第6話



「お前の唯一の長所は、怒らないことだ。その優しさを一生大事にするんだぞ」

 とは、両親の弁である。そして大概そのあと、

「お前には兄さんと違って、才能ないんだから」

 と続く。言い返そうと思ったことはない。いつもその通りだと思ってきた。口先で何を言ったところで、現実は変わらない。

 しかし、よりにもよってクリスマスイブの日に、僕は、その数少ない長所をドブに捨てようとしていた。


 二週間前にテイから言われて以来、ずっと僕は考えていた。もちろんはじめは、殴り合いの喧嘩なんてとんでもないと思った。けれど、バイトの時間以外は部屋で一人、何もできず天井を見上げるばかりの日々を続けていると、なぜだかテイの言葉が頭に浮かんで離れないのだった。

 テイのような人間を、エゴイストと呼ぶのだろう。

 彼の放つ言葉には常に「自分」しかなく、「他人」の理解をどこか拒否するような響きがあった。けれど僕にはそれが少しだけ、羨ましかった。

 でもテイにもう一度会って話をするためには、ああ言われてしまった以上、兄貴をぶん殴る……とまではいかずとも、せめて顔を合わせることくらいはしておかなければならないだろう。携帯の番号やSNSの連絡先も知らないので、もう、そうする以外に僕には思いつかなかった。

 そういうわけで、僕は数年ぶりに地元を出て、都内に住む兄のところに向かったのだった。


 兄のマンション近くのカフェで兄を待っている間、どうしても落ち着かず、紅茶を三杯もお代わりしてしまった。おかわり自由のカフェで助かった、と思っていると、約束の時間通りに兄が来た。

「おう、久しぶり」

 何年も会っていないのに、いきなり電話で「会えないか」と言ってきた弟を、兄は笑顔で迎えてくれた。授賞式で会った時より大人びて、小綺麗で暖かそうな服装をしていた。対していつまでものろのろと前に進めていない僕は、薄いコート姿で「ははは」と笑うことしかできなかった。

「急に会いたいなんて、どうしたんだ?」

「いや、その、まあ……」

「彼女でもできたのか?」

「いや、できてない」

「じゃ、あれか。小説のことか?」

 突然切り出され、ぐ、と息がつまる。

「え、っと。なんでわかったの?」

「だってお前がしたい話って、それしかないんじゃないのか」

「え、いや、まあ……」

「書けなくて困ってるんなら、相談に乗るからな」

「いや、いいよ……」

「いいのか? あ、もしかして、そっちじゃなくて例の話か?」

 例の話という単語に、頭が真っ白になる。そんな僕を見て、兄は困ったようにコーヒーを一口すすった。

「やっぱりそれか。あのな、アオ。昔のことをいつまでも引きずっていても、しょうがないじゃないか。世間の評価なんて、そんなに大事なことか? 大事なのは、自分が努力したかどうかだ。そうだろ?」

「あ、うん」

「悪いんだけど、今日は夜から約束あってさ」

「あ、大丈夫、帰るから……」

 カフェから出ると、女の子が兄の方に駆け寄ってきた。

「用事終わったの?」

「ああ、まあな。待たせて悪い」

「今日のクリパ楽しみだね! めっちゃ張り切ってケーキ選んだから」

「えー、楽しみ」

 すでに背中を向けていた兄は、満足そうな顔でこちらをちらっと振り返って、手を振った。

「じゃ、またな」

「あ、うん……」

 手を振り返そうとした時、あの日のテイの人差し指の感覚が、不意に額によみがえった。

 上げかけた手が徐々に下がり、やがて、完全に降りる。





『お前みたいないいやつが、夢を諦めるのを見るのは、俺は嫌だ』


















 気づけば、叫んでいた。腹の底から。

 兄と女の背中が、ピタリと立ち止まる。僕は叫ぶのをやめなかった。

「あれはお前がパクったんだ! 羨ましかったんだろ? 僕が自分だけの世界を持ってるのが、お前には気に食わなかったんだろ? 昔からそうだもんな。なんでも自分が一番じゃないと気が済まないんだよ、お前は!」

「……いきなりどうしたんだよ」

 兄が振り返った。半笑いでこちらに向かって歩いてくる。

「そんなひがみ言うなよ、アオ。お前にだって、小説を書く以外にもやれることがいっぱいあるよ。小説を書くことに比べたら、普通に働くことの方がずっと楽だろ?」

「ずっと楽? 何言ってんだ。お前にネタを勝手にパクられてから、僕は文字通り何もできないんだぞ! 僕の何がわかってそんな風に言えるんだ」

 すると兄はつかつかと歩み寄ってきて、僕の肩を掴んだ。

「そんな風に人に八つ当たりしなきゃやってられないくらいなら、作家なんてやめることだな。どうせそれだけで食っていく覚悟もないんだろう? なら、一思いにやめてしまう方が、お前のためだ。お前、ちょっとおかしいよ」

 僕はその手を振り払った。

「やめた方がいい? おかしい? ああ上等だ、小説なんてくだらない! ずっと一人で孤独に書いてなきゃいけないし、地味だし、モテないし、目は疲れるし、肩は凝るし、周りには変人扱いされるし、かと思えば、自分よりうまい作家に常に嫉妬してなきゃいけないし! 大っ嫌いだ! あんなもの地球上からなくなっちまえばいいんだ! ……でも」

 必死で歯を噛み締めたが、どうしてもこらえきれず、目からボロボロと涙がこぼれた。呼吸が乱れ、過呼吸気味になったが、必死で言葉を続けた。

「でも……でも、。いくらやめたいと思っても、僕にはいつも、書くことしか残ってないんだよ。だから、だから……頼むからもう、」

「残念だけど」

 僕の言葉を遮るように、兄は言った。僕に向けるその目は、同情と哀れみに満ちていた。

「残念だけど、やっぱりあの件は、お前の被害妄想だよ。俺はお前のネタを盗んだわけじゃない。たまたま、お前と考えたことが同じだっただけだ。アオ、あんまりこういうこと言いたくなかったけど……お前のアイデアは、誰にでも思いつくものだったよ」

「いや、兄貴はわかってたんだ」

 僕は袖で涙をぬぐい、負けじと指を突きつけた。もうヤケクソだ。間違っていたって構うものか。勘違いや被害妄想がなんだ。それで警察に捕まるわけじゃない。

「あんたはこの程度なら弟に言及されても言い逃れができるって、いちいち計算しながら盗んだんだ。だからあんな、万人受けするけど中身スカスカの話になった。僕はそれがいやだからずっと温めておいたのに、あんたはどこにでも売られていそうなそれを、わざわざ僕のネタを改悪して作った。ほんと、心底ムカついてるよ。パクられたことにもだけど、それより兄貴、あんたの才能のなさは本当に頭にくるレベルだ。それが証拠に、次に出してる本は、どれもみんな最初のとは別のジャンルじゃないか。あんなもの、名前が有名だからかろうじて売れてるだけだ!」

 そう言うと、兄の目から光が消えた。豚の死体でも見るような冷たい目でこちらに背を向け、半分振り向くと、悲しいよと言わんばかりの弱々しい笑みを浮かべてみせた。

「なあ……負け惜しみはその辺にしておけよ、アオ。言えば言うほど、虚しくなるだけだぞ」

 その言葉に、また怒りが腹の底から湧き上がってくる。が、何度か深呼吸してそれを抑える。握りこぶしをつくりながら、はあぁ、と息を吐く。

「……なあ兄貴。最後にこれだけは言わせてくれ」

「なんだ」

 瞬きをした拍子に、目に残っていた涙が、ひとしずく頬を伝った。

「兄貴がたった一回、ちっぽけな賞を取るために消費したキャラクターや物語は、僕にとっては、それまで歩んできた人生そのものだったんだぜ」

 兄は、案の定鼻で笑った。

「それは考えすぎだよ、アオ」

 そして、女と一緒に去っていった。



 帰り、人の少ない電車の中で、僕はずっと涙を流していた。窓の外では雪が降り出していた。とても寒い日だった。

  

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