の子が、苦笑したのがわかった。唐突に話題を振られた地味な生徒という構図が、面白かったのだろう。
「吉岡さんは、髪の毛の色はもっと暗い方が似合うと思う」
そうじゃないだろ、と先生の突っ込みが聞こえたが、正直これで正しい気がする。ちなみに、彼女は顔立ちから髪の毛の色は暗い方が似合うと思うのは事実だった。彼女が髪の毛を暗くする姿を見たことは、ないのだけれど。
「え、マジで?」
「うん」
「えー、でも、この色気に入ってんだよねー。この色変かなぁ」
「ううん、変じゃないと思う」
「いや七瀬、そうじゃないだろ」
先生が大声で横槍を入れる。
「そうじゃなくて、ルールは守れとかだな」
「それは先生が言ってください」
わたしの突っ込みに周りの子が吹き出す。
そんな話をしている間に、美月は教室を後にしてしまった。最後にわたしと目が合う。彼女は笑顔で片手を挙げて、走り去って行った。
「って、吉岡、あいつどこ行った!」
「先生、部活行っていいですか」
「あー、すまん」
わたしは先生から解放されて、部活に向かったのだった。
翌日になって、美月はわたしに話しかけてくるようになった。
「七瀬さんって名前何だっけ、咲? じゃあ咲って呼んでいい? あたしのことは美月でいいから!」
そんな彼女の懐の入り方が、わたしは嫌ではなかった。
派手な美月と地味なわたしが親しげに話しているのが周囲にとっては意外だったようだが、わたしたちは気にしなかった。正反対だからこそ、互いの在り方を面白がっている節があったのは間違いないだろうし、その在り方を否定する気はなかった。
わたしには美月の自由な明るさが好きだったし、どこか羨ましさもあった。彼女はわたしを自分のいる空間に無理に引き込んだりすることはなかったし、わたしもあの日以降彼女に髪の毛の色を暗くすることを提案したりはしなかった。
わたしたちの間に友情があったのか、今となってはわからないけれど、あの頃は互いに互いを友達と信じて疑ったことはなかった。
それは正月が過ぎ、学年が変わっても、わたしたちの関係は変わらなかった。
ゴールデンウィークが終わって一週間ほど後の時期に、遠足があった。学校や地域によって様々なのだろうが、わたしの母校の遠足はバスで北関東周辺の山に赴くようなものだった。
バスの車内で、隣の席に座る美月はペットボトルのお茶を飲んでいた。
「最近さー、凄く喉が渇くの。何でかな?」
そんなことを呟きながら、彼女はペットボトルのキャップを閉めていた。
「鼻が詰まると鼻で息が吸いづらくて、口呼吸になるから喉が渇きやすくなるんだって」
「へー、そうなんだ」などと相槌を打ちながら、彼女は首を傾げた。
「でも鼻が詰まってる感じはないな」
じゃあ違うのか、なんてわたしは頷きながら、お茶を飲み干す彼女のピンクのネイルで飾られた手元を見ていた。
結局、彼女は最初のサービスエリアに到着するまでの間に二本のお茶を飲み干してしまい、彼女はトイレ休憩よりも前にまずは飲み物を買いに自動販売機に走っていた。それ以外の彼女の態度はいつもの明るい女の子だったのに、喉の渇きを異様なほど気にするところだけが、不思議で仕方がなかった。
事件が起きたのは、帰路で最後に寄ったサービスエリアだった。
わたしはあと数分で集合時間になる頃合いだと気付いて、バスに戻ろうとしたのだが、きょろきょろと周囲を見回して歩き回る美月の姿を目撃した。
「美月ー、どうしたの?」
「さ、咲」
彼女の口調は、妙に切羽詰まったものだった。「五千円札、両替して」
何があったのかなんて、聞くまでもなかった。自動販売機に入れられる紙幣や硬貨が、もう財布に残っていなかったのだろう。ただ、アルバイトをしていなかったわたしの財布の中身など、高が知れていた。
「ごめん。五千円もないから、これでいい?」
わたしは財布から千円札を抜き取って差し出した。「後で返してくれれば――」
「ありがとう!」
言い終わる前に駆け去っていく彼女に、「もうすぐ集合だよ」と声をかけたが、聞いてくれた様子がないので追いかけることにした。
わたしが追いついた時、美月は自動販売機の近くまで来ていた。
少し離れたところに、担任の先生と、運送業の作業着を着た男性の姿があった。喫煙所が近いのだ。先生が近付いて来る。わたしが声をかけようとした時、唐突に作業着の男性が足を止めた。
その男性の瞳が、赤く光ったような気がした。次の瞬間、男性がうつ伏せに倒れた。倒れた男性の下から、血が流れていた。
「先生、救急車! 救急車呼んでください」
わたしは、思わず叫んでいた。スマートフォンは、出発時に先生に全て預ける規則があった。どこからか中古品の偽物を持ってきて、それを預ける子もいたが、ともかくわたしに連絡手段などなかった。それに気付いた先生が「お前たちはそこで待ってろ。いいか、動くなよ」と叫んで、私物らしきスマートフォンを手に取った。
先生はちょうど倒れた男性の背後にいたから、この人の瞳が赤く光ったなんて知らないだろう。先生が、要領を得ない説明でスマートフォンの向こうに何か叫んでいる声が聞こえた。
「ああ、喉が」
美月が呟いたのが、耳に残る。
「喉が、渇いた」
彼女は、ふらふらと前に向かって歩いていた。こんな時に何を言っているの。そう言いたいのに、声が出なかった。わたしが貸した、千円札が宙を舞う。
「血でもいい」
男性が横たわる前に座り込んで、彼女は手を伸ばした。彼女の声は虚ろで、何かに取り憑かれているようだった。男性の身体から流れる血に、指先を浸す。その指先を、口元に運んだ。
「ああ」
彼女の口から漏れた声は、いかにも満たされた恍惚を帯びていた。
わたしは止めることなんてできずに、「美月」と、ただ彼女の名前を呼んだ。
その声に、彼女が振り返った。
「咲」
血で汚れた指先、血の付いた口元。
狂気の色をした瞳は、金色に光っていた。
美月は立ち上がるとわたしに近づいて、
「飲ませて」
確かにそう言って、わたしの両腕を掴むなり、首筋に噛み付いた。
それが、太陽のような女の子だった美月が、何かに落ちた瞬間だった。
本物の恐怖とは、動くことも声を上げることもできないものだ。その時間は本当は一瞬だったかもしれないけれど、永遠のように感じた。
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