第3話



 彼は目を丸くし、そのあとで、にやりと笑った。

「なんだよ。俺のファンかよ。早く言え、サインしてやるからよ」

 僕は失笑した。

「君、有名なの?」

「なわけねえだろ。冗談だよ。有名だったら今頃、高級ホテルのスイートルームで優雅に缶詰だよ」

「何年前の話してるの。今そんなことしたら、ハラスメントで訴えられるよ」

 彼はせせら笑い、コーラの蓋を外し、直接口をつけて飲んだ。

「そんなんで訴えるバカ、いるかよ」

「どんな小説を書いてるか、聞いてもいいかな」

「いいけど、お前、誰?」

 僕はちょっともったいぶって答える。

「二階堂アオ、って言ったら知ってるかな」

「……」

 マフラーの彼は、一瞬表情を強張らせたが、すぐへらっとした笑顔に戻り「あ、あー、あれね。うん。二階堂アオ。知ってる知ってる」と言うと、そそくさとシャーペンを持ち直そうとするので、慌ててその腕を掴む。

「おい、お前本当は知らないんじゃないか」

「は? んなわけあるか、天下に名高い二階堂アオ様のお名前を、ご存知ないなど……」

「じゃあ僕がなにをした人か、わかるか? 言ってみろよ」

「……」

 一度うつむき、再び顔をあげた彼の顔は、鬱陶しさと苦渋に満ちていた。

「す、スケートで優勝? とか?」

「……本当に知らないのか、僕のこと」


 それは冗談抜きに、ちょっとショックな事実だった。


 一般の人ならともかく、で僕の名前を知らないなんて。


「あー、そんな顔すんな。申し訳なかったよ。悪気はない。でも知らないんだ。あんた、誰?」

 マフラーの彼がまるきり素直に聞いてきたので、こちらから話を振ったこともあり、答えることにした。

「僕は……作家だよ。高校生でデビューしたから、そこそこ知られてるかと思ってたんだけど、どうやらそうでもないみたいだね」

 それを伝えても、彼は思ったより驚かなかった。結局シャーペンを持ち直し、書くのを再開しながら、話しかけてくる。

「へー。すげーな、売れてんの?」

「売れてるって言えば、そうだけど」

「なんだよはっきりしねえな。売れたなら売れた、いまいちならいまいち。別に悩むところじゃねえだろ」

「悩むんだよ、僕の場合」

 彼の後ろに回り、背もたれにもたれた。


 ガリガリ、ガリガリ。


 筆圧がだいぶ強いらしく、そんな音が店内に響く。ポテトが揚がったことを知らせる音と、ほのかに漂う油の匂いさえなければ、なにかの試験会場と思えなくもない。

「なんで。家が超貧乏とか?」

「兄貴がいるんだ」

 どうして会ったばかりの相手にこんなことを、と思ったが、口は止まらなかった。むしろ会ったばかりで赤の他人であるからこそ、余計なしがらみもなく、なんでも話せるのかもしれない。

「兄貴? 不良か。強請られてるのか」

「君、僕より作家向いてると思うよ。いちいち想像力が豊かすぎ」

「不良じゃないのかよ」

「立派な旧帝大の大学生様だよ。やばいくらいに頭がいいし、ルックスもいい。女子にモテる」

「だが、声変わりしていない」

「どんな奇跡なの、それ」

 思わず笑った。背中合わせで顔は見られなかったが、言った張本人もちょっと笑っていた。

「声は大事だろ?」

「そりゃ、そうだけど。ちゃんと普通に低い声だよ」

「で、お前の本の売高とその兄ちゃんと、なにがどう繋がってるわけ?」

 そう聞かれて、僕は「うーん」と上に向かってため息をついた。

って言ったら、信じる?」

「お前の心情を考えるとあまり信じたくないが、信じるしかないんだろ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る