旋律 / 戦慄
荒野を渡って幾ばく、たどり着いた街の中心部に、僕はちょうどいい広場を見つけた。まだ日も昇り始めたばかりで、往来にはたくさんの荷馬車と人が行き交っている。立ちこめる砂と汗の匂い。人いきれの熱気が久しくて、知れず足取りが軽くなった。
宿は後で取ればよかろう。人の多い時間帯を違えるわけにはいかない。僕は邪魔にならない場所へ旅の荷物を下ろして、通りいっぺんに砂埃をはたいてから、一本の笛を取り出した。
喧噪の中で、誰彼も振り返る者はない。当然だ。旅の芸者となれば楽団が普通だし、あるいは踊り子がついていたりする。こんな行商人よりもよほどみすぼらしいなりをした、三十過ぎの男が笛をくわえたって、往来の気を引けるはずもない。
でも、だからといって僕は独りで吹かなきゃいけないし、独りでやっていけるだけの理由があるのだ。
唄口へ息を吹き込むと、砂混じりの風が凪ぐのを感じ取った。
初めは重い音色で、石畳の共鳴りをつかまえる。土の息づかいを揺さぶり起こし、踏み固めるようにして拍子を整えていく。足元で見えざるうねりが応じるのを待ってから、高音へと切り返した。
とたん、みずみずしい旋律があふれ出す。それは潮流となって宙を駆け、群衆の間で透きとおった飛沫を上げた。せせらぎが乾いた敷石をうるおし、散りばめた音の粒を次々と芽吹かせる。弾けた音色は火花のようにまたたいて、光芒とともに煙のごとく立ち昇り、砂と太陽の街へ、華やかな色彩と芳香を振りまいた。
衆目が集まるのをわずかに意識しながら、僕を取り巻くあらゆるもの、砂粒、方々から集まる物産、人々の息づかいといった存在へ慎重に寄り添い、その共鳴を引き出して編み上げていく。それは手にした笛の中で、あるいは音の届き得る場すべての中で調和し、至上の響きへと昇華した。
腕前には覚えがある。しかしこの演奏には、技術だけではとても届かない。
それぞれの残響が正しくおさまるのを聞きながら、僕はそっと唄口から唇を離す。演奏の前には見向きもしなかった人々が一様に立ち止まり、喝采をもって迎えてくれた。
その観衆へ、僕は油断なく視線を走らせる。色めき立つ人々は足を止めた行商人だったり、手伝いの小僧だったり、広場の井戸で語らう主婦だったりと様々だが、しかし、期待した反応を見せる者はなかった。
「素晴らしい、素晴らしい演奏でした」
ひとり、群衆の中から歩み寄る人物があった。恰幅のいい男は、自分とは似ても似つかない上等な身なりをして、肉付きのいい手を握手に差し伸べてきた。
「さぞや、名のある奏者とお見受けします。旅をされているようですが、どうでしょう、この街で働くおつもりはありませんか?」
こういう誘いは稀だった。交易の中継地として栄えているようだし、見世物を続けても飽きられないのかもしれない。芸者にとって、裕福な雇い主の下、安定した生活を送るのは願ってもないことだし、同じ街に留まれるというのならなおさらだ。
しかし、僕は静かに首を振ってみせた。男は、名残惜しそうに手を引いた。
「……残念。他に目的がおありでしたか」
「ええ、生憎と探し物をしている身でして、留まるわけにはいかないのです」
そう。そしてこの街では見つからなかった。さして焦る必要もないが、数日したら、また別の街へ発とう。
「よろしければご滞在の間、また演奏をお聞かせください。どうか良き旅を」
「ええ、ありがとうございます」
とはいえ、芸者の身の上で、これほどの歓待を受けることも珍しい。運が向いている。
あながち、目的の叶う日が近いのかもしれない。浅はかな希望で自分を慰めてから、僕は宿を求めて歩き出した。
演奏後の常ながら、顔も知らぬ祖父のことを思った。
祖父は稀代の職工であったという。とりわけ笛作りを好み、その才は《造命師》と称えられたほどだ。僕が携える篠笛は中でも最高の、世にふたつとない傑作である。
それは運指と息づかい次第であらゆる音色を可能とし、万物の共鳴をとらえ、たちどころに協奏を作り上げる。さらには音を通じて五感を呼び起こし、奏者には共鳴を肌で感じさせ、聴衆にはきらびやかな幻視を与える。先の演奏は、それを遺憾なく引き出した結果だ。それに、僕は大きな誇りを持っている。
けれど、僕はまだ、本来の響きを知らずにいる。
祖父が受けた《造命師》の尊称は、字義どおりの意味を持つ。卓越した工匠の作には命が宿り、意思を持つのだと。《至高の断片》と呼ばれるそれの真髄、思考を語る声なき声を、僕は聞けずにいるのだ。
(祖父の笛に見合う境地へ、僕は至るのだろうか)
笛の音でなく、声こそが僕の探し物。だが今回も、僕の演奏に齟齬を見出す者はなかった。数々の賞賛が逆に僕を追い詰め、進むべき道をわからなくさせる。
そう、僕はぼんやりと道を歩いている。諦念で、目の前も見えなくなるほどに。
背後の気配へ、気づいた時には遅かった。
瞬間、強く突き飛ばされ、受け身を取る間もなく地面へ叩きつけられる。砂で擦れた掌へ血がにじむのを感じながら、顔を上げた。
人気のない路地へ迷い込んでいた。うらぶれた建物は擦り切れた木肌を剥き出しにして、わずかに生活の臭気を放っている。そこへ、刺すような日差しを遮るようにして、男が立っていた。
「よそ見している場合か?」
蹴りが飛んできて、僕はとっさに身をよじる。脛を狙ったそれが腿を打ち据えて、たまらずうめこうとする。
しかし、それさえ許されずに。
「声を出すなよ」
手で口を押さえられ、喉元には鋭い切っ先がある。こうなれば、後ろ手に握ったナイフの柄にも、さほどの意味はない。
胸へのしかかる膝の重みに顔をしかめて、僕はゆっくりと手を上げる。これでも旅は長いので、こういう時は逆らわない方がいいと知っている。言動のひとつひとつに無駄がなく、街中で白昼堂々と襲ってくるあたり、相当の手練れだ。こういう輩は面倒事を嫌い、目的のみを優先することが多い。なりふり構わない復讐が、最悪の脅威だと知っているためだ。
「笛をよこしな」
眉を上げてうろたえる。これだけは、応じるわけにはいかない。わずかに緩んだ手の隙間から、僕は聞いた。
「……何故だ?」
「長い旅をしているお前がそう答えることこそ、紛れもない理由だろう」
そう返されては、言いくるめる余地もない。命か笛か、この男はそう問うている。
逃れようと体へ力を入れるなり息が詰まり、火花の散ったように頭が白んだ。あごの下に熱を感じて、反対に背にはびっしりと冷や汗が浮いた。
「殺して奪ってもいいんだぞ」
地獄から響くような声で、男は言った。それが本気かはわからない。しかしその恫喝と滴る血には、僕のあらゆる勇気を萎えさせるだけの力があった。
思わず、歯ぎしりをする。涙が出そうになる。一生を懸けた旅路が、ここでついえるのか。
瞬間、懐に熱を感じた。
血潮の熱と思って、固く目をつむった。しかし強く体を揺すられて、驚きに目を見張る。
「おい、何をした。言え!」
気色ばんだ声に、僕は戸惑う。傷はなかった。なら、この熱は何だ?
その時、それが舞い降りた。
男に蹴り飛ばされ、僕は顔半分を地面に擦りつけた。体がしびれて動けず、代わりに視線だけを向ける。
ひるがえった男が、何者かと対峙していた。
闖入者へ、男はためらいなく刃を突き込む。霞むほどに素早い一撃。僕にはかなうべくもない、達人の技だ。
しかしそれさえ、応じる絶技の前には児戯に等しかった。
人影は、突かれた手を腕でいなしてあごを打ち、ひるんだ隙に絡めとった男の手から、やすやすとナイフを弾き落とした。そのまま手首を極めながら、仕込みナイフで腱を切り、体勢を崩したところへ足を払って、男をうつぶせに押し倒した。
その時には、既に事切れている。いつの間に刺したとも知れないふたつの切創から、今にも血だまりが広がっていた。その人影は念を押すように、首筋を一周ぐるりと切り裂いた。
沈黙する亡骸。さっきまで命だった物の向こうで、それがゆらりと立ち上がる。
「あなた、大丈夫?」
血まみれの人影は、少女の形をしていた。
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