予兆 六
鬼神めいた形相をしていた女性は「ふぅ」と一息つくと年相応の表情を見せる。そこでようやく周りに意識を向ける余裕ができたのか背後で固まっていたスアレスに気づいた。
「ん、誰だお前? あいつの仲間か?」
女性はやや警戒を強めて青龍刀を握り直す。
「いやっ、俺は仲間じゃない! むしろあいつを捕まえようと追ってきたんだ」
「そう言われればそうかー、軍服着てるしなー」
女性は気を抜いて青龍刀を肩で担いだ。そこでスアレスは初めてその女性の全身を視界に入れる。
まず最初に目につくのは燃えるような真っ赤な毛髪だろうか。無造作に伸びた髪の毛を黒いリボンでくくってポニーテールのような髪型をしている。瞳も紅く獰猛な目をしており、全体的に気の強そうな印象に見えた。服装はスアレスと同じく軍服を着ているが胸元の軍服越しにもわかる豊かな双丘が男女の区別を強調していた。
しかし、容姿だけなら男性が群がるような美貌を持ち合わせていながらも肩に担いだ青龍刀や、汚れや返り血のせいか女性らしさはあまり感じなかった。
「イレーナ・スタルヒンだ」
「は?」
口調は男勝りなところもありながらもどこか透き通るような綺麗な声。そんな聞き漏らしようのない声でありながらもイレーナに見入っていたスアレスは咄嗟に反応できなかった。
「は? じゃねえよ。名前だよ名前! アタシが教えたんだからお前も教えろよ!」
「あ、ああそういうことか。スアレス・アルカディアだ」
「うーん、アルカディアは長いな! スアレスでいっか。お前もイレーナって呼べ!」
親父も、兄も、祖父まで軍人であるスアレスは幼少期から自分も軍人であれと英才教育を施されていた。その為同世代の少年少女と遊ぶ機会も無く、知り合いの女性と聞かれれば家族ぐるみの付き合いがあるリーザだけと言う女性遍歴のスアレスにとって初めて出会った女性の名前呼びは難易度がとても高かった。
「お、おぅ。⋯⋯イレーナ?」
何度も口の中で名前を呼ぶ練習をしてようやく声に出した。実際口から漏れたのは近くにいればギリギリ聞き取れるような小さな声だったが。
「なんで疑問形なんだ?」
「い、いやなんでもない」
それ以上イレーナが追求することもなく場は沈黙が支配した。イレーナもあまり喋る人柄ではないのか所在なさげに端の壁の方に腰を下ろした。どうやらここで待機する必要があるらしい。
女性と会話をした回数自体が殆どないスアレスはどうにか会話を続けようと話の種を探す。
「そういやなんで屋根の上から飛び降りてきたんだ?」
そのことを問われると、イレーナはビクッと肩を揺らした。どうやら聞かれたら不味いことだった。
「あ、あー。お前ってここら辺じゃ見ない顔だけど新入りか?」
「新入りって王都守備兵ってことか? それなら違うぞ、オラビアから伝令の役目を承ってここに来たんだ」
「なんだ! 新入りじゃないのか!」
元から表情は豊かな方だったのか露骨に安心した顔をする。それから周囲を見渡すとスアレスにこっちへ来いと手招きした。
「まー、なんというかだな⋯⋯最近激務に追われていたから少し、すこーしだぞ? 屋根の上で仮眠をとっていたんだ。ほんとだぞ! 少しのつもりがお昼を過ぎていたなんてことではないからな! そしたら下で騒ぎ声が聞こえる起きてみたらひったくりが見えてな、それで屋根伝いに追いかけて行き止まりまで来た犯人を見かけて飛び降りたんだ」
イレーナは身振り手振りでなんとか詳細を伝えようと表現する。コロコロ変わる表情はスアレスから鬼神めいた先程の表情を忘れさせ、真逆に可愛らしいと思わせていた。
「屋根伝いって全部繋がってるわけじゃないけど、もしかして飛びうつってきたのか?」
スアレスが尋ねるとフフンと軽く笑ったイレーナはおもむろに立ち上がり腰に手を当て自慢気な態度を取る。
「いかにも! お前は知らないようだから教えてやろう! スタルヒンと言えば70年前のアッキドの戦いにおいて負け戦を敵の馬を奪い、そして再び違う敵の馬を奪う、奇策を用い見事逆転勝利に導いた鬼神の如き将軍と言われれば――――」
「‴不死身の幽虎‴ アクィナ・スタルヒン将軍か!?」
さっきまでとは打って変わって目の色を輝かせてるスアレスに、イレーナは少したじろぐ。
スアレスにとって座学は苦痛でしかなかったがその中で唯一楽しみだったのが歴史である。己の身を犠牲にして国を守った英雄、とどまることを知らず突き進み続けた大王、そういった過去の偉人に思いを馳せていた。
「な、なんだ、知ってるんじゃないか」
「もしかしてイレーナはアクィナ将軍の子孫なのか?」
気を取り直したイレーナは再び腰に手を当てて自慢気な態度をとった。
「そうだ! アタシはアクィナ将軍のひ孫にあたる。ひいお爺様は馬から馬に飛び乗れたんだ。その子孫が屋根から屋根へ飛び移ることなぞ造作もない!」
「すげーっ! じゃあ誰かからアッキドの戦いの顛末とかも聞いたことあるのか!?」
「もちろん!話してやらんこともないぞ!」
尊敬しているひいお爺様であるアクィナを褒められたイレーナは有頂天になりスアレスが聞いていないことまで語り始めた。
しばらく二人が盛り上がっていると、路地裏からこちらに向かって足音が聞こえてきた。倒した犯人の増援かもしれないとお互い話を打ち切り身構える。
「ハァ⋯⋯ハァ⋯⋯ようやく見つけました。取り返したのなら早く戻ってきてくださいよ――――ってなんですかこの有様は?」
路地裏から表れたのはコラレスだ。大きな身体に見合わず体力はからっきしのコラレスはここまで走ってくるだけで肩で息をするほど疲れ果てていた。
だが、目の前で死んでいる犯人と、見知らぬ女性と盛り上がっているスアレスを見やり、想像を越えた空間に理解するのを止めた。
ポケットからハンカチを出したコラレスはそれで口元を抑えながらスアレスに非難の目を向ける。
「ひったくり犯如きが何故死んでいるのか説明してもらえますよね」
「いや、俺は殺ってない! 横にいるイレーナが殺したんだ!」
「ん? なんで殺しちゃいけないんだ? こいつは犯罪を犯したんだぞ」
「いや犯罪って⋯⋯たかがひったくりじゃないか。その程度で殺すのはあまりにも酷いんじゃないか?」
言い終わるよりも前にイレーナが言葉を挟む。先ほどとは打って変わって言葉の端々に怒りが篭っていた。
「その程度ってなんだ? 軽犯罪者は同じ罪を繰り返しやすい。じゃあこいつが釈放されてまたひったくりしたときに抵抗したらそいつはどうする? 邪魔だからって殺すかもしれないんだぞ?」
「それは流石に話の飛躍のしすぎじゃ――――」
「絶対に無いって言いきれるのか! もし起きたらどうする! ひったくり程度とお前が殺すのを躊躇ったこいつが! 強盗殺人を犯したら、強盗程度に殺された家族の気持ちはどうなる⋯⋯!」
スアレスとコラレスがイレーナの豹変ぶりに絶句している姿を見てようやく冷静さを取り戻した。
「悪い、言いすぎた⋯⋯」
「⋯⋯いや俺もなにも考えず軽薄な発言だった」
何とも言えぬ空気が場を支配したが今回は第三者の介入によってさほど時間はかからなかった。
「イレーナ様! ここに居ましたか! アイーダ様がお呼びです」
見たところ二等兵の階級章をつけた兵士4人がイレーナを連れに帰ってきたように見える。
近くにいたスアレスだけにはイレーナが小さな声で「お母さまがなんでわたしに⋯⋯」と呟いたのが聞こえたが知り合って浅い自分が口を突っ込むべきではないと聞かなかったふりをした。
「わかった、すぐ行く。すまないがお前たちは死体の処理をお願いしていいか?」
「かしこまりました」
命令された兵士たちは嫌な顔一つせず、即座に二人が身分確認などの検分、もう二人は死体を包む袋をとりに走ってどこかへ行った。
兵士たちが死体の処理を的確に始めたのを確認してからイレーナは最初に出会ったときと逆再生のように壁を蹴って屋根に上り、消えていった。
残されたコラレスとスアレスは完全に部外者と化していて立ち尽くしているしかない。
「兄貴、ここはこの人たちに任せていて大丈夫そうです。僕らは女性に結婚式の衣装を返しに行きましょう」
スアレスより早く頭を切り替えたコラレスは落ちている大きな袋を拾って、女性のところへ戻ることを促した。
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