#6
雅子叔母。
雅子叔母こそが、私の選んだ生き方のロールモデルだ。
祖父のお妾さんの娘。やり方によっては、ありあまるほどの富を自由に享楽できたはずなのに、雅子叔母はお爺さまからの一切の援助を経った。
家、という透明な牢獄のなか、どんな愚痴もこぼさずそれと戦い、そしていつしかそれを守る側にまわった母。
そして同じ我が家という帝国から抜け出し、それに影響されない生き方を貫く雅子叔母。
私にはふたりのロールモデルがいた。正反対の人生を生きた、それぞれの女。二十歳の私の前にはそのふたりが立ち、私はどちらの人生をも選ぶことができた。
そして私は、この家を別れる道を選んだ。
雅子叔母のことを知ったのは、一九の歳のことだった。
まだ学生だった私は、ふとしたきっかけでお爺様に愛人がいたことを知った。その頃はオメカケサンなどという言葉を口にするのも汚らわしく、アイジンと呼んだ。
しかし成長するに従い、男性の本能ともいえる浮気心と、自分自身の不倫経験も経て、「アイジン」は「お妾さん」になった。
雅子叔母はその時四〇代前半。
優雅な独身貴族としての三〇代を終え、子どもを作らないことを決めて、ハンサムで包容力のあるやさしい男性のパートナーを得ていた。その生まれの厳しさを背中に押し込めて、でもすさむことも拗ねることもなく、本当にやさしく芯の強い女性になっていた。
「よし子ちゃんはね、わたしみたいになっちゃ駄目なのよ」と穏やか口調で話してくれたことを、今でも忘れない。
一九の頃、その存在を知り、私は家族に内緒で目黒に住む彼女に会いに行った。どんな人なのか興味があった。怖いもの知らずの少女を、職業婦人だった彼女はおだやかに迎え入れ、嫌味のひとつも言わなかった。
むしろまるで年の離れた妹を、血のつながった姪を見るように、やさしく扱ってくれた。
私がお酒をおぼえたのは、雅子叔母のおかげだった。それまで出入りしたことのなかった、大人のお店屋さん(カクテル・バァやホテルのラウンジ)に私を初めて連れて行ってくれたのは、兄でもなく、年上の恋人でもなく、雅子叔母だった。
まだ背伸びのしたい盛りの私のワガママにひとつひとつ、根気強く付き合ってくれた。何ひとつ否定せず、何ひとつ頭ごなしに命令したりすることなく。
私は雅子叔母の優しい庇護の中で、家を離れたところで私自身の価値観を育んでいった。
私は最初からずっと、雅子叔母との関係を家の誰とも話してこなかった。
母や父は恐らく強く否定するだろうし、堅物の兄は最初から我が家の価値観を疑うことなく信じていたので、打ち明け話をする相手には思えなかった。
学生時代に知り合った相手と結婚してしまうなんて、いかにも兄らしいと思う。恋や愛を、人生の中の重要な要素として捉えていないのだ。兄嫁を悪く言うつもりはないが、他にも様々な選択肢が、兄ならばあったはずなのに、あっさりと生涯のパートナーを決めてしまった。そしてふたりはずっと仲良さそうに過ごしている。兄らしいといえば、いかにも兄らしい。
もちろん、そんなパートナーを得ることのできていない私が、大層なことを言える立場ではないと思うが。
いま、既に母と同じく初老の域に入った雅子叔母は、パートナーと死別し、馬込の閑静なマンションでひとり、生きている。雅子叔母の母親である、お爺様のお妾さんは既に鬼籍に入り、雅子叔母は誰に頼ることもなく生きている。いや、私がいる。
私はいまでも、時々彼女を訪問しては、お茶を飲み、食事をし、語らいの時間を持つ。
こうして実の母と疎遠になったのも、思えばその分のエネルギーをこの血縁関係のない叔母に注いでいるからかもしれない。
私自身の子どもを生むためのデッドラインは同時に、雅子叔母にとって、孫に近しいような存在を胸に抱く日までのカウントダウンなのだ。
想いは
気づけば今日も、松山空港を飛び立った737は、横須賀から東京湾を横断して市原上空でゆっくり旋回し、羽田へのランディング体勢に入っている。夜の東京が、窓の外に広がっている。
―――私の街。
芝の家と会社。
馬込の雅子叔母。
私自身の六郷の住まいと、日本橋のオフィス。
いくつかの馴染みのレストランと、友人達。
私の街が、東京が、私を迎えてくれている。
私はここで、成長し、やがては老いて行くのだ。
しかしこうして空の上から私の街を見るたびに、そこはかとない違和感を覚えるのはどうしてだろう?
まるで夢から不意に目覚めた時に、周囲にちっとも現実感を感じられない時のように。
そんな時私は、こう思うことにしている。
本当の私は、移動してゆくこの航空機の中にいるのだ、と。
私の居場所は東京ではなく、ましてや日本各地の市民会館大ホールの舞台袖でもない。
私の居場所は、このボーイングの窓辺の席なのだ。移動すること、それ自体が私の人生そのものなのだ、と。
そう思うと、生きることはそんなに困難な事業ではなく思える。すべてはかりそめの時間。移ろいの中で変化してゆく、とめどなきもの。
そう。
それが、私の部屋。
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