第五話「聞いてしまった……」

 間違いなく聞こえた。いや……、聞いてしまった。


 周りの雑音で話の全貌はほとんどわからなかったけど、エロ教頭の声で確かに「拳銃」「七千八百万円」という言葉、そして最終取り引きは再来週の日曜日という重要な情報を聞き取ることができた。

 

 何か一つでもスキャンダルを掴めればいいと思っていたが、想像以上の収穫に、テーブルの下で膝が震えている。これもうスキャンダルというか、もはや事件だよね?


 羽澄は心を落ち着かせようと、まだ一滴も飲んでいないオレンジジュースに手を伸ばした。グラスに付いた水滴が、指先を冷やしてくれて、わずかに冷静さを取り戻す。


羽澄はそのまま乾き過ぎた喉を潤そうとグラスを持ち上げた時、後ろからガタンという音が聞こえた。どうやら謎のスーツ男が帰るようだ。


 やばい!


 羽澄はグラスを置くと、慌ててテーブルに顔を伏せる。別に向こうが自分のことを知っているわけではないけれど、教頭のことを知っている人物だとわかれば、海に沈められるかもしれない……。


恐怖で震える心臓の鼓動が、テーブル伝いに聞こえてくる。ああ神様、どうか見つかりませんように!

 

 羽澄は麦わら帽子のつばを恐る恐る上げると、カウンターのほうを確認した。謎のスーツ男はすでに立ち去ったようで、羽澄はほっと胸をなで下ろす。しかし、黒幕である教頭はまだ真後ろにいるので、油断することはできない。


 あれ……? もしかして教頭が立ち去るまで帰れない、とか?


 スキャンダルを掴んだ興奮と、先程のスーツ男への恐怖が混ざり合い、心はすでに悲鳴を上げていた。


 早く帰れよ、と背中で教頭に念波を送りながら、羽澄は顔をあげようとした。その時、肘がオレンジジュースのグラスに当たり、嫌な予感が頭をよぎる。


「うお!」


 羽澄は小さく叫ぶと、咄嗟に両手をグラスに伸ばした。テーブルから投げ出されそうになったその入れ物は、ぎりぎりのところで羽澄の掌に捕まえられた。が、ほとんど手づかずだった中身が、花火のように盛大に飛び散る。


「あちゃー……」 


 声を抑えながら落胆する羽澄は、絨毯に残った模様のような染みを目で追った。するとその先に、同じように色が変色している靴とスラックスが視界に入った。


「す、すいません!」


 思わず教頭がいることも忘れて立ち上がると、羽澄は相手の顔を見る前に、勢い良く頭を下げた。ぎゅっと目を瞑り、あらん限りの誠意を見せる。


「あの、その、本当に……すいません! ご、ごめんなさい!」


 そのままの勢いで、「弁償します!」と言いそうになって言葉を止めた。こんなところに来ている人物だ。ズボン一つで、一体どれだけ請求されるかわからない。もしかしたら、私がバイトをしても、返せないほどの金額を言われるのでは……。


 再び込み上げてくる恐怖心が、ぶちまけられたジュースのように心に広がっていく。あまりの恐怖に、今度は唇が震えてきた。ああ、せっかく教頭のスキャンダルを掴んだのに、これで何もかもおしまいだ。


「……君の方こそ、大丈夫?」


 突然、頭上から優しい声が聞こえてきて羽澄はぱっと顔を上げた。てっきり怒鳴られるかと思っていたので、予想外の言葉に目を丸くする。そして相手の顔を見た時、それ以上の衝撃が雷のように全身に走った。


「え……?」


 目の前には、「俳優ですか?」と聞いてしまいそうな端正な顔立ちをした青年の姿があった。


茶色味がかった髪は猫のように柔らかそうで、くっきりとした目鼻立ちと白い肌はどことなく外国人を思わせる。道を歩いていれば、間違いなく女子たちが一度は振り向く風貌だ。まさか自分が住んでいる世界に、こんなイケメンがいたなんて。


 突然の不意打ちに、羽澄は言葉を失い呆然としていた。吸い込まれそうなほど澄んだ青年の瞳に、ぽかんとした表情を浮かべる自分が映る。そんな情けない姿に気付き、羽澄ははっと我に返った。


「だ、大丈夫です! むしろ、こっちこそすいません!」


 何故だが心臓の鼓動が飛び跳ねている。身体中の熱が上がり、頭はくらくらだ。もしかしたら私、このまま倒れちゃうかも。


「服、だいぶ濡れちゃったね……」


 てっきりスラックスのことを言っているのかと思ったが、青年の目は羽澄の服を見ていた。「え?」と羽澄は自分の身体を見ると、白いTシャツがオレンジ色で染まっている。あまりにも無様な姿と恥ずかしさで、今度は羽澄の顔が真っ赤に染まる。いっそこのまま蒸発したい。


「良かったらこれ使って」


 その爽やかすぎる顔立ちをさらに引き立てる笑顔で、青年はポケットからハンカチを取り出すと羽澄に差し出した。


「大丈夫! だ、大丈夫です! 気にしないで下さい。私、このままでも帰れますから」


 そう言って羽澄は、慌てて両手を胸の前で振った。


 ああ、ほんとは自分がしなくてはいけないことを、逆にされてしまった……。後悔する間もなく、青年は微笑みながら「気にしなくていいから」と羽澄にハンカチを渡すと、そのままカフェの入り口の方へと向かった。


羽澄は声を出して引き止めようとするも、気持ちとは裏腹に言葉が喉の奥から出てこない。緊張と恥ずかしさで、指先さえも動かすことができなかった。青年がレジでお会計を終わらしてホテルから出て行く姿を、羽澄はただ黙って呆然と眺めていた。


「なんて素敵な人なんだろう……」


 ドラマや映画の世界でしか聞いたことのない憧れのセリフを、まさか自分が呟く日が来るなんて。もしかしてこれが、「運命」というやつなのか?


 しばらく立ち尽くしていた羽澄は、やっと我に返って慌てて後ろを振り返った。


いきなりのイケメンの登場で、教頭の存在をすっかりと忘れていた。さすがにジュースをぶちまけた時から気付かれてしまったのではと不安になったが、教頭の後ろ姿は微動だにしておらず、むしろさっきよりも動かない。


「……もしかして、寝てる?」


 わずかに上下する肩の動きと、前に傾いたままの頭を見るところ、どうやら本当に眠っているようだ。


「何なのよそれ!」


 羽澄は心の中で叫んだ。てっきりバレてしまったのかと、冷や汗をかいた自分が馬鹿だった。


そんな心境も知らず、エロ教頭は気持ち良さそうにすやすやと寝ている。その後ろ頭を思いっきりはたいてやりたい。


「まあ、これで帰れるからいいか……」


 羽澄は小さくため息をついて肩を落とす。とりあえず目的のスキャンダルは掴むことができた。それに、思わぬ素敵な出会いも……。


「せめて、名前だけでも聞いておけば良かったな……」


 ハンカチを握りしめる羽澄の心には、名も知らぬ青年の顔が浮かんでいた。




 翌日、羽澄は珍しく予鈴が鳴る三十分前には教室に到着していた。エロ教頭のスキャンダルに繋がる情報を手に入れたこと、そして目が眩むようなかっこいい青年と出会ってしまったこと。


高校生活始まって以来の二つのビックニュースに、一晩経っても興奮が収まらず、こんなにも早く登校してしまったのだ。


「まあでも……、イケメンに出会ったことは言わないほうが無難か」


 教頭のスキャンダルを掴みに行ったのに、ジュースをこぼして運命的な出会いをしたなんて言えば、明里にまたバカにされるだろう。


それに彼氏の件でエロ教頭に弱みを握られている沙織を助けるはずが、私まで男絡みで追い詰められるわけにもいかない。とは言っても、自分の場合は名前も知らなければ、連絡先も知らないけど……。


「まさかハンカチに名前とか連絡先とか書いてないよね……」


 いつどこで出会っても返せるようにと、自分で手洗いして持ってきたハンカチを羽澄は机の上に広げた。いかにもオシャレ男子が持っていそうな黒と茶色のチェックの柄に、右下にはブランドマークが入っている。


見覚えのあるブランドマークだなっと思って昨日帰ってからスマホで検索したら、見覚えあるどころか有名なブランドだったので、思わず腰を抜かしてしまった。


おそらくあんなカフェに来ていた人なので、ハンカチぐらい気にしないのかもしれないが、それでも自分としては余計に罪悪感に苛まされる。


「はあ……」ため息をついてハンカチを見ていると、昨日の夢のような出会いが、頭の中で勝手にリピートされる。優しそうな声も、紳士的な態度も何もかもが印象的で、思いだすだけで胸がむずむずする。あー、もう一度会えないかな……。


「お! 羽澄、今日は珍しいじゃん。こんな早くに来るなんて」

「うわ!」


 いきなり後ろから明里の声が聞こえたので、羽澄は慌ててハンカチを隠した。


「そのハンカチどうし……」

「お父さん! お父さんの借りただけだから!」


 明里の質問を途中で遮り羽澄は即答した。「そ、そうなの……」と、羽澄の過敏な反応に明里は少し驚きながらも、話題はすぐに例のスキャンダルの話しになった。


「あんたそれより、昨日の『緊急! 明日の放課後、重大発表あり!』って何なのよ?」


 そう言って明里はスマホを取り出すと、初芝オーシャンズのグループメッセージを開いて見せてきた。そこにはあのホテルの帰りに、興奮冷め止まぬ自分が送ったメッセージが表示されていた。


「もう、私や翔子が聞いてもぜんっぜん教えてくれないんだから。何かスキャンダル掴んだんでしょ?」


 その言葉に羽澄は、「ふっふっふ」とわざとらしく低く笑った。


「それは放課後のお楽しみ。ぜーったい明里もビックリするから!」


 早く喋りたい。昨日はその衝動を抑えるのが大変だった。でも、かなりのスキャンダルだけに、ちゃんとみんなには直接伝えたくて頑張って我慢したのだ。


 一人にやつく羽澄を見て、「期待させといてがっかりさせないでよ」と明里はちゃかすように言って自分の席へと戻った。


 明里め……私のことだと思って油断しているのも、今のうちだからね!


 友達の後ろ姿に無言のメッセージを送りつけ、羽澄は黒板の上の時計を見た。放課後まであと八時間。いつも以上にその時間が長く感じる。


 この日の授業は珍しく、羽澄はずっと起きていた。先生の話しはBGM程度に、頭の中は別のことでいっぱいだった。二割は教頭のスキャンダルについて、そして残り八割はあのイケメンの青年について、だ。


そのせいで授業中に当てられても答えられないばかりか、知らぬ間ににやけ顔になっていて、先生たちが気味悪がっていたらしい。


そんな話しを、五時間目の和泉先生の時に聞いて恥ずかしくなった。明里たちからは「スキャンダル以外にも何かあっただろ!」と事あるごとに疑われたが、羽澄は「ないです。何もないです」としらを切った。さすがにあの話しは……まだできない。


 待ちに待った放課後のチャイムが鳴ると、羽澄たちは足早に部室へと向かった。そしていつもの定位置に座ると、すぐさま作戦会議を始める。


「ごほん!」


 皆の注目を浴びながら、羽澄はわざとらしく咳払いをした。いよいよ、初芝女子高始まって以来の一大スクープを発表する時がやってきた。


「よ! 待ってました、ボス!」と翔子は嬉しそうに手帳を広げてペンを握った。その隣で明里と結衣も、「どんな話しが始まるの?」と興味津々の視線を羽澄に送っている。


「それではお待たせしました。わたくし初芝オーシャンズリーダーの飯田羽澄より、打倒エロ教頭のために掴んだ一大スキャンダルを発表したいと思います!」


 羽澄の言葉に三人が拍手を送る。そして真剣な眼差しを羽澄に送ると、部室は緊張感を含んだ静けさで満たされた。


 羽澄は再び咳払いをすると、三人の期待を感じながら昨日起こった出来事について話し始めた。


 エロ教頭が本当にカフェにいたこと。謎の怪しいスーツ姿の男が現れて密会をしていたこと。そして教頭の声で確かに聞いた、「拳銃」「七千八百万円」という言葉と、再来週の取り引きについてなど……。


記憶の糸をたぐり寄せて、思い出せる限りのことを羽澄は包み隠さず話した。その後に起こったイケメン青年との出会いは除いて。


 羽澄が話している間、三人はずっと黙った状態で聞いていた。途中、羽澄の説明に熱が入り過ぎて擬音語が多くなると、明里は眉間に皺を寄せて、「もう少し具体的に言ってくれない?」と突っ込みが入った。


 一通り話し終わった後も、三人はしばらくの間黙っていた。やはり、自分が掴んだスキャンダルがあまりにも衝撃的で、言葉も出ないのだろう。すると腕を組んで下を向いていた明里が、ぱっと顔を上げた。


「なんか……怪しいな」


 怪訝そうな顔をする明里に、「でしょ!」と同意を求めると、大きくため息をつかれた。


「そっちじゃなくて……あんたの話しがよ」

「え?」


 予想外の返答に羽澄は思わず目を丸くした。私の話しが? どして?


「だって教頭とそのスーツ姿の男の話しを、全部聞いたわけじゃないんでしょ? だったら会話の弾みでそんな単語を使った可能性もあるじゃない」


 明里の的を得た鋭い意見に、羽澄は「でも……」と言いつつもその続きが出てこなかった。確かに明里が言うように、話しの全貌を聞いたわけではない。でもあの謎の男が持っていたアタッシュケースと、ただならぬ密会の雰囲気は絶対に何かあるはずだ。


「んー、もう一度詳しく検証したほうがいいですね」


 まるで探偵のような口調で、翔子が眼鏡をくいっとあげて言った。


「でも、もし羽澄ちゃんが話したことが本当なら、これ以上調べるのは危ないと思うよ……」


 結衣が不安そうな目で翔子と羽澄を見る。「うーん……」と再び部室は静けさに包まれた。窓の向こうからは、運動部の活気あるかけ声が聞こえる。


「ボス。黒幕はたしかに再来週が最終の取り引きだって話しをしてたんですよね?」


 翔子が右手で顎を触りながら羽澄に聞いた。


「う、うん……それは確かに言ってたよ。時間も十五時ぐらいから始めるって」

「だったら来週の日曜日も、またカフェに現れて密会する可能性が高いはずです。それを狙って、もう一度検証するのはどうでしょう?」


 翔子の言葉に、明里がこくんと頷く。


「うーん、そうだな……もうちょっと核心的な証拠はほしいよね」


 すらっとした人差し指で唇を触りながら明里が言った。その隣では不安そうな表情で、結衣が三人のことを見ている。


「よしわかった! そしたら今度の日曜日、もう一度みんなで偵察に行こう。それであのエロ教頭がしっぽを出せば、明里だって信じてくれるでしょ?」


 羽澄は興奮した口調で、明里に顔を近づけて言った。その勢いに押されて、「まあ……」と明里が返事をする。


「じゃあ決まり! 次の日曜日は初芝オーシャンズ全員で偵察に行くこと。結衣も、今度はいけるよね?」 


 羽澄が嬉しそうに目を輝かせて視線を送ると、結衣は「う、うん……」と言って苦笑いを浮かべていた。隣では翔子が手帳を広げて、さっそくスケジュールを記入している。


 残された時間は少ない。今度こそ教頭のスキャンダルをみんなにも信じてもらって、沙織のことを助けるんだ!

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