邂逅 / 回顧 / 解答

 少女は、作り物めいた美貌をそなえていた。

 肌は真珠、ひとつに束ねた髪は黒絹、瞳はエメラルドの色をして、整った顔立ちにはあどけない丸みを残している。革帯をぐるぐる巻きにした肢体はほっそりとして、唯一むき出しになった指先が、細工物のような精緻さをうかがわせる。静かなるたたずまいは、血濡れた装束さえ高貴と思わせるほどだ。

「人の少ない水場へ行きましょうか。ついてきて」

 少女はローブを拾い上げて纏い、目深にフードを下ろした。革の胸当て、頑丈そうなベルトに鋲付きのブーツ。ローブに隠れた装いは明らかに旅人のそれだ。しかし、少女はせいぜい十四かそこらにしか見えない。独り立ちしてもおかしくない歳ではあるが、神業のごとき武術の冴えに見合うはずもなかった。

「……聞いてる? あごの傷、洗わないといけないでしょ」

「あ、あぁ……すまない」

 我に返って、自分が倒れたままだと気がついた。慌てて立ち上がり、大事ないことを確かめる。あごの下が、ずきりと痛んだ。

「ありがとう、助かった。本当に死ぬかと思った。……しかし、どうして?」

 聞くのは不躾かとも思ったが、少女はまるで気にしなかった。

「声が聞こえたから。助けてって」

 何気ない返答に、思わず瞠目する。いったい今日は、どれだけ驚けば済むのだろう。

 懐から、相棒の篠笛を取り出す。丁寧に布へ包まれたそれはわずかに温もりを残していた。間違いない。あの時胸に感じた熱は、この笛によるものだ。そして、僕は助けを呼べなかった。

「やっぱり、その子の声だったのね」

 少女がつぶやいた。僕は息を呑み込んだ。

「……聞こえるのか、笛の声が」

 そういう人間がいると、聞いたことはある。生まれながらに《至高の断片》の声を聞き遂げる人のことを。

 長く探し求めた答え。それを、この少女は知っている。

「そんなところ。礼の代わりにでも、話を聞かせてくれないかしら。もちろん、その子もね」

「願ってもないことだ」

 身の引き締まる思いがした。できることなら、自分で辿り着きたかった。しかし、目の前にある答えを見逃せるほど、費やした年月は短くなかった。

 あるいは、少女も同じ気持ちかもしれない。少女はたぐい稀な人物だろうが、《至高の断片》もまた滅多に拝めない代物だ。フードの下、怜悧な横顔からは、真意を推しはかることもできないが。

 さほどもなく、古びた井戸に行き合った。長らく手入れされた形跡がなく、つるべも落ちていたが、枯れてはいないようだ。

 少女はローブを脱いで、ポーチから真鍮の器を取り出す。そこへ腹に巻いていた綱をくくり付け、井戸へ放った。即席のつるべで少しずつ水を汲んでは、返り血を拭っていく。

「あなたの演奏を聴いたの。……本当に驚いたわ」

 手を動かしながら、少女は言った。僕も同じように汲んだ水で傷を洗い、手当をする。自分の始末は自分でつけるのが旅の習わしであり、礼儀だった。

 そうしながら、固唾を飲んで次の言葉を待った。

「あんなにも嬉しそうで、満ち足りた声は初めて聴いたわ。何かの言葉に定まることもなく、旋律へ溶け込むようだった。声として聴こえてくるはずなのに、まるでそうと感じさせない。詞のない歌、って言えばいいのかしら」

 思いもよらない答えに、僕は耳を疑った。少女は構わず続ける。

「あなたたちのように固い絆を見たのは初めてよ。……人と物が分かり合う道、よければ教えて欲しいの」

「待ってくれ」

 僕は慌ててさえぎる。大きな齟齬があるはずだった。

「教えて欲しいのは僕の方だ。僕には、この笛の声を聞くことができない。この笛が奏でる本来の響き。それに辿り着くために旅をしてきたんだ」

 すると、少女はがらにもなくきょとんとした風で、小さく首をかしげた。

「……誤解があるみたいね」

 ようやく身づくろいを終えたらしい少女は、輝かしい瞳をこちらへ向けた。

「人の手による物には必ず作られた意味、生まれ持った本分があるわ。《至高の断片》も変わらない。それらが意思を、語る言葉を持つのは、それが果たされない時のためよ。だから、使われる物としての本分をまっとうできる限り、あえて口を開くことはない」

 しばらく、言葉が口へ上らなかった。少女の言うことは本当だろうか? 僕は今まで、ずっと勘違いを続けてきたというのか?

「あなたの命が脅かされたとき、その子は強く意思を示した。美しい曲を奏でるという本分を果たすため、あなたという存在が不可欠だから、助けを呼んだのよ。そうでしょう?」

 笛へ語りかける少女を前に、僕はその言葉をゆっくりと反芻した。筋はとおっているし、事実、この少女はたちどころに現れたのだ。手練れの強盗がわざわざ襲撃に選ぶような、人目のない場所へ。

「この子にとって、あなたはとても大切なの。きっと、あなたにとってもそうよね。その絆がどうやって生まれたのか、わたしは知りたい」

 少しうなだれてから、僕は口を開いた。目先のことで気を紛らしたかった。

「……この笛を作ったのは祖父だ。祖父は僕の誕生をひどく喜んで、僕が産まれたその日にこの笛を完成させて、贈ってくれた。それからすぐ亡くなったから顔も覚えていないが、僕は双子みたいに、この笛と一緒に育った」

 人生のひとつひとつを振り返るように、続ける。

「毎日のように演奏して、その度に新しい発見があった。ほどなく、祖父が《造命師》と呼ばれていたことを知り、この笛が持つ真の響きを引き出したいと思うようになった。親が亡くなってから、僕は故郷を発った。それからは、おおよそ見てもらったとおりだ」

「生まれた時から一緒で、ずっと共に過ごしてきたのね。素敵だわ」

 しみじみと僕の言葉を受け止めて、少女はどうしてか悲しそうに微笑んだ。僕は笛の包みをそっと撫ぜて、手を震わせた。

「ずっと、声を聞いたことはなかった。さっきのように熱を感じたこともなかった。僕は幼いころから、既に認められていたというのか……? だったら、僕がしてきたことは……」

 その先を考えるのが怖かった。悪いことではないはずなのに、自分の拠り所が急速に闇の中へ飲み込まれていくようで、めまいがした。

「いや、すまない。信じていないわけではないんだ。ただ、あまりにも……僕の勘違いがひどかったらしい」

 めりめりと音を立てて、その言葉が、ささやきが迫ってくる。何も意味はなかったのだと、折り重なった嘲笑が、耳をふさごうとも響いてくる。

 そうと知ってか知らずか、少女はあわれむように言った。

「無理もないわ。《至高の断片》について知る者は少ない。それに、本当の話だって、信じる理由もないものね」

 少女は言葉を切って、長いまつ毛で目を覆ってから、小さく息をついた。

「わたしの話をしてもいいかしら」

 言って、手を差し伸べてくる。唐突な握手に、少しばかり嫌な予感がした。華奢な手が、即座に仕込みナイフを握れると知っているからか。いまさら恐れるなんて馬鹿らしいと思いながら、その手を取った。

 寒気とともに、心臓が縮み上がった。

 思わず手を離して、眼前の相貌を見つめた。確かにそこに在る少女のかんばせが、わずかにかげった。あまりに自然な表情だ。でも。

 その手は、氷のように冷たかったのだ。

「わたしはね、人間じゃないのよ」

 澄んだ声が、砂混じりの風に運ばれていった。


「わたしの銘はノノラ。自分について覚えているのは、それだけ」

 真珠の肌、黒絹の髪、エメラルドの瞳。作り物めいた美貌のひとつひとつが、まるで比喩でなく、まさにその素材で形作られていた。

「寝食は必要ないし、姿が変わることもない。身体能力は人間よりずっと高いけど、代わりに損なわれた体は戻らない。できるだけ肌をさらさないでいるのは、そのためよ」

 あぜんとしたまま、その姿を見つめていた。姿といい技といい、人間離れしていることは確かだ。しかし、目の前に立つ少女、いや、少女の形をしたノノラの姿は全く人間と遜色がなかった。これほどのものが、誰かの作品でありうるのか。

「たぶん、寿命はない。壊れない限り生き続けるけれど、記憶は五年くらいしか保たない。だからわたしは、物として生まれた本分も、この手が動くわけも、壊してきた命の数も、何ひとつ知らないでいる」

 ノノラは自分の手を見つめている。その透きとおった声に乗る思いはまさしく、ひとりの人間としての懊悩に他ならなかった。

「……ごめんなさい、話しすぎたかもしれない。《至高の断片》としての言葉を受け止めてくれる人なんて、今まで心当たりさえなかったの」

 僕は静かに、その言葉が腑に落ちるのを待った。決して、軽々しく聞ける話ではない。

「いや、構わない。続けてくれるか」

 でも、この子、ノノラにはそれだけのことをしてもらったと思った。

 定まらない視線を持て余しながら、ノノラはつぶやいた。

「……どうして生まれたのか、何の為に生きているのか、わからないの」

 鈴音のような声は、今までになく震えている。

「意思ある物と交わる度に、その本分が羨ましくなる。彼らの為に尽くして、望みを叶えてあげたなら、彼らは語る理由を失って沈黙し、わたしはまたひとりになる。人と交わることもあったけれど、生きる時間の異なる彼らとは、ずっと一緒には居られない」

 ほとんど叫ぶように、悲嘆に暮れた人間がそうするように、ノノラは声を荒げた。

「でも、生きることはやめられない。どうしてか死にたくないの。あてどない旅の中、度々襲われることもあったけど、ただ、命を奪うのが上手くなるばかり。……皮肉よね。生きることを知らずに悩んでいるのに、その終わらせ方は誰よりよく心得ているのよ」

 ずっと巡らしてきたであろう言葉はとめどなく続いた。その中にふと、幻のような光明を見た気がした。

「物として生きるには、目指すべき本分がわからない。人として生きるには、そのための居場所がない。だったら、わたしはどうして生きているの」

 どうして生きるのか。その言葉が、濃い闇の中で小さく渦を成すのがわかった。

「君に会う前の僕なら、自分の生きる理由を迷わず答えられただろう」

 渦は次第に輪郭をともない、おぼろげだった足元へ、ただならぬ軌道を描き始める。それは決して確たるものではなく、しかし、そこに在ると認めざるを得ないものだった。

「でも、今の僕にはできない。追い求めていたもの、その為に生きようと思った至上の響きが、絆が、既に手の内にあると知った今は」

 そう、僕は怖かった。それを認めてしまうことが。生きる意味だと思って目指していたことに、なんら価値がなかったのだと。

「旅に出ると決めた時、幼馴染の婚約者には笛と結婚すればとあきれられた。今でも、故郷へ残っていたらどうしていただろうと考えることはある。けれど、それほどのことだったんだ。勘違いだったとしても、それほどのことだった」

 ノノラと会って、生きる意味を失くした。その事実を直視することを恐れた。しかし、同じ悩みにうなされるノノラを客観的に見ることで、冷静に受け止めることができたのだ。

 だって、彼女は僕を助けてくれた。命を救ってくれたのだ。

「生きる意味はまやかしで、取り違えたものだった。だが、どうだ? 君がうらやむような僕と笛の絆は、それで損なわれるようなものだろうか。僕はただ生きていただけで、でもきっと、僕は満足している。たくさんの音色を、ひとりとひとつで響かせてきたことに」

 ノノラが、小さく顔を上げた。彼女でも、驚くことがあるのだと知った。

「君は、僕とこの笛を守ってくれた。それは間違いなく、君がただ生きていたことによる結果だ。それを生きる意味になんてしなくていい。意味なんかいらない。でも君という生は、多くの結果を招いているはずだ。物としての本分を果たす手伝いをしたこと。かりそめながら、人の世に交わったこと。その積み重ねを振り返って、君は、それを捨てたいと思うか?」

 綺羅星のような瞳に、数々の記憶がよぎるのを見た気がした。それらをひとつずつ追う姿は、天が与えた彫像のごとく、ひときわ美しかった。

「そんなもの、わからないわ」

 ノノラは、あきれたように笑った。

「捨てようにも、捨てられないもの。そして、いつの間にか思い出せなくなっている。でも、そうね……」

 うつむいて、自分なりの言葉を編み上げていく。その糸の一筋にでも、僕の言葉はあるのだろうか。

「生きることをやめられないのも、在るがままで在ることも、そう、悪い気はしないわ。それだけで、悪いなんてことはないから」

 当然だと思った。彼女は僕とは違う。意味へすがることの虚しさを、たまさか噛み締めてしまった僕とは。だが、それもまた在り方だ。生きる意味、自身の本分を諦めずとも、それに囚われることをやめられたなら、充分に祝福だと思った。

「ありがとう」

「お互い様だ」

 どちらともなく手を差し出す。砂混じりの風が、ひっそりと鳴りを潜める。

 そうして、僕らは固く握手を交わした。

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