#4




 ぼくの家が営む、商社の話をしよう。

 祖父が言うところの、「大東亜戦争」の後、進駐軍による財閥解体によって、復員してきた祖父の勤めていた商社は、戦前の栄華を失った。鉄鋼業という商社の花形部門に籍を置いていた祖父だったが、その業務はほぼ死に体となり、彼は情熱を傾ける先を失った。

 やがて祖父はその商社の輸入食品部門に配属され、そこで彼は第二の黄金時代を迎える。

 マスメディアの普及とあいまって、彼の担当した輸入食品は、日本人の朝食の中の定番の位置を占めるようになり、やがてその弱体化しつつあった旧財閥系商社に見切りをつけた彼は、子飼いの部下をつれて、独立した。それが、わが社である、ということだ。

 丸の内からほど近い、東京タワーのふもとに自社ビルを持つまでに成長した会社を、やがて祖父は父に譲った。

 「大東亜戦争」を挟んで、第一線の商社マンとして世界を渡り歩いた祖父のバイタリティーは、ぼくが言うのもなんだけれども、父には受け継がれなかった。父は祖父の敷いたレールの上を精密に、正確に歩んだ。祖父ほどの熱情を持たない父だったが、祖父を越えるほどのインテリジェンスを持っていた。おそらく彼は、自分の父親から受け継いだものを、「管理する」というスタンスで経営に向かったのだと思う。

 祖父にとっての会社が、自分の作った子ども、とするならば、父にとっての会社は、養育すべき対象だったのだ。

 しかし父はその役目を完全に全うし、多少の上下はあったものの、わが社は常に、右肩上がりで成長し続けた。

 まだ存命であり、わが社の会長となった祖父。

 そして、ぼくが長じることによって、家督の移譲を意識し始めた父。

そのふたりに囲まれて育ったぼくは、常に、人生の最終目的地を明確に意識づけられて成長した。我が家の遺伝子を受け継ぎ、それを磨くための最高の教育を受けた。ぼく自身もまた、家を継ぎ、会社を引き受けることを当然至極のこととして育った。

 大学卒業後、一旦はわが社に入社し、広島と仙台というふたつの支社の営業職を経験した。それは祖父の命によるものだった。

 現場の泥にまみれ、その厳しい現実を肌で知った。そして帰京し、ぼくは留学した。ボストンで厳しいアメリカの大学院生活を送り、MBAを取得して、社に戻った。五年前の話だ。


 振り返ってみれば常に、ぼくの意識の片隅には、「会社」が存在していた。

 大学の頃、社会に出る不安を語る級友の、その不安が全く理解できなかった。幼い頃から刷り込まれてきた社長への実地訓練が、いよいよ始まるのだ、といういわれもない興奮だけが、静かに胸の内にあった。その意味ではぼくは誰よりも「大人」でなくてはいけなかった。

 そしていま、ぼくの抱えている企画書には、祖父のエゴと、それを抑止できなかった父によって拡張してきた無駄な事業拡大を冷静にカットするためのプランが描かれている。

 ぼくと、ぼくの相棒のコンサルティング・ファームが描き出すわが社の将来像は、暗い。恐らくこのままでは、必要以上に巨体になってしまったわが社は、遠からず自重を支えきれずに崩壊する。そうなる前に、余分な贅肉を切るのだ。

 ぼくは、―――子どもの頃から大人であることを強制されてきたぼくは、わが社を祖父のように「子ども」とも、父のように「対象」とも思えない。ちいさな頃からの背広を着て出席した何周年もの創立記念パーティーで、社員の人々とその家族の集う姿を思い描いた時、経営者は彼らの暮らしを守ることが責務なのだと気づいた。

 本当に必要な人たちを守るために、ぼくは、大人として、本当に必要でない人たちを切り捨てる判断をすべきだと思っている。

 三代目として、ぼくがなさねばならないのは、それだ。

 しかも、そのなたを振るうべき時間は、そう遠い将来であってはならない。ぼく達の予想では、一見元気そうに見えるこの会社はもはや、小さなきっかけで転んでしまう病人なのだから。

 祖父の時代の栄華を知り、父の時代に羽根を伸ばした一部の管理職連中は、まるでソビエト連邦崩壊直前の共産党幹部のように、特権にくるまり、それを当然のごとく甘受している。彼らは本能的にぼくを煙たがり、そしてやがては対立するだろう。彼らは封建的な家督性を否定することで、あたかも自分達こそが正義なのだと主張し、ぼくを追い出しにかかるだろう。あのような下種な怪文書まで繰り出して。


 よろしい、追い出せばよい。

 ぼくは、この会社に未練はない。

 ぼくにあるのは責任であり、未練ではないからだ。しかし守るべき力なき人々のために、ぼくはぼくにできる限りの戦いをするだろう。力なき人々の長年の勤勉に答えるべき情熱を持って、大人としてしかるべき対応をするだろう。

 そう、大人として。


 ―――しかし。


 この部屋に来る時、この部屋に来て、ドアのチャイムがなるまでの時間。

ぼくはずっと身にまとってきた大人という名のスーツを脱ぐ。生まれてこの方、一度も脱いだことのないスーツを。彼女のために。

 ぼくは裸になり、そして寒さと怯えに泣く、ちいさな子どもになる。

 彼女の裸の乳房に埋もれ、そして、彼女の膣の中に射精する。


 彼女が部屋を訪れるまであと10分。

 ソファーに深く腰掛けて、ぼくは金色の望遠鏡をぼんやりと眺めている。


 ――――神さま、とぼくは思う。


 いままで一度だってその人に頼ったことはないのに。

 この出会いはいったいぼくに何をもたらそうとするのか。あなたはぼくを、そして彼女をどこへ連れて行こうとするのか。

 先月、ぼくは妻に「恋をしてしまった」と告白した。これ以上、妻に嘘をつき続けることはできなかった。

 けれどそれを告白したところで、何事かが許されるわけではない。むしろ運命の歯車を、ぼくは動かしてしまったのだ。

 長い時間をかけてはぐくんできた愛を、ぼくは一瞬のうちに粉々にしてしまった。長年の勤労を捧げてくれた社員の人たちより前に守らなければいけない、一番大事な人を、ぼくは自ら傷つけてしまった。そしてぼくは、妻と家庭を、ゆっくりと失おうとしている。


 でも、神さま。

 ぼくはこの恋人を失うわけにはいかないのです。全てを失っても、彼女を失うわけにはいかないのです。全てを失っても。

 だけど彼女には、ぼくと同じにパートナーがいた。それは予想だにしないことだった。生活を共にする大切な相手がいた。


 あぁ、神さま。

 ぼくのためにこのまま、彼女が罪を重ねるのならば。

 どうか、どうか罰はぼくだけに下してください…。




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