前哨戦 三


 沈み行く夕陽を背景に舗装された道路の端を毅然として歩く。彼の身を包んでいるのは軍服で胸元につけられた階級章や、栄光を讃えた勲章が光に反射にしている。

 勤務時間が終わったとはいえ軍人であることには変わりなく、立ち振る舞いにはそれ相応の規律を求められていた。


「あら、ニールさんじゃないかい」


 知らない女性から呼び止められた。

 ふくよかな体型にエプロンを纏い買い物かごを持ったその姿はどこでも見かけるよう典型的な主婦である。ニールの記憶では主婦に見覚えはない。だが主婦にとってはそうではなかった。なにしろ毎度の活躍で‴オラビアの太陽‴とまで称されたニールを知らない者はこの市において逆に少ない。部下を連れず一人で道を歩いている時は勤務外と知れ渡っているのか、度々同じように道行く人に声をかけられていた。


「どうかなされましたか?」


 連日のモラルタへの対応で帰宅することもできず、執務室で仮眠をとっては脳を回転させ疲労は限界まで蓄積されていた。ようやく五日ぶりに家路に向かっていたところを呼び止められ、苛立ちを覚えたが、臆面に出すこともなく笑顔で応答した。


「ねえ、あの噂って本当なのかい?」


 主婦は耳元に近づいて周りを伺ってから小さな声で尋ねた。嫌な予感がしてならない。


「噂とは?」


「ほらあれだよ。近々大きな戦争が起きるって言うじゃないか」


 やはり、と心の中で呟いた。

 どうやらどこからか情報収集が漏れたらしい。はっきりモラルタとまで伝わっていないのは人から人に噂が伝わる途中で改編されてしまったのか、それとも元から詳細には漏れていないのか。

 どちらにせよ今後の対応を含め、明日には市民に公表するつもりであったが漏れてしまった以上もう一度城に戻って対策を取らなければいけない。ニールは再び心の中で愚痴た。

 ――――あぁまったく、ついていない。今日は早く帰れそうだと思ってスアレスたちに伝えたが、どう言い訳しようか。


「戦争は起きますよ。明日には皆さんへ公表するつもりでした。でも安心してください、僕が必ず守り抜いて見せます」


 内緒にしてくださいね、と少しあざとさも入った含み笑いを浮かべる。主婦はニールの笑顔に見蕩れて少しの間ぼうっと立ち尽くしていた。


「あ、ああそうだね。なんていったってこの市にはニールさんがついていれば安全だね!」


 そう言うと安心して励ましの言葉をかけて離れていった。

 これで主婦からこれ以上噂が広まることはないだろう。

 ニールは主婦が角を曲がるまで手を振って、完全に視線から消えたのを確認すると元来た道へ踵を返した。



 ※※※※


「ただいまぁ~」


 夜もふけった頃、一度戻って資料を新しく作成して、ようやく実家にと帰ってきた。


「おかえりなさい」


 出迎えてくれたのは母――イザンマ・カークランドである。ニールが成人を迎えていることからわかるようにかなり歳はとっているがそれを感じさせない美貌を秘めていた。しかし歳には勝てないのかチラホラと髪の毛に白髪が見えている。


「今日は早く帰ってくると聞いてたのに遅かったじゃない。スアレスもコラレスも『 明日も早いから』って寝ちゃったよ。ニールと話したかって残念がってたから埋め合わせはちゃんととりなさいよ」


「ちょっとやることが増えて帰れなくなったんだ。あいつらには朝にでも話を聞くよ」


 スアレスたちが眠りにつくほどには遅い時間帯であるのに自分が帰るのを待っていてくれた母に感謝しながら居間に顔を出した。


「おかえり、ニール」


 と、父――ホスキンス・カークランドから声をかけられた。居間に置かれたテーブル席の椅子に座って新聞を読んでいる。だが父が新聞は朝の内に読み切る性格なのをニールは知っていた。どうやらホスキンスも帰宅を待っていてくれたらしい。

 両親の優しさに疲れが抜けていくように感じた。


「――――それでこの国は助かるのか?」


 ニールが母の作ったシチューを完食し舌鼓を打っていると、頃合を狙ったかのように父が小さく呟いた。

 カークランドは軍人の一族で、例に漏れずホスキンスも軍人であった。しかしニールが生まれた直後の戦争で片腕を失ったホスキンスは軍を退役し、妻であるイザンマと共にパン屋を切り盛りしていた。

 両親にすら話していなかったモラルタ侵攻の件が漏れているのは父が元軍人でかつての同僚から聞いたに違いないとニールは思い込むことにした。


「⋯⋯多く見積もって半々ってとこかな。正直厳しい戦いになると思う。多くの人が死ぬことになる。それでも半分の可能性が残されているのは相手に時間がないこと。この利を最大限に生かさないとこの国に未来はない」


 ニールの言葉が途切れたところで、父から声が上がる。


「⋯⋯ニール」


「はい」


「いや、そうだな⋯⋯」


 ホスキンスは元々軍人になりたいわけではなかった。身体も小さく、幼少期は病気にも罹りやすく屈強な肉体と精神を求められる軍人とは真逆の存在で将来の夢はパン屋を開くといった有様であった。だが軍人の一族であるカークランドの歴史を自分の代で止めるわけにもいかず夢を押し殺して入隊を決意するも、わずか五年で負傷により退役を余儀なくされてしまう。

 そのお陰で夢であったパン屋を開くことができたと言うのは数奇な運命ではあるが⋯⋯。

 だからホスキンスはニールの自分の不甲斐なさを背負わせたと後悔していて、息子であるニールにどこか引け目を感じていた。

 そのため逡巡した父親は一瞬、ニールに視線を向けた。言い出しにくいことを言おうとしているのがわかる。気持ちを切り替えるように一度テーブルに置かれたお茶を口に含んだ。それをゆっくり口に含んだ後で、新聞紙をテーブルに置き、ニールに向き直る。静かに息を吸い込む。


「⋯⋯ニールが望むなら母さんも私も国を捨てる覚悟はある」


 衝撃の発言にニールは目を大きく見開いた。

 何度も悩んだ、妻とも相談した上で出した答えだった。証拠に片手しかない手が震えている。


「父さんそれは本気ですか。本気なら俺は父さんを逮捕しなくちゃいけない⋯⋯」


「私は国よりもお前たち息子、母さんが大事だ。恨まれようが呪われようが全員の命が助かるなら亡命してもいいと思っている。この気持ちだけは揺らぐことはない」


 ホスキンスは膝の上に置いた拳を強く握った。


「⋯⋯」


 父の強い決意が変わることはないとニールも理解した。


「⋯⋯少し。⋯⋯外の空気を吸ってきます⋯⋯」


 玄関から外に出ることはせず裏口から外に出た。玄関で待機していたであろう母に顔を合わせたくはなかったからだ。


 外の空気はひんやりとしていた。肌寒さを感じて腕を擦ると原因に思い至る。羽織っていた軍服を脱いで椅子に掛けているため、シャツ一枚しか着ていない。

 ニールにとっては逆にこの冷気が思考を冷静にさせてくれていた。


「⋯⋯亡命か」


 確かに方法としては一つの手である。今亡命を決意すれば戦火に巻き込まれることなく脱出できるだろう。それに加え‴黄泉の怪鳥‴と呼ばれている自分が亡命先で志願すれば断る国はまずない。弟たちも自分から宣言すれば不満はあれど口にせずついてくるだろう。

 だが⋯⋯。

 心に引っかかるのはオラビアの市民だった。酸いも甘いも清濁併せ呑んでオラビアで成長してきた。そこには自分一人で乗り越えられないことも存在し、また落ち込んでいるとき手を差し伸べてもらったこともある。

 そして自分が育ったこの市が消えてなくなるのを想像するとおぞましく吐き気を催した。


「ままならないな⋯⋯⋯⋯」


 何度も苦しみ抜いた上でニールは最も過酷な道を選んだ。

 出て行ったときと同じように裏口から居間に戻ると出て行く前と同じ体勢の父と、その横に母が座っていた。

 母の顔も強ばっていて緊張しているのがわかる。


「結論は出たのか?」


「はい」


 沈黙が場を支配する。とても重く苦しい空気感だった。逃げ出したくなる。

 しかし、この沈黙を破れるのはニールしかいない。


「お父さん⋯⋯」


 言葉がこれ以上続かなかった。これを言ってしまえば家族は家族で居られなくなる。そう思うと決意したはずなのに父を前にすると喉が動かない。

 頬を伝う感触が過ぎり思わず触れるとそれは水滴であった。

 ニールは自分が泣いていることを自覚する。母はニールが泣いているこで何を言おうとしているのか察知した。そしてそれが自分たちが望んでいる答えとは真逆のことも。

 母は泣き崩れて嗚咽を漏らし、耐えられなくなって居間から出て行った。胸が更に締め付けられたように感じる。父は何も言わずただ見つめていた。


 ――――俺が泣く権利なんてないのにな。


 静かに、大きく、息を吸い込んだ。


「お父さん、僕はこの国と運命を共にします」



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