落花流水
桜崎紗綾
プロローグ
0 - 1
扉の前に、少年が立っていた。
「無駄だよ」
少年は感情のない声で、告げた。「姉さん」
ノートパソコンが置かれたデスク。経年でくすんだアイボリーのラグ。同じくアイボリーの閉ざされた遮光カーテン。キャラクターの柄のピンクのベッドカバー。
専門書が詰められた本棚。本棚に収納できなかった本が、十五冊ほど床に平積みにされ、その平積みは崩れかけていた。
少年が立つ扉は、この部屋のウォークインクロゼットの扉だ。
「どうして」
ウォークインクロゼットの中から、女の声が聞こえてきた。甲高くて、震えている。ガチガチと震える歯の音が、今にも聞こえてきそうだった。
「ねぇ、
「こうするしかないと思ったからだよ、姉さん」
少年の声は、静かで落ち着いていた。左手が、ドアノブを無造作に掴んだ。ドアノブはすぐには回らなかった。ウォークインクロゼットの中にいる姉が、扉を開かせまいと押さえつけているようだった。
「むしろ、殺すのに、それ以上の理由なんて必要なのかな。そんなの、姉さんだって知ってるだろ」
「そんな、だって、殺人なんてしたら」
「だから何? 犯罪だからやめろって?」
少年の声は冷たかった。左手にはドアノブがあり、右手には包丁があった。
「罪悪感とか倫理観とか、そんなものを盾にとって、それが命乞いのつもりなの」
少年は力尽くでドアノブを捻った。強引に扉を引くと、ドアノブを掴んだ痩せた女が、それに引きずられるように出てきた。
「絋哉、あたしを殺して、どうするの」
「お風呂に沈めてあげる。姉さん、綺麗好きだから、洗わないとね」
明らかに質問に噛み合わない回答だった。それがわざとなのは、女の冷静に回らない思考でもすぐにわかった。
感情が希薄な声は、だからこそ猟奇的で残酷な響きがあった。
痩せた手首を掴んだ。包丁で軽く突くと、女が痛みでドアノブから手を離す。その隙に、少年は腕を引いた。
「嫌、やめて」
ウォークインクロゼットから引きずり出された女が、狂ったように叫び声をあげた。「助けて。絋哉、助けて」
「いや、面倒だな」
少年は悲鳴を無視して、女の背中を膝で踏みつける。
「時間が惜しい。お風呂に入れてあげられないな、ごめんね?」
言葉とは裏腹に、謝る意思など少年には微塵もなさそうで、
黒いトレンチコートのポケットから、何か取り出す。スラックスに合わせるような、細身のベルトだった。右手の包丁を放り投げて、ベルトで首を絞める。女が苦しみだす。少年に、容赦する素振りはなかった。
やがて、女が動かなくなった。
少年はようやく離れた。立ち上がる。姉に一瞥をくれてやることもなかった。やってしまえば呆気ない。だからこそ、法律はこれを許さないのだろうが。
ベルトと包丁は放っておき、少年は鞄を掴んで何事もなかったように家を出た。
十九時半。男子高校生が外を歩いていても、誰にも違和感を持たれない時間帯だった。私服姿だが、ただの塾帰り程度にしか思われないだろう。
少年は、近くを通りがかったバスに乗った。
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