五つの部屋の物語

フカイ

隘路の部屋

#1




 この部屋の窓からは、古いちいさな池が見える。


 東京都港区麻布台。

 麻布十番と広尾という、ふたつの繁華街を足元に控える丘陵のいただきに、このアパートメントは立っている。武蔵丘陵から連なる野山の凹凸の、ここは東端に近い。

 近隣には大使館が多く存在し、近くにある幼稚園の多くが、インターナショナル・スクールだ。

 六本木や渋谷といった喧騒からも遠くないというのに、この街はいつも静寂と、沈黙に満ちている。きっとあの、窓の下に広がる池のせいに違いない。


 わたし達夫婦がこの部屋に越してきて、五年がたった。

 そもそもは夫の叔父の所有物であったこの物件を、世田谷住まいであった我々若夫婦が格安で譲ってもらったのだ。

 越してきた第一印象は、その居住いの良さと、だった。

 港区の多くの物件は窓の外に、どこかしらの高層ビルを望むことになる。あるいはあの貧相な赤いタワーか。

 しかしこの部屋の窓からは、広い空と池に隣接するちいさな森しか見ることはできない。

 場所柄ゆえの静けさがそれに輪をかけて、“東京らしさ”を打ち消しているように思える。


 なによりもあの池だ。

 5階建て、L字型のこのアパートメントと某国大使館によって周囲をかこまれた結果、あたりからは見ることさえできないようになってしまった池。ともすると、この建物のプライヴェート・ガーデンのように見えるかもしれないが、これはれっきとした天然の池なのだという。それを証拠に、その中心からは一年を通してこんこんと湧き出る泉があり、池に住まう動植物と、我々近隣の住民の慰安を育んでいる。


 不思議な池だ。

 丘の上にある、ということ自体が既に奇妙だ。

 普通、池といえば谷間や山あいにあり、地形のくぼみに水が溜まる、あるいは湧き出る水が周囲を削った結果のくぼ地に存在するはずなのに。

 さらに奇妙なのは、四方を建物に囲まれた結果、近隣住民以外の人たちがこの池を見ることがほぼない、という事実だ。

 まるで村上春樹の古い小説にある、ロシアのカルデラを思わせる。火山活動により山の頂上が爆散し、死火山になった後、周囲を壁にかこまれた世界ができる。生態系はその中でのみ奇妙な進化を遂げ、ついには一角獣を生み出すこととなった、あのカルデラだ。


 我々夫妻はここで、一角獣ではなく、別の方向への進化の袋小路にはまり込んだ。

 この不思議な池のほとりで。

 それは、どこへもたどり着くことのできない、夫婦関係の破綻、という隘路あいろだった。


 ベランダに面したリビングは18畳の広さがあり、我々はそこになるべくモノを置かないことを良しとしていた。板張りの間に、優しい毛足のラグをひとつ。北欧のデザインのラックに、同じく北欧の簡素なオーディオ装置。夫はそれで、スムース・ジャズを流しておくことを好んだ。もしくは延々とつづく、英語で放送される世界中の気象情報。

 わたしはそんな不思議な音世界を背景に、窓辺やベランダから、池を見下ろすことが好きだった。

 不可思議で愛すべき池を。


 ――――思うに。

 我々には、恋というものがなかったのかもしれない。

 恋をしたことがなかったのだ。はじめから。

 愛してはいた。確かに。そこに愛はあった。心を寄せ、ふたりの自由と夢、生活と将来のためにできることは全てした。しかし、我々にはというものがなかった。

 だから彼が、「恋をした」と言った時、それがすなわち離婚を意味するものだということが直感的に判ったし、それは抗えないものなのだ、ということが即座に理解できた。


 大学生の時に知り合って、意気投合した。

 わたしは地方から出てきた世間知らずの娘。彼は大きな会社を営む家に育った、品の良い青年。幼稚園からはじまる、伝統あるその学校で最初から進級してきた彼と、神戸の商家の娘のわたし。

 わたしたちは育った環境こそ違えども、ひと目で互いが互いのパートナーであることを見抜いた。

 卒業旅行に一緒に行く前に、はじめて彼のご家族と食事をした。祖父の代で興された会社の二代目として育った義父母は、上品で苦労知らずの穏やかな人たちだった。対して義理の祖父は激しい性格の人だったけれど。


 わたしたちは結婚するまでの間も、普通のカップルがするようにディズニーランドに行ったり、週末一泊二日の香港旅行に行ったりもした。夜のヴィクトリア・ピークにのぼって、九龍島の超高層の夜景を見渡しながらキスもした。

 結婚後に住んだ世田谷の家からは馬事公苑ばじこうえんが近く、様々なイベントに出かけては、美しく躍動する競走馬に見とれたりした。


 しかし今にして思えば、そのどれもが互いの気持ちを盛り上げるために懸命に行われたささやかな催事に過ぎなかったのだ。端的に言えば、恋をしようと我々は何度か試みたのだ。いくつかの外的要因を使って。

 しかしながら我々には致命的に欠けているものがあった。

 それは恐らく、普通の男女が恋に落ちるときに手にする、自然発火的な時めきであり、無思慮でプリミティブな情動である。我々はいわば、枯れた老夫婦として出会い、若さゆえの輝きを手に入れることができないまま、まるで本物の老夫婦のように穏やかで、小春日和の日々を送っていた。子どもにも恵まれず、変化をもっとも嫌い、決まった熱量を消費して淡々と生きることを続けた。


 ベランダから見下ろすあの池に、わたし自身が必要以上に親近感を覚えるのは、そんなどこへもたどり着けない隘路あいろのイメージを投影するからなのであろう。

 わたし自身は、彼から告白を受けたとき、そしていまも、かなり動揺をしている。動揺はしながらも、心のどこかでこうなることが判っていた気もする。

 その愛憎相応アンヴィヴァレンスな気持ちは、わたしの心を乱し、落ち着きを失わせる。

 あの日、あの人がこの部屋を訪れるまで。




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