#8




 彼は目を丸くして、心の底から驚いた顔をしていたっけ。

 その時にこの人が本当に素直でイノセントな人なんだ、と直感した。

 結婚していた彼にとって、婚外交渉の相手は私が初めてという訳じゃなかった。私も大人だし、それは何の問題でもなかった。

 むしろ苦しかったのは、私が本当に、彼のことを愛してしまいそうだった、ということだった。だから私は、本能的に、直感的に自分を守ったんだと思う。結婚してます、という嘘をつくことによって。

 そしてなお、始末に終えないことに、彼自身がそれを真に受けてしまった。

 そんな些細な嘘を、スッと、信じ込んでしまった。

 相手がもっと世慣れた女の人なら、彼もそんな嘘を軽く見抜いたのだろう、と今では判る。そんな嘘を見抜いた上で、言外の意味を察し、身を引くか、あるいは強引に奪うかしただろう。それぐらいの気は回せる人だ。そう、今では判る。相手が私だったから。私だったからこそ、彼の目は曇ったのだ。それは、私がまだ幼稚で未熟な女性だったからではない。私にとって彼が特別な人だったように、彼にとっても私が特別な人だったからだ。磁石が引き合うように。川の水が海へ流れるように自然に私たちは引き寄せあった。だから、彼は、その予想だにしなかったモラリスティックな障壁に、必要以上にたじろいだ。

 その後、私たちは交際を始めることになるわけだけれど、それでもわたしは、つき始めた嘘を覆すことができなかった。そして彼が、私を【不倫させている】ということに苦しんでいることも、私は気づいていた。気づいていたけれど、私にはどうすることもできなかった。


 私は(こういう言い方は不遜に過ぎるかもしれないけれど)彼と結婚するような女ではない、と思っていた。

 生まれたときから銀のスプーンを使い、ペニンシュラのスウィートを普通に使えるような人とは、私は釣り合うはずがない。私は地方の普通の銀行員の家庭に育った娘だから。だからこの恋は、大切な恋だけど、いつかは『終わらせなくちゃいけない恋』だと思っていた。

 こんな風に恋をしたのは、初めてのことだった。


 彼に抱かれる時、私はわざと、家で待つ夫に嘘の用事の電話を入れたりした。嘘のメイル着信を装ったりした。それはいわば、私の恋心の安全弁だった。これ以上深入りしないように。これ以上、自分の世界を開放しないように。


 彼に抱かれていない時は、私は初めて味わう、心の平静を感じた。いや、初めてではない。実家に住んでいたころに感じた、安心感だ。あそこに帰れば家族がいる、と思えるからこそ味わえる安心感。それと同じような気持ちを、離れて暮らす彼に感じていた。

 肌が触れ合っていても、触れ合っていなくても、私たちはひとつだった。何より私を驚かせたのは、彼も同じことを感じている、と私が信じられたことだ。そんなことは今まで経験したことすらなかった。今までの恋は、いわば、どちらかが熱くなり、その熱にほだされてもう一方も熱を持つような関係だった。けど今はそうじゃない。私と彼は、互いに発熱し、互いの熱で体温を保っているのだ。


 やがて、私は、彼の赤ちゃんが欲しくなった。


 低用量ピルを服薬する習慣は続いていた。

 彼にもそれを告げていた。彼と定期的にセックスするようになってからは、互いを信頼し、コンドームなどの避妊具も使用しなくなっていた。

 だから私は、服薬を止めさえすれば、妊娠が可能な状態にあった。

 でも私は、彼に最初についた嘘を覆せないのと同じように、ピルの服薬も止めることができなかった。

 それは極めてロジカルな理由によるものだ。

 つまり、私は私の一存で、彼の赤ちゃんが欲しいと思っているからだ、ってことだ。

 彼と一緒に、子どもを作ろうと思ってセックスをしているわけじゃない。彼も私も、互いの身体を重ね、心を合わせることが目的でデートを重ねてた。一緒にいること。くっついていることが大事なんだった。


 けど、赤ちゃんを作る、赤ちゃんができた、となれば間違いなく、彼は奥様と離婚をする、と言い出すだろう。

 ―――彼はそういう人だ。

 そう言われたら、私は拒むことができるだろうか。


 彼の会社の中での彼の立ち居地は、いますこし微妙なところにある。

 保守的な会社の潮流を変えようとする急進派の中核として、若い三代目の彼はお神輿みこしに乗っている。

 担いでいるのは、社内の若手と現場の人たち、そして私の勤めている会社ザ・ファームだ。

 けれども特権を享受してきた昔からの幹部・上層部のおじ様方は、当然のごとく彼を煙たがっている。

 もし私が赤ちゃんなど作ったら。そして彼が離婚することになどなったら。

 嫌な言い方だけど、それは立派なスキャンダルとして、保守派巻き返しのレバレッジ(てこ)とされるだろう。

 私が望んでいるのは、そんなことじゃない。全然、ない。


 私は、私の一存で、彼の赤ちゃんが欲しいと思っているのだ。

 女として生まれたからには、母親になってみたい。そしてこの手に、ちいさな命を抱いてみたい。

 けれども今まで交際した男性の中で、「その人の子どもを作りたい」と思った人はいなかった。そんな風に思える恋をしたことがなかった。彼をのぞけば。


 まだ実家にいた頃、従姉妹のお姉さんが産んだ赤ちゃんを抱いたことがある。

首が据わっていなくて、まだグラグラとしてとても怖かった。けれどもその小さいひとは、モミジのようなはかない手で、私の指を握り、そんなに大きくはない私の胸に顔を押し付けて、おっぱいを探していた。

 その時は驚くばかりで、特になんとも思わなかったあの情景が、思い出されてならない。


 最近私は、ピルを服用するたびに、ためらうようになった。

 私を守るべきこの小粒の丸薬は、本当に私を守っているのか、と考える。

私は彼に内緒で、彼の子どもを身体の中に宿すことを想像し始めている。

私の中の、ピンク色の小さな部屋。あたたかく、やわらかなベッドの中で、彼と私の種が出逢い、そして命の芽になる。

 その部屋はどんなだろう。私の声は届くだろうか。きっと私はことあるごとに、大きくなってゆくお腹を触るだろう。その部屋の中で蹴ったり、眠ったりする子を、どんな風に感じるだろう。

 彼と出会えて知りえた喜び。それは私の価値観を一変させるほどの力があったけれど、この身体の中の小部屋に新たな命が宿る時、私はきっと、もう一度生まれ変われるんじゃないか。ううん。そんな大袈裟なことじゃなくていい。ただ、愛しい人の子どもを宿して、私は穏やかにほほ笑んでいたいだけだ。


 今日の約束は、仕事終わりの二十二時に、いつもの「望遠鏡のお部屋」で、だ。

私はその歩き慣れた超高級ホテルのやさしい絨毯敷きの廊下を歩いていく。彼の待つ、部屋に向かって。

 今朝、私はあのクスリを飲まなかった。

 私は基礎体温を測り始めている。


 彼には言えない。

 結婚しているなんて、丸っきりの嘘だということも。

 セックスの後、私を抱きながらしくしくと泣くことさえもある、一回り以上年上の彼には言えない。

 あなたの赤ちゃんを、私はすべてと引き換えに宿そうとしつつあることも。


 いつものドアについた。

 チャイムのボタンを押して、キーが開放される音がすれば、でも、すべては動き出してしまう。そう、すべてが変わり始めるかもしれない。

 下手をしたら、彼は生まれついての銀食器を失うかもしれない。

 この豪華すぎる部屋ともお別れになるのかも。

 けれどそれと引き換えに、比べ物にならないくらいのギフトを、私は手に入れるのかもしれない。

 私、なのか?

 私たち、なのか…。


 あぁ。


 このチャイムのボタンを押して、ドアが開く時。

 それは新しい物語の幕が開く時なのかもしれない。


 そのピンク色のあたたかな部屋に、




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