第5話




 その物語は、小学生の頃からノートに書き続けていた、僕の宝物だった。


 もちろん、はじめは単なる空想にすぎなかった。誰もが一度は経験する、子供の夢を詰めた落書き。自分が楽しむためだけに書いていたそれに、明確な物語が生まれたのは、中学に上がった頃のことだった。

 辛い時やしんどい時も、その物語のことを考えているだけで救われた。

 もちろん空想に逃れているだけでは、現状は何も好転しないのだけれど、それでも物語がどう動き、どう終わるのかを考えるだけで、心に余裕が生まれた。僕はその物語は完結しなくてもいいとも思っていた。曖昧なところもかなり多かったし、無理やり形にしたら、物語の大切な部分が損なわれてしまうような気がしたからだ。

 けれど、そんな感覚はあの完璧な兄貴には、いや僕以外の誰にも、わかるはずがない。

「兄貴に言えよ。パクっただろ、このパクリ野郎、ってさ」

「言ったよ。でも、『被害妄想だ』って言われて。『盗作を疑うなんて、お前がそんなやつだとは思わなかった』って、そう言われたっきり会ってないよ。それに僕は、明確に一本の物語を書いていたわけじゃないんだ。キャラの会話の端々や、話のあらすじを書いていただけで、その一つ一つは誰にでも思いつくレベルのことではあったから、そう言われても仕方がなかったと思う。第一、兄貴が僕のノートを読んだって証拠もない。もう諦めてるよ、そのことは」

 はあ、とテイがため息をついて、僕を睨みつける。

「お前、作家やめたいの?」

「うん」

「じゃあ、他に何すんの。肉体労働?」

「それも嫌だ」

「じゃ、もう何もできないじゃん」

 何もできない。その通りだった。

 兄貴がその小説でデビューしてから僕は、抜け殻みたいにどこへもいけないし、何もする気力がないのだ。言われてみれば、全くその通りだ。考えないようにしていたけれど、結局、そういうことだ。

「なんで殴らないの、その兄貴」

「だって、僕が書けなくなったのは、僕自身の才能のせいだし……僕に才能があったら、こんなことで書けなくなったりしてないはずだよ」

「才能なかったら書いちゃダメなのかよ」

 テイは鼻で笑う。

「別にいいじゃねえか、才能なんか。ただ書きゃいい。書いたもん勝ちだ。兄貴がムカつくこと言ってきたんだから、それはそれで殴って、その上で、小説で見返してやればいい。それだけだろ」

「なんで君はそう単純なの?」

 苛立ちや揶揄を込めて言ったわけではなく、純粋にそう疑問に思った。少なくとも僕の知っている小説家志望の人間は、皆もっと小賢しくて、冷静だ。それはそうだ。人を楽しませる職業は、用意周到でなければ務まらない。

 それなのに、目の前のテイという青年からは、まるで計画性とは無縁な雰囲気しか感じられなかった。

「君は小説を書くとき、プロットを決めたり時代考証をしたり、読み返して推敲したり、しないの?」

「俺には時間がないんだ。そんなうだうだといろんなジャンル書いたり、小賢しくトリックで飾り立てたりはできない。だから書けることだけ書くしかないんだ」

 時間がない?

「それって、もしかして……何かの病気、とかのせいなの?」

「いや。体は健康なんだ。でも俺には時間がない。アオ……これは本当に親切心から言うことだが、もしお前が、盗作野郎のクソ兄貴ともう一度喧嘩をして、奴の顔面をぶん殴って、それでもまだ書けないと思ったら、またここに来い」

 テイは手を伸ばし、人差し指を僕の額に当てると、微笑んだ。

「俺は、あんたみたいにいいやつが夢を諦めるのを見るのは嫌だ」

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