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 初めて出会った時から、彼は確かにこんなをしていたように、香織は思う。

 その瞳は、有り体な言葉で表現するならば、老けていた。年齢の割に髪の毛に白いものが多いわけでもなく、顔立ちが老けているわけでも、言動が老けているわけでさえなく、眼差しだけが、老けていた。

 知彰と出会った頃、年相応に遊んでいる若者だった香織は、その瞳にどこか異質なものを感じた。遊んで騒いでいる若者を呆れつつも眩しそうに見ているような、そういう瞳だったのだ。知彰は、香織よりも二歳年下だ。取るに足らないような年齢差だが、自分の方が歳下ではないかと思うことがしばしばあった。

 斜に構えているというのも、どこか違うような気がした。

 斜に構えるには、彼はちょっと真面目すぎる。本当は不真面目になりたいのだ。仕事だって適度に手を抜きたいのに、どんなに立て込んでいても目の前にあるとつい本気で取り組んでしまう。そういうところは、ちょっと不器用だ。

 彼の独特な雰囲気に惹かれたわけではないが、若いのに若くない彼の空気感はそばでいつも感じていた。

 彼につきまとう感情は、寂しさというよりも、孤独感や虚無感に近いような気がしていた。ただ、それは香織の存在で、あるいは彼女が何かをしたところで、どうにかなるようなものではないのだろう。

 煙草をやめろとは思わないが、その銘柄はやめてくれと、何度も言った。

 だが、彼が聞き入れる気配は未だになかった。煙草が彼のむなしさをほんの束の間埋め合わせていたことも、本当は埋め合わせにさえなっていないことも、わかっていた。だからこそ、せめて銘柄だけでも変えればいいのに、いたずらに消費だけが増えていく。

 何が、「一生手放せない享楽をあなたに」だ。知彰は、むしろ傷ついて苦しんでいるではないか。

 人は喫煙と言う行為に、何を求めているのだろう。

 煙草を吸ったことがない香織は、そこに共感できるような理由を見出だすことはできない。誰に聞いても人それぞれだと言う回答しかないだろうが、知彰の場合は一種の自傷にも似ていた。そう言っても、本人は認めようとはしないのだろう。

 知彰が抱える何かの正体を、香織は知らない。知る由もない。

 だが、愛しているなどとは決して囁かないことが、深い何かを、物語っているように思えた。

 香織は、彼が自分を愛しているかなんてことは、考えないようにしていた。

 気にしたことがないと言えば嘘になるが、自分がそばにいるのは自分が愛しているからで、彼に愛されているかは本質的にはあまり関係ない。彼は香織を突き放したりはしない。それなりに大切に扱ってくれる。都合がいいなどと嗤われようと、それだけで十分だ。知彰が変人ならば、香織もまた変人と言うだけのことだ。

 どれほど燃え上がるような熱を孕んだ夜でも、醒めてしまえば朝を待つだけだ。その狭間は夜より冷たく、訪れる朝は夜より残酷だ。

 知彰の表情も瞳も、やはり変わらずにむなしさを湛えており、自分などどうあっても束の間に過ぎないことを思い知らされる。いつからそのむなしさを抱え続けているのか。彼がそのむなしさから解放される日は来るのか。香織には、わからなかった。

「香織」

 小さな声で、知彰が呼ぶ。彼女の返答を待たずに――いや、返答そのものには欠片ほどの興味もなさげに、彼は続けた。

「たとえば、自分ひとりが犠牲になれば世界が救われると仮定して、君はそのひとりに名乗り出るか」

 その問いの意味を、彼女は知らない。聞いたところで誤魔化されるだけで、意味など教えてはくれないだろう。いや、本当は意味なんてものはないのかもしれない。

「綺麗事を言うのは簡単だ。だがほとんどの人にとって、我が身は可愛いものだろうな」

 そう独り言ちた彼の言葉から、それが問いかけに代えた自問自答だったことがわかった。脈絡は理解できないが。

「その質問、あなたらしくないわ」

 あえて口を挟んでみると、知彰は横たわる自分を見下ろすように眼をやった。

「起きていたのか」と呟いた彼に、問いかけたのは誰だと言い返すことは控えておいた。彼は、香織に何かを問いかけていたわけではない。そのくらい、初めから分かっていた。

「僕も、そう思うよ」

 ややあってから、知彰は苦笑した。

「あなたが、わたしに同じことを聞かれたら、あなたはどう答えるかしら」

「『そんな不毛なことを考えている暇があったら、寝た方がいい』。こうだな」

「知彰は、知彰の真似が上手いわ」

「何を言っているんだ、君は」知彰が、微かに嘆息した。

 しかし、香織が言いたいことは伝わったらしい。使い古した毛布に身体を滑らせる。セミダブルのベッドは少し狭い気もしたが、嫌いになれない狭さだった。

「この毛布も、買い換えるか」

「そうね。肌触りが悪くなってきたし、何より傷んできて寒いわ」

「明日にでも探そう」

「どうせ忘れるくせに」

「実は僕も、忘れる気がしている」

「わたし、明日の夜も同じような話をしている気がする」

「そして、昨日もそんな話をした、なんて言うんだろ」

 知彰が、小さく声を立てて笑いながら、香織をそっと抱き寄せた。寒いと言ったからだろう。

 彼は周囲から変人だと思われており、知彰もそれを否定しない。香織も普通の男だとはあまり思わない。

 だが、実は至極常識的で優しい男だと、香織は思う。他人なんてどうでも良さそうなのに、恋人への態度はどうでも良さそうではない。恋人を愛しているかはよくわからないが、少なくとも邪魔扱いだけはしない。それだけで、十分だと思う。

 普通とは何なのか、変とは何なのか。香織は時々考える。誰かが勝手に決めた「普通」を、勝手に物差しにしているだけではないか。

 たとえば他の子に比べて物静かなだけの子供が、普通と言う枠からはみ出てしまうことが、往々にしてあるように。

 けれども、その物静かな子は、お喋りでない自分が普通であって、周囲は賑やかだとしか思っていない。それでもその子でさえ、自分の物静かさがおかしいのだと、いつからか、思い込む。……その認識が歪むのは、いつから、何故なのだろう? それは、多くの「物差しから外れた人々」が抱く疑問なのかもしれない。

 先ほどの問いかけには、何の意味があったのだろう。

 自分を犠牲にすれば世界が救われるとして、救世主になると名乗り出るか。

 そんな非現実的なシチュエーションを考えるなんて、彼らしくもない。

 もう何年前だったか忘れたが、救世主が名乗り出て犠牲になる、詰まらない映画があった。誰かが泣けたと言っていたが、香織は全く泣けなかった。

「もし、知彰が自分を犠牲にして世界を救ったとしたら、わたし、きっとあなたに自己犠牲を強いた世界を憎むわ」

 香織は独り言ちた。知彰は既に瞼を閉じており、聞こえているのかはわからない。返事はなかった。香織も、彼が聞いているかなんて興味がなかった。

 もし、香織が犠牲になって世界を救う、その立場に立たされたのならば、可能な限り誰も犠牲にならない方法を探るだろう。たとえ臆病者と誰かに謗られても、彼女はそれが救世主としてのあるべき姿だと、信じて疑わないはずだ。

 世界は誰かの犠牲の上で成り立つものだが、なくてもいい犠牲はない方がいい。綺麗事にすぎなかったとしても、それが香織の答えだ。

 自己犠牲を美談にして涙するのは、それを他人事だと思っているからだ。当事者になれば、美談にならないし、まして泣いてなどいられない。綺麗事を喚いてでも、そんなお涙頂戴は投げ棄ててしまいたい。

 君はそのひとりに名乗り出るか。

 答えを言えば、否、ね。

 香織は自分の中で答えを出して、そこで不毛な思考を中断した。

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