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 姉さん、と言う声が、やたら脳裡のうりに焼きついた。

 少年犯罪の夢を、時々見た。

 これは、数多ある前世に共通していることだった。

 高校生くらいの少年だった。自分はその少年に成り代わっていて、そして、同居していた実の姉を殺害した。少年は予め用意していた荷物を持って、手近なバスに乗って逃走した。いつもそこで眼を覚ます。

 かつての前世だったかもしれないが、それにしては記憶が不明瞭だった。あり得るとしたら、バスの車内が彼の最期だったということだろう。

 知彰が思い出す度に嘆息するのが、この少年の夢だった。

 見ていて気分がいい夢ではない。ぞっとするほど躊躇がなかったし、動機もわからない。ただわかるのは、少年にとってそれが必要な行為だったと言うことだ。たとえば風呂で身体を洗うのと、同じような感覚で。姉に虐げられているなどで、精神状態がおかしくなっていたのかもしれないが、逃亡までの動きは冷静そのものだった。

 前世が殺人犯の少年だったなどと香織に言えば、「知彰には、小説家の才能はなさそうね」とでも、言うのだろう。それを聞いた知彰も、ひどいな、と苦笑するのだ。いつかの自分は小説家だったが、彼女はこの少年を面白く書くことはできるのだろうか。

 その日々は、本当ならばありふれた幸せに満たされた日々のはずだ。それなのに、むなしいのだ。

 そのむなしさは、いずれ訪れる最後の瞬間に対する無力な自分への失望のせいで、生まれるのだろう。無力ならばいっそそんな現実は忘れてしまえばいいのに、忘れることさえできない。

 せめて、平凡に生きて平凡に死ねればいいのに。それなら、まだ幸せなのに、平凡を享受するには、このむなしさは大きすぎた。

 たとえ、転生を繰り返すのが世界を救うためなのだとしても、知彰は、世界を救うことなんて、もう興味がなかった。そんな使命はどうでもいい。香織と過ごす日常は嫌いではないから、このまま彼女と生きられたらそれでよかった。それで満足できたら、それでいいではないか。

 それならば、このむなしさは何なのだ。この堕落は何なのだ。この惰性は何なのだ。

 煙草の煙を、肺から吐き出した。

 その答えは、とっくに出ていた。ずっと前から、知っていた。

「若い頃は確かに、僕だって世界を救いたかった」

 知彰は、自嘲気味に独り言ちる。その呟きは、煙と一緒に吐き出されて消えていった。

 数多の記憶を持っているのは、人々を守るためだと信じていた時期が、彼にもあった。世界を救えば転生はなくなるのだと考えていた時期が、彼にもあった。それこそが己の使命で、自分は神に選ばれた人間だと、そう信じて疑わなかった時期が、彼にもあった。

 正義を騙って抗うことに、希望があった。

 だが、やがてその希望には失敗という影が差し込み、諦念に染まっていった。

 自分の使命が人類を守ることだと仮定しよう。それが成功して、ようやく自由に生きられるのだと仮定しよう。

 だがその使命を背負うには、人間ひとりは残酷なほど無力すぎる。それに気付いてしまうほどには、過去の自分達は試行錯誤を繰り返しすぎた。そして、無力を痛感することは同時に、自分が無限の転生から抜け出せないことも意味していた。

 今、自分が在りし日の誰かのように青く若く在れるかと問われたら、おそらくそれは無理だろう。 その意味で、記憶の中にある何人かの前世が羨ましい。

 自分は、どうしようもなく脆く儚い。

 時々テレビで騒がれるオカルトじみた予言や神託がそうであるように、『終末』とは、神などと呼ばれるような概念に似ている。記憶を持つこと自体が何かの罰ではないかとさえ考えた。罰を受けるような罪には心当たりがないので、理不尽だと言ってしまえばそれまでだ。だが、理不尽に抗う勇気も強さも、今更持てなかった。

 理不尽などというものに抗う動機が誰かのためでも、自分のためでも、等しく眩しく見えてしまうほどには、知彰は現実を知りすぎた。

 結局自分はどうしたいのか。

 胸を蝕んで離れないむなしさから荒んだ生活に堕落し、惰性を貪るように生きている。その現実から半端に目を逸らし、下手くそな現実逃避ばかりを繰り返す。堕落が深まれば深まるほど、現実は強く視界の端でちらついてくる。

 人間が弱いのではなく、天宮知彰と言う男が弱いのだ。

 諦めなければいつか道は開ける。そんな精神論はばかげている。もう、何百年もの間、その道が開ける時を、待ち望んで行動してきたのだ。諦めるのに、その時間が短すぎるとは思えない。

 在りし日への憧憬のような感情は、彼に孤独とむなしさだけを残して溶けていった。

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