第7話


 テイに、正確に言うとかつてテイだった青年に会ったのは、年明けの一月四日のことだった。


 正月には兄は帰らず、両親の相手を存分にした後で、僕がファストフード店に向かった。彼は混雑する店の中で、あの時と同じく隅の席に座っていた。

「テイ」

 声をかけると、彼は急いで立ち上がった。隣の椅子の上には彼の鞄があり、あの青いマフラーは、顔を半分隠すように巻かれていた。

「あなたが、テイの言っていた人ですか」

「え?」

「単刀直入でごめんなさい。二重人格、ってご存知ですよね」

 突然何を言っているんだ、と言いたかったが、その言葉はどうしても口から出てこなかった。彼は真剣な顔で続きを言った。

「はっきり言うと、僕はテイじゃないんです。テイは……もう、いません」


 直人は僕に座るよう促すと、話を続けた。

「こんなこといきなり言われても驚くだけかと思いますけど、僕、昔、父親に虐待を受けてたんです。小さい頃のほんの一時期だけだったんですが、その父が飲酒運転で死んでからしばらくして、度々記憶が飛ぶようになったんです。夢遊病みたいに出歩いたりして、気がついたら知らない場所にいたこともしょっちゅうで。でも、本当によくしてくれる担当医の先生のおかげで、この頃はだいぶ落ち着いてきました。ここ数年は滅多に記憶も飛ばなくなったし、だから多分、もう」

 僕は息を飲んだ。目の前の誠実で優しげな青年の言葉は、とても嘘やからかいには聞こえなかった。

 彼の言っているのはつまり、テイは、だった、という意味なのだろう。だが治療が進むにつれて、人格は消え、元の直人ひとりだけが残った。そういうことになる。

「年末のことでした。朝起きて、机の引き出しを開けたら、顔写真と書き置きが見つかったんです。『この店であなたに会え』って。そんなことは初めてでしたし、きっと僕が眠っている間にやったんでしょうが、それ以外に特に異変はありませんでした。でも、年末年始は忙しくてなかなか家を出られなくて」

 どう返事をしたものかわからず、テイは消えてしまったのかと尋ねると、直人は胸に手を当てて首を振った。

「いえ。先生が言うには、人格は消えるんじゃなく、還っていくんだそうです。元々、感情はすべて僕一人のもので、でも昔の僕は、それを一人で抱えられなかった。だから僕が壊れないように、その一部を肩代わりしてくれていたのが、もうひとつの人格だった。だから彼は消えたんじゃなく、還ったんだ、って」

 彼について何か知っているかと尋ねられたので、僕は答えた。

「彼は、作家を目指していたよ」

「そうですか。奴は何か、失礼なことはしませんでしたか? してたら、代わりに謝ります。すみません」

 僕はそれを笑って流した。

「その鞄の中の、グレーのノートに書いてました」

 そう言うと、直人は鞄を開け、驚いた顔で例のノートを取り出した。彼は目を見開いて、それを読み始め、そしてやがて、その大きな瞳から大粒の涙を流しながら、困ったように笑った。

「僕にこの続きが書けると思います?」

「書けますよ。なんたってあいつは、僕と喋りながらそれを書いてましたから。こんな他人同然の僕にまで、ちゃんと真面目に話をしてくれた直人さんに、書けないわけがないです」

 直人はしばらくそれを読んでいたが、そっとノートを閉じると、こちらに差し出した。

「でもやっぱりこれは、差し上げます。これはきっと、僕に向けて書かれた物語じゃない。僕を守るために生まれてきてくれたあいつが、たったひとつだけ、自分のためだけにやっていたことが、きっと執筆だったんだと思います。だからこれは、あなたが貰ってください。きっと、身内に読まれて褒められても、あまり嬉しくないだろうから」

 僕は少しためらったが、それを受け取った。

「ありがとう」

 直人は嬉しそうに微笑むと、「それじゃ」と席を後にした。ノートをパラパラとめくっていると、後ろで、誰かの転ぶ派手な音がした。


 びたんっ。


 僕は慌ててノートを閉じ、後ろを振り返る。

 そこでは全く知らない二歳くらいの男の子が、床に大の字になっていて、「しょうがないわね」と母親に抱き起こされていた。僕と目が合うと、その子は不思議そうにしながらも、こちらに手を振ってきた。僕はハッとして笑顔を作ると、その子に手を振り返す。

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