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雪が降り積もるプラットフォームは、深夜でも人が多く行き交っていた。
満員電車を降りるなり、男は小さく嘆息した。吐いた息が一瞬だけ白くなって、空気に溶けていく。
立ったまま、夢を見ていたようだ。あんな満員電車の中で、よく眠れるものだと、男は他人事のように嘆息した。
時計を見れば、午前零時十二分だった。
いつも、残業したって二十一時頃には帰宅できている。
雪が降り始めたのは、十九時ごろからだった。とは言え、ずっと社内にいたから、帰社してきた営業が言っていたのを聞きかじっただけだが。数時間降り続けば、積もらない方がおかしいだろう。
繁忙期だった。クリスマスが過ぎると、次の成人の日の手前ごろまで業務を締めてしまうから、クリスマス前は駆け込み需要で多忙になる。
「ああ、明日も仕事なのに」と嘆いてから、日付が変わっていることに気付く。もう今日のことか。だからと言って事態が好転することはないし、むしろ嫌な気分が増幅するだけだ。
凍えるように寒かったプラットフォームで十数分待ってようやく乗れた電車は、死人が出るのではないかと思うほどには人間が詰め込まれている満員電車だった。
それから、普段の何倍かの時間を電車に揺られ、ほとんど押し出されるように降りる。もう少し足腰が弱かったら、正面に転倒してしまってもおかしくない。死人は出ていなくても、怪我人はとっくに出ているだろう。
降雪の影響で電車が遅延することは、東京都内では珍しいことではない。
そもそも大雪自体が、この近郊では珍しい気象なのだから無理もないのだが、対策のひとつくらいは用意できないのかといつも思ってしまう。異常気象とは、猛暑と台風が交互に訪れるような、夏だけのものではないだろう。
運が悪いことに、電車は本来降りたかった最寄り駅の一駅手前に到着した時に、運休のアナウンスが流れた。
ここからどう帰宅したものかと思案しながら、電車を降りる。ただし、どうせ歩くかタクシーを拾う以外にはないだろう。
運休になったことで駅員に抗議している乗客の横を素通りして、改札を通り抜ける。抗議などしたところで意味がないことは、あの乗客自身もわかっているだろう。それでも文句を言わずにはいられないのだから、人は矮小なものだ。話を聞かねばならない駅員の気持ちも考えてやればいいのに。
仕方なく、駅を出る。深夜に雪が降っているからか、いつも見える景色がよく見えなかった。
駅前のタクシー乗り場から長蛇の列が伸びているのだけは、はっきりと見えた。並んでいる人数は五十人程だろうが、タクシーの台数は足りないだろう。この積雪で立ち往生を食らう車が多いことは、想像がつく。まず配車が間に合うはずがない。列は、次から次へと長く伸びるだろう。
男は自動販売機で買ったホットコーヒーを一息に飲み干すと、折り畳み傘を開いて雪が降る道を歩き始めた。
平時だと自宅まで歩いて二十五分ほど。既に雪が積もっており、今なお降り注いでいる事情を考慮すれば普段よりはずっと体力も時間も使うだろうが、それでも歩けない距離ではないのは不幸中の幸いと言えた。
歩き始めてすぐに、雪には誰かの足跡のような穴が開いているのが見えた。この近くに住んでいるのか、タクシーを待つのを諦めたのか。実際に男の背後には女がいる。彼女も、同じような考えで徒歩で帰ることを選んだのだろう。
ホットコーヒーを飲んで少しだけ上げておいた体温が奪われるのには、五分もかからなかった。
傘を握る手が寒さで
そう言えば、電車の中では奇妙な夢を見た。男は無理に夢を回想して、少し気を紛らわせようとした。
夢の中で、自分はひとりの男子高校生に成り代わっていた。名前は覚えていないが、少なくとも過去の自分ではない。そして、その男子高校生は実の姉らしき女を自宅で殺害し、バスに乗ったところで目が覚めた。
妙に、リアリティがあった。少年は姉を殺す時、何の躊躇もなかった。しかし、猟奇的と言う感じでもなく、言ってみればそれは機械的だった。おはよう、とでも挨拶するかのような当然のことのように、姉を殺したのだ。倫理とは何なのだろう。殺人の前には倫理と呼ばれるハードルがあるが、この少年は倫理なんて簡単に蹴り倒せるような何かを持っていたのかもしれない。
わざわざ凶器と逃亡時に持ち歩く荷物を用意する周到さと裏腹に、手近なバスに乗るという逃亡手段の雑さ加減も、妙に現実味があった。
そんなことを考えながら歩いているうちに、近くにコンビニエンスストアの電飾が見えた。古い電飾なのか、明るさはあまり感じられない。さすがに疲れたので、少し休憩しようと駐車場を通り抜けようとする。コーヒーくらいは売っているだろう。
背後にいた女は、寄り道するつもりはないようだった。女が自分を追い抜いた頃に、雪が止んだ。
男が傘を閉じるのと女が傘を閉じるのは、ほとんど同時だった。これで、少しは楽になるかもしれない。
傘を閉じるために足を止めた瞬間、女の表情が少し見えた。疲れてはいるようだが、まだ若い女のようだった。二十代半ばくらいだろうか……
そして男は気付いた。今、三メートルほど前に立っている女の表情までわかるほど、自分の視界は明るいことに。何故、明るい? 深夜の屋外なのに?
コンビニエンスストアの前と言っても、住宅街の中にある古臭い電飾は、駐車場まで照らしてはくれない。街灯はあるが、足元を照らすだけで手一杯になる光だ。それでは、何故ここまで明るいのか、いよいよ不可解だった。
女が、足を止めた。こちらを、じっと見ていた。
その眼は、赤く光っていた。
インスタントカメラの写真を現像して、たまに見かける赤い瞳。そういう赤さだった。ただ、目の前にいるのは写真でなく人間そのもので、光っていた。それが明らかに、異質だと言わざるを得なかった。それはまるで電灯。だから、彼女の顔が照らされたのだと、男は妙に納得した。その眼が、普通かどうかはともかくとして。
その思考は、数秒も続かなかった。
女が、雪の上にドサリと音を立てて倒れたからだ。
倒れた女に目をやると、周囲の雪に赤い液体が沈むように染まっていた。赤い光は、空気に溶けるように消えていった。
何が起きたのか、理解できなかった。
理屈ではないどこかが、警鐘を鳴らす。逃げなくてはいけないような気がして、男は駆けだした。雪に慣れていない男が、雪に足元を掬われて、まともに走ることなどできるはずもない。だが、それでも、逃げねば。救急車を呼ぶなんて、悠長なことをしている余裕はなかった。
視界は妙に明瞭だった。
窓から外を眺めていた、近くの家の住人。コンビニエンスストアのアルバイトらしき店員。四トントラックの運転手。皆、瞳が赤く光っていた。四トントラックが、前を走るスポーツカーに追突する。ハンドルに突っ伏しているらしい姿が見えた。
コンビニエンスストアの扉。窓硝子に映る自分の瞳が、赤く光っていた。
男の記憶は、途切れた。
二〇二〇年十二月十七日午前零時三十二分。
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