高度三万フィートの部屋

#5




 787、737、777。

 私がこよなく愛する椅子を備えた、航空機の型式番号だ。

 メーカーは、ボーイング。運用する航空会社は青い会社に決めている。

 書類上の私の部屋は、東京都大田区六郷にあるけれど、私が最も愛する部屋は、高度三万フィートをマッハ0.8で飛翔する、国内線旅客機の窓辺にある。

 時にそれは新幹線になるけれど、こうして胸の中によみがえる車窓の景色はやはり、圧倒的に航空機のほうが多い。


 イベント・プロデューサーという職業柄、国内の各都市への移動、それ自体が私の仕事となった。熊本市民会館、酒田市民会館「希望ホール」、松山市総合コミュニティーセンター。どれもが、日本橋のオフィスにある自分のデスクと同じぐらい慣れ親しんだ、私の仕事場だ。

 月の第一週は盛岡市民文化ホールで日本緩和医療学会の講演会を運営し、第二週には東京で打ち合わせを、第三週には平塚中央公民館で神奈川子ども絵画展の展示会を、第四週は大阪城ホールで、陸・海・空自衛隊合同コンサートの仕込みをする、なんてことが私の日常だ。


 そして私は、飛行機で移動する時にはほとんど眠らない。眠る間を惜しんで、窓からの眺めを見続ける。

 国内線の飛行機の移動時間は、長くても3時間だ。常に窓辺、それも主翼のすぐ前の座席を確保する。そして小さな窓に額をつけんばかりににじり寄り、その景色を眺める。昼でも夜でも雨でも晴れでも。分厚い二重窓の中で、時に覗き込む自分の顔が映り込んだりする。雲が流れ、雨粒が打ちつけることもある。

 いささか常軌を逸した移動に次ぐ移動の旅暮らしの中で、私が見つめ続けたその風景。轟々とした機内の騒音を忘れてしまうほど魅力的な、忘れられない風景の数々。

 それは私を癒し、鼓舞し、英気を与えてくれる。


 思い出す。

 釧路からの夜間便。

 その日は晴れ渡った10月の夜だった。日本列島は広い安定した高気圧に覆われ、釧路空港の離陸時からずっと、窓の外には陸地の姿を見ることができた。

おりしも月は満月。十五夜のフル・ムーンだ。フライト時間中、ほぼ空の真上にいた銀色の天体は、機体が向きを変えるためにわずかに腹をかしぐあいだしか見ることができなかった。

 しかしその満月から降り注ぐ鋭い銀の光は、地表にあるどんな人工照明よりも明るく見えた。

 真っ黒に塗り込められた大地の中に、オレンジや白の様々な照明が灯る。道路、駐車場、グラウンド。地表にあるいくつもの構造物が、その人工照明によって輪郭を明らかにする。が、地表にあるすべての川、湖、沼はいうに及ばず、池、田んぼ、水たまりまでの、全ての水域が、その鋭利な月光を反射し、遥か彼方の航空機に向けてギラリとした輝きを投げてよこした。

 どんな人工照明より遥かに明るく鋭い輝きは、移動する私の心の奥底めがけてまっすぐに照射され、そして私は射抜かれる。その瞬間、心は身体を離れ、四方へさまよう。

 高空を飛翔するジェット機の中でそうしてなんども私は心を置き去りにしてきた。ぼんやりとした抜け殻のような身体のままで、いつとは知らぬ間に、目的地上空にたどり着くことが何度もあった。


 考えていたのは、母のこと。

 祖父が会社を興し、父がそれを継いだせいか、我が家はいささか封建的な雰囲気がつよくあった。父と母にはふたりの子ども、つまり兄と私がいた。後継者が望まれていた母は、初産で男の子を生んだ。だからその意味ではもはや、ふたりめの子どもは必要ではなかったはずだ。だが、兄を一人っ子にさせたくなかった母は望んでふたりめを妊娠した。すなわち私だ。そのような経緯を、私が三〇を越えたある日、母はとつとつと私に語った。


 封建的で絶対的な家長制度の我が家にあって、女性は男性を裏で支えるべき人、影で夫を立てるべき役割であると厳しく決まっていた。しかしそれは言葉にして厳格に運用されるようなルールではなく、態度や振る舞いで自然に身につけるべき、我が家という小さな世界でのであった。

 だから私は、実家を出るまで、その価値観のほかに生き方があることを知らなかった。


 母とは、実家にいるときにはそれほど深い関係になれなかったように思う。

 心を打ち解けあうことはすくなく、むしろ母と娘という強固な関係から抜け出せなかった。それも我が家の古めかしいな価値観がそうさせたのだろう。年上の人、目上の人の存在は絶対であり、敬わなければならない対象だと、刷り込まれていたせいだ。


 実家を離れ、自活を始め、何人かの親友や恋人と触れ合うことで、我が家以外のモラルやルールを持った人々の世界を理解し、そして私は自立をした。実家から。あの不思議な家から。そうしたとき、その中で長年生きてきた母に、私は改めて敬意と親近感を感じた。そして私は彼女を初めて誘って、女どおしの旅に出た。国内の温泉宿への一泊旅行だった。


 山形県、月山にある温泉。古いけれど、くたびれた古さではなく、丁寧に丁寧に時間を蓄積してきた古さ。それは長じて、あたたかさとなり、優しさとなる。

 既に六〇を越えた母と、女どおしの初めてのふたり旅だった。羽田から庄内空港まで空路で1時間。

 「飛行機なんか」という母をなだめて、一緒に飛んだ。離着陸時、普段では経験できないような角度に椅子が傾き、Gがかかる。母は私の手をギュッと握った。生まれて初めて、私が見た母の怯えだった。私は母の手を両手で包み、だいじょうぶよ、と小声で囁いた。

 庄内空港からはレンタカーを借りた。約一時間で温泉街に。

 「あなた、雪道の運転は平気なの?」

 そうなのだ。母は、私がクルマを自由に運転できることは知っているが、それは東京だけのこと。北国の雪道でも、きちんとした装備をすれば安全に走れることなど、少しも知らない。


 母の知らないことは他にもある。

 私が二〇代の頃、妻子ある男性と交際していたことも知らないし、現在はステディな恋人がいないことも知らない。


 宿について身支度を整え、私たちは屋内の大浴場へ向かった。うっすらと湯気に曇った窓の外は静かな渓谷だった。母のちいさな背中と、私の大柄な背中がふたつ、人気ない浴場に並んだ。

 「はじめてね。あなたとこうして出かけるの」

 この旅で何度目かの同じセリフを、母はつぶやく。

 若い頃なら、私はきっとその言葉に苛立ったろう。もう聞いた、などと尖った言葉を返しては、母を傷つけたろう。しかし三〇も半ばを越えて、そうやって何度も気持ちを言葉で確認する母のことが、わかる年頃になった。

 「そうね」と私も答える。

 「お父さんがね」と、母は言う。「よし子には無理だって言うのよ。そんな辺鄙な場所への旅行なんて。おかしいのね。あの人の中では、あなたはずっと、子どものままなのね」

 「そうねぇ。芝の家を離れて久しいしね。あたしがあそこに住んでいた頃は生意気盛りの小娘でしたらかね」

 「あら、お母さんに言わせれば、いまだって小娘よ」

 私たちは、ふふふ、と小さな声で笑った。風呂場に笑い声が反響した。


 やがて大浴場の脇にあるガラス戸をあけて、私たちは目の前にある露天風呂に座を移した。

 音もなく降りしきる山奥の雪景色を眺めながら、とても冷たい石の階段を三段だけ下りるとすぐに、露天の温泉がある。

 私たちは甲高い声を上げながら、少女のようにはしゃいで雪の空気をすり抜け、あたたかな温泉に肩まで浸かった。


 とても気分が良かった。

 肩から下は、芯まで暖めてくれる月山からお裾分けされた天然の温泉。

 肩から上は、ややもすると濡れ髪も凍るような、雪の世界。全ての音を、降りしきる雪が吸い取って、まるで異世界にいるかのような気分にさせる。

 「お父さんも誘えばよかったわね」

 「いいのよ、お母さん。たまには家のこと、忘れなさいよ。お父さんのことも、お爺さまのことも」

 ウチでは、祖父はお爺さま、と呼ばれている。

 「あたしがあの家を出てもう十五年」

 「いろんなことがあったのよ」

 そうだろうと思う。

 私は祖父が会社を興してから初めて生まれた女の子だった。

 我が家の歴史は、会社とともにある。会社を存続させるために、長男は代々、嫁をめとり、男児を生ませてきた。

 「お兄ちゃんところは、赤ちゃんはまだ?」

 「そうねぇ」

 祖父の代には四人の男兄弟。父はその長男だ。父の代は兄と私のふたり兄妹。そしていつかは父の座を継ぐことになるであろう兄にはまだ、子どもがいない。上品で穏やかな兄嫁とふたり、叔父から譲ってもらった麻布台の高級マンションに住んでいる。あそこも芝の家に入るまでの「つなぎ」なのだろう。

 「あなたも、お兄ちゃんのことばかり言ってられないのよ」

 家のぬしであるかのように母は、穏やかに重々しいことを言った。「もう三五を越えたのですからね」

 「大丈夫よ、時が来れば、きっと」

 「そうなんだけど」


 確かに、女として、子どもを授かるのにタイムリミットがあるのはとても大きなハンディキャップだと思う。しかし私にはいつでも味方がいた。父も、母も、兄も知らない味方が。



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