#2
最初に電話が鳴った。
このアパートメントを所有している老婦人からの丁寧な申し出だった。
曰く、テレビの撮影隊が、この近辺を取材しようとしている。撮影隊は我らが隘路の池を取材したがっている。アパートメントの部屋のなかで、池の見栄えがもっとも良いのは我が家のベランダだ。よければ、撮影隊を我が家に立ち入らせてもらえまいか?、とのことだった。
前述のとおりの経緯で、わたし自身の精神状態は、とてもテレビクルーをプライヴェート空間に招きいれられるような状況になかった。
だがそんな経緯を全く知らない老婦人は、上品に丁寧にリクエストを申し出たあと、とても有名な初老のコメディアンの名前を挙げた。
「・・さんもいらっしゃるのですって」
我が家はテレビを積極的に見る習慣がなく、リビングにテレビは置いていない。
寝室のベッドに横たわり、週末に映画を見るもの、が我が家にとってのテレビの存在だ。したがってわたしも彼も、芸能情報やテレビ番組については極めて
そう。ケープタウンやクリスマス諸島の天気のほうが、流行りのドラマやお笑い番組よりもはるかに親密であるのが我が家の事情だった。
そんなテレビから隔絶した暮らしを送っているわたしでも、その「・・さん」のことは知っていた。お昼時に流れる長寿バラエティー番組の、彼は司会者だ。
老婦人の上品なダメ押しに、「わかりました」と答えた自分自身に、わたし自身が驚いていた。テレビは見ないなどと気取っても、やはり野次馬根性は捨てられない、ということか。
そして撮影当日。
三〇代後半の若さで経営陣に迎え入れられた彼は、このような事情で会社を休むわけには行かず、いつもと同じように出社していった。我々は、離婚のその日に向かって淡々とカウントダウンを続けていたけれど、それ以上にいままでここで暮らした静かなリズムは、日々の日常としてすべてをこともなげに覆っていた。
「サイン、もらっておいてね」というのが、彼が部屋のドアを出て行くときに残していった言葉だった。
最初に部屋を訪れたのは、老婦人と撮影隊の責任者の男性だった。別箇所での撮影の最中らしく、こざっぱりとしたジャケット姿の彼は、手に菓子折りを持ってきた。とても丁寧に不躾を詫び、わたしのこころと部屋の地ならしを、手際よく行った。
そしていくばくもなく、撮影隊がやってきた。午後2時頃のことだ。二台のカメラ。手持ちの照明。マイクを持った男性と、出演者の身づくろいをする女性。そしてその人々のあいだをコマネズミのように動き回る若い男性。最後にあのコメディアンの男性が入ってきた。トレードマークのサングラスもかけて。
「こんにちは」と、とても気さくに彼は挨拶をしてくれた。
「今日はご迷惑をおかけしまして、」と切り出された。
彼のような有名なタレントが、そんな常識的な挨拶をするということを想像すらしていなかったわたしは、少し驚いて「いえ、とんでもない」とこれまた紋切り型の挨拶しか返せなかった。
責任者の男性がわたしの了解を取り、撮影隊はベランダに出て池を撮影する最適なアングルを探し始めた。秋の最中の今日、ことのほか天気は良く、タレントの彼はうっすらと汗をかいていた。身づくろいの女性が彼にハンカチを手渡し、彼は額をトントンと叩くように汗を取った。
「変でしょう?」と、わたしを見て彼は言った。サングラスの向こうに透けて見える目が、小さくすぼまっていた。
わたしは一瞬、何のことかわからずに、返答に
「こんなふうにしか、汗をぬぐえないんですよ」
わたしの困惑を読み取って、彼は続けた。「撮影用にね、すこしファンデーションを塗ってましてね。こうしないとはがれてしまうんでね」
「そうなんですか」
「私みたいな年寄りに、ファンデーションも何もないんですけどね」といって、彼は小さく笑った。わたしは何と言っていいかわからず、曖昧に微笑み返した。
「もう長いのですか?」
彼はまた、わたしに問いかける。
「ここに?」
「ええ」
「五年になります」
「そうですか。とても素敵に住んでいらっしゃいますね。場所もいい」
素敵、というか、わたし達夫婦はここで、ただ静かに暮らしていただけだった。
「ただ静かに暮らしているだけですよ」
だからそう答えた。
窓の外の景色を見ていた彼は、こちらを振り向いて、
「―――そうですね。東京の喧騒がまるで嘘のようだ」と、目を合わせずに言った。
いつものサングラス越しでも、彼は目をそらしているのが判った。ひどく照れ屋なのだ、とわたしは感じた。いまの言葉は、腹からの言葉だった。そんな言葉を口にしてしまった自分を、コメディアンとしての自分が恥じている、という風だった。
だからわたしは、彼を励ました。
「そうですよ」と。「いつもお祭りをしているようなこの街でも、ここだけは別世界のようでありたいです」
「ええ。なんだかヨーロッパの古い森の奥深くにいるみたいだ」
彼は、窓から見える空と、ちいさな木立を見ながらそう言った。
「光栄です。そう仰っていただけると」
私はうれしかった。
この部屋を、そんな風に評価してくれたのは、彼が初めてだった。多くの来客者たちは、立地条件の良さや贅沢な間取りを褒めることしかしてこなかった。この部屋の、この窓から見える風景、感じられる気配を言葉にしてくれる人は、滅多にいない。
ベランダではたくさんの人たちが話をしながら、撮影の準備を整えつつあった。とても「喧騒とは別世界の部屋」には思えない騒ぎだった。
しかし、とても穏やかに、小さな声で話す彼は、あの陽気なコメディアンではなく、奥ゆかしく素敵な初老の紳士だった。わたしの親密な窓からの風景と気配を、彼は一瞬で読み取った。そしてこの部屋の普段の様子を正確に想像し、その空想上の雰囲気を短い会話の中でわたしとシェアしてみせた。
ベランダで彼を呼ぶ声がした。彼は居ずまいを正した。侍が、鞘からぎらりと刀を抜き出すと、一瞬にして武士に変わるように、彼はちいさな初老の紳士から、一瞬にして有名コメディアンになった。
ベランダに出た彼は、同行した若い女性のアナウンサーと、この池について語った。
彼の広範囲にわたる地理と雑学に関する知識から、東京の名所旧跡をあぶり出し、誰もしたことがなかった観点から光を当てようとする、とてもユニークな趣旨の番組、とのことだった。
彼はわたしの最も愛するベランダから、最も愛する池について、その地勢上の成り立ちと、歴史的な経緯について、とてもコンパクトに語った。その語りはユーモラスで、かつ、非常にわかりやすかった。一枚のメモも見ず、自分の知識だけを頼りに彼はわたしの池を愛で、優しく語り尽くした。まるで、発掘現場の考古学者が、地層から浮き出た化石を
撮影が終了し、責任者がわたしの元へ来た。
できればすこしだけ、インタビューをさせて欲しい、と責任者はリクエストをした。わたしはテレビになど、絶対に出たくなかった。特に、このベランダと池を失うかもしれない今、自分が撮影されテレビに映るなど、絶対に嫌だった。
「いいじゃないですか。ほんの一言でいいんです。放送した内容はDVDにしてお送りしますし」
責任者はその意図を照れだと誤解し、すこし強めに承諾を迫った。わたしは動悸がして喉が渇き、そして途方に暮れた。
ずいぶん長く専業主婦をしていたせいか、こんな風に男性に強引に何かを押し込まれたことは久しくなかった。ひどく混乱し、少しでも早くこの気づまりから逃れられるのなら、どうにでもなれ、という気持ちに傾いた。
そして、「え、えぇ」と言いよどんだその言葉を、あの人がさえぎった。
「嫌がってらっしゃるじゃない。やめなさいよ」
わたしに向かい合う責任者の背後に立って、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で彼は言ってくれた。責任者はその瞬間、我に帰ったようにわたしの、本当に出演を嫌がっている気持ちを理解し、今しがたまでの強引な要請を詫びた。
「…ごめんなさいね」
責任者がこの場を離れた時、そんなに背の大きくない初老の彼は、芸能人のオーラを完全に消し去ってわたしに声をかけた。「視聴者にとって良かれと思うあまり、周りが見えなくなっちゃうんです」と、彼は仲間をかばった。
「ええ」と、わたしは言った。気持ちは、わかる。わかる気がする。
「お気持ちは、わかります」
「ありがとう」
そう言って、彼は微笑した。サングラス越しの細い目が、本当に笑っているのがわかった。
そして撮影隊は部屋を出て行った。彼は去り際に、わたしに握手を求めた。
「無理を言って、すいませんでした」と、恐縮しながら。
「こちらこそ」とわたしも恐縮した。
小さくて、乾いた手だった。ふんわりとしてすこし冷たい手のひらの感触は、今も忘れない。
時間にして30分程度の撮影だった。
彼が去ったあと、老婦人が再度挨拶に訪れた。形どおりの挨拶を交わし、彼女もここを去った。
残ったのは、彼の静かな気配だけだった。
わたしはカウチにぺたりと座って、窓の外を流れる白い雲を見た。
とても紳士的で、穏やかな男性だった。
おそらく、ひどくシャイで、奥ゆかしい人物なのだろう。必要以上におどけて見せるのは、そんな彼一流の、照れ隠しなのかもしれない。
いずれにせよ、彼の残したふんわりとして大らかな気配は、このところ沈みがちだったわたしに、ある種の救いをもたらした。
泰然として、かつ、気配りを忘れず。
わたしはいま、この部屋で、しばらくのあいだ守ってきたものを失おうとしている。愛とか生活とか言われた、人生においてはとても重要なものだ。
わたしは動揺し、混乱し、もちろん傷ついていた。
しかし彼の気配はそんなわたしの心を慰撫し、
―――大丈夫、時間がたてばすべては思い出となり、傷は癒える。今はすこし、風が吹き空気が乱れているかもしれない。けれどもその灰色の雲の向こうには、いつも青空があるのだ。
彼はもちろん、そんなことは口にしなかった。
しかし彼が残していった気配は、わたしに、その極めてシンプルな事実を思い起こさせた。
すべては思い出となり、傷は癒える。
だからいまは、心を強く持って、倒れずにいよう、と思った。
悲しみに暮れる前に、やるべきことをきちんとやる時だ、と。
わたしの愛した板張りの部屋と、ベランダと、池は、そんなわたしを静かに応援してくれるはずだ。いつかわたしがここを離れることを知っていたとしても。
そしてわたしは、彼にサインをもらうのを忘れた。
それを思い出しても、心苦しさは感じなかった。
「ごめんね」と夫に言おう。
軽やかに、そう、言えるはずだと思った。
人のいない、18畳のリビングで。
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