雪/エスケープ・フロム・リアリティ

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 天宮あまみや知彰ちあきの中には、多くの『自分』の記憶がある。

 それは言わば『転生』であり、『逆行』でもあった。男であったことも女であったこともあるし、八十歳まで生きていたこともあれば二十歳にさえならなかったこともある。そしていつも時間だけが巻き戻った。

 その記憶は、必ず同じ終わり方をする。

 二〇二〇年十二月十七日、午前零時三十二分。

 深夜に降っていた雪が唐突に止んで、瞳が電飾のように赤く光る。

 瞳が赤く光った人はひとりまたひとりと、恐らく死んでいると思われる量の血を流しながら倒れていく。自分もまた、その中のひとりになる。

 そして、気が付いた時には誰か別の人間の人生が始まっており、概ね思春期に差し掛かった頃に記憶が戻る。

 あのとき何が起きたのか。何故転生などと言う現象が起きるのか。そして、何故『自分』なのか。謎は、考察したところで答えが出ない。

 ただ、いつかの自分がこの現象を便宜的に『終末』と呼んだのを思い出したときに、それが正しいような気分になった。あれが何かはわからないが、人に突然変異が起きて、次々に人が死んでいくあの光景は、確かに『終末』と呼んでいい。もし、ああやって人類がすべて死に絶えていくのならば。

 多くの自分が、『終末』を阻止するために、様々な手段を、考えた。そして実行した。

 彼らが実行してきた数多の手段を思い出しながら、知彰は無意識に机の隅に積んである箱から煙草を取ってライターで無造作に火を灯した。

無限遠インフィニティ」と言う名がついたその銘柄は、白くて可愛らしい花が飾られたデザインの箱とは裏腹に、世間一般で販売されている他の煙草よりも依存性も有害性も飛び抜けて高いことで有名だった。ほぼドラッグのようなものだからヘビースモーカーでさえ、ほとんどが手を出さない。

 この銘柄は「一生手放せない享楽をあなたに」などと言う、笑えない冗談のようなキャッチコピーで売り出されていた。メーカーはよくもこんな頭がイカれた企画を通したものだと思うが、これを日常的に吹かしている知彰も頭がイカれていることだろう。

 日々煙草の量が増えている現実からは、もうとっくに目を背けていた。手を出した時点で精神のどこかに綻びが生まれてしまっていたのだ、と、まるで他人事のように知彰は自己分析する。そしてそれは、たぶん間違ってはいない。

 この一本、二本程度で現実から逃れられることも忘れられることもない。ただ、肺が煙で満たされるだけだ。胸の奥のどこかで燻っているむなしさは、煙草でどうにかなることなどないことくらい、わかっていた。

 知彰は、何本目かなんて数えたこともない煙草に手を伸ばす。ちょっとした手遊びで、空になった箱を指先で潰してみる。せめて、束の間でいいから、この現実を忘れられたらいいのに。煙と一緒に、この現実も消えてなくなってくれたら、どんなによかったか。

 何度繰り返しても、何を試しても、結果は変わらなかった。瞳が赤く光って人生が入れ替わる。手元に残るのは、記憶だけだ。

 あの日の彼は、帰りが午前様になってしまった不運なサラリーマンだった。

 大雪で帰宅を諦めた大学生、猛勉強していた受験生、立ち往生を食らった宅配ドライバー、子供の帰りを待つ主婦。様々な人間が様々な事情で、深夜その瞬間に立ち会い、いつしか当然立ち会うものになった。そして自分の人生が終わって、新たな自分が始まる。

 今は在宅プログラマーとして、生きるのに必要な金も自堕落な生活を送るのに必要な金も、十分に稼いでいた。深夜に眠り、昼前に起きて、煙草を吹かしながら仕事をして、不規則に食事を済ませて、家から出ることは十日に一度あるかないか。風呂には毎日入っているが、最後に身嗜みを整えるために鏡を見たのが何日前かは思い出せない。

 だが、堕落を貪って現実を忘れるには、彼は少し真面目すぎた。

 今日の日付は正確に言えるし、自宅には時間帯を確認する手段もいくつかある。何だかんだで真面目に仕事に取り組む知彰は、半端者だった。

「知彰」

 不意に背後のドアが音を立てて開いて、女の声がした。机の上の煙草を見咎める。

「もう、またそんなの吸って!」

 その女は煙たい部屋に平然と入ってきて、知彰の首に絡みつくように抱きついてきた。彼女が怪我をしないように、まだ熱がある吸い殻を灰皿に置いた。彼女を窘めながら、窘められるべきはむしろ自分かと冷静に嘆息する。

 星谷ほしや香織かおり

 セミロングの茶髪を赤いシュシュでまとめている。アーモンドのような形をした瞳。日本人女性としてはやや高身長で、部屋着のライトグレーのチュニックワンピースから伸びる手足は細長い。

 彼女は、知彰が面倒な秘密を抱えていることなど知らない。だから、彼のことはただの出不精な変人だと思っている。それでも自分に構い、案じ続け、離れようとしない不思議な女だった。

 香織は自分を邪魔しない。時折こうして部屋に割り込んでくることはあるが、そのほとんどが長時間にわたって仕事部屋に引きこもっている時で、少しは休憩しろと言う意味合いがある。だから、彼女の好きなようにさせていたが、彼女も『終末』で命を落とすのだと考えると度し難い何かを感じる。

 彼女との日々で全てが満たされたら、どんなに良かったことだろう。だが、幸福感をどんなに感じたとしても、むなしさは心の何処かに棲みつき、やがて訪れる未来は強すぎる存在感を放つ。香織の傍は、こんなにも居心地がいいのに。

 せめて自分で満たせばいいのに。

 ある時、香織にそう言われたことがある。彼女は、知彰が何かに対するむなしさを抱えていることには気付いているのだろう。

 満たされることのないむなしさを彼女にぶつけるなどと言う乱暴な真似を行うことは、彼にはできなかった。と言っても、知彰自身は有害性が異様に高い銘柄の煙草で束の間を埋め合わせるなどと言う、自分への乱暴はしていた。彼女を傷つけたくないなど、自分を傷つけている矛盾を無視したエゴでしかない。

 言葉に出さなくても、何ひとつ語らずとも、香織はむなしさに気付いていた。そしてその上で、何も語らず、何も問わない。

 そんな優しい女には、自分は相応しくない。

「その銘柄はやめておきなさいって言ってるのに」

「君の方こそ、僕みたいな変人はやめておいた方がいいんじゃないのか」

 知彰は無理矢理話題をすり替えた。香織の煙草に関連する説教は、長くはならないが頻度は高い。

「わたしが、そんな言葉でやめると思う?」

「君は頑固だから、やめない」

「正解」

 香織が笑った。

 本当に、自分には釣り合わない女だと知彰は思う。永遠の愛などと言う幻想を語れるような男の元にいた方が、幸せになれるのではないか。

 それでも、彼女は自分がいいと言う。本当に、不思議ではあったが、邪険に扱うつもりはなかった。不思議だからと言って、拒む理由にはならないし、むしろ受け入れてくれるのは彼女の方だ。

「けれど、あえて言えば納期がほとんど同時の案件を四件全部二つ返事でオーケーしたのは、さすがに頭がおかしいと思ったわ。そんな方向に変人にならなくてもいいでしょ」

 香織が机の端に積まれた数枚の業務委託契約書に目をやって嘆息したから、知彰は冗談めかして言った。

「人気者は辛いよ。それともモテ期ってやつかな」

「うざっ」

 自分の無計画で仕事が立て込んでいたのは事実だし、今もまだ幾らか残っている。だが、何日も香織を放ったらかしにするほど、知彰も仕事人間ではない。そもそも仕事など生活するためにしかしていないから、確かに仕事よりも香織の方がずっと大切だ。

 知彰は不意に、自分に抱きつく香織に向かって振り返る。

「満たされていないのは、君の方だろう」

 そう告げて、彼女の顎を持ち上げて軽く口付ける。面食らった香織の顎から手を離し、小さな声で囁いた。

「君が望むのならば、僕もやぶさかではない。だが、この続きはもう少し作業を進めてからだ」

 香織が、バカ、と恨めしげに呟いた。

 永遠を騙ることさえできない自分が、知彰はどうしようもなく憎い。

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