第四話「それはスキャンダル!?」

 場違いだった……。


 目の前にそびえ立つ立派な高級ホテルを前に、羽澄の気合いは早くも萎んでしまいそうになっていた。姉のサングラスと麦わら帽子を内緒で身につけた時は、変装する芸能人気分だったが、やっぱり自分はただの庶民。こんなゴージャスな場所は似合わない。


 目的地に到着してからすでに十五分。ガラス扉一枚くぐれない自分を情けなく思いながらも、羽澄は入り口の前を何度も行ったり来たりしていた。ここのホテルは電車に乗っている時に何度も見たことがあった。


 遠くからでもわかる高級感のあるオシャレなデザインに、いつかは自分も泊まってみたいと思っていた。が、まさかこんな形で足を踏み入れることになるなんて、夢にも思わなかった。


 ごくりと唾を飲み込み周りを見渡すと、ホテルに見合う立派な服装をした宿泊客たちの姿が見える。こんな場所に毎週通っているエロ教頭は、一体どんな生活をしてるのだろうか?


 前を見ると、ホテルに入っていく男女二人組の姿が、エロ教頭と沙織の姿に見えて羽澄は慌てて首を横に振った。


ダメだ。この場違いな雰囲気に飲み込まれて、変な妄想が浮かんでしまう。両手で自分のほっぺを軽く叩くと、「よし!」と気合いを入れ直して、羽澄は入り口へと向かった。

 

 入り口の真横には凛々しい制服姿のドアマンが、出入りする宿泊客たちをお出迎えしながら、わざわざ一礼をしている。


どうしよう……こんな格好をしているが、高校生とバレやしないか? いや、金持ちの家なら学生だってこんな場所に来るはずだ。だって翔子のお姉ちゃんだってここで働いているんだから。


 入り口が目前に迫ってきた時、ドアマンが自分のことを見ていることに気付いた。ここで負けたらいけない。堂々としなければ! 


 羽澄はぴんと背筋を伸ばして胸を張ると、歩幅を大股に変えて入り口へと向かう。ドアマンは穏やかな表情で羽澄に向かって一礼をした。よし、バレてない!


 羽澄は急いでホテルの中に入ろうと、両手を勢いよく伸ばしてドアを押し開けようとした。すると指先がガラス扉に触れる前に、ドアはスムーズに左右に開く。うん……これは自動ドアだった。

 

 こんなホテルに自分が訪れる日が来るとは思わなかったが、まさか前へ習えの状態で入るとも思わなかった。恥ずかしさのあまり、全身の熱が顔に集まる。

 

 羽澄は出来るだけ冷静なフリをして辺りを見渡した。外観だけでなく、このホテルはやはり内装も凄い。


天井からは見たこともない大きなシャンデリアが吊り下げられていて、フロントには立派な大理石に金色の装飾が施されている。さらに、泥の付いたスニーカーでは踏むのを躊躇してしまう深紅の絨毯は、靴を履いていてもその柔らかさが伝わってきた。

 

 やっぱり……場違いだ。


 周りには、セレブ感溢れる服装をした紳士や貴婦人たちの姿。かたや自分は、上から麦わら帽子にサングラス、そしてTシャツにジーンズと間抜けな格好。なんだか、泣きたい気分だ。


 このままロビーでおろおろするわけにもいかないので、羽澄は目的のカフェへと急いだ。カフェは入り口を入ってすぐ左手奥にあった。いかにも座り心地が良さそうなソファが並び、その奥にはドラマに出てきそうな大きなテラス席が広がっている。


 私だって女子だ。オシャレなカフェには気分が上がる。わずかに持ち直した気持ちをバネに、羽澄は足早で入り口へと向かった。


カフェはロビーよりも少し低くなっていて、短い階段を降りると、重厚感のある大理石の音が靴の裏に響いた。入り口の右手にはショーケースが置かれていて、中を覗くと赤や黄色など色とりどりのマカロンやチョコレートが並んでいる。


「うわー、美味しそう!」

 

 危うく食べ物のトラップに引っかかりそうになったが、羽澄は「違う違う!」と言ってカフェの入り口から店内を見渡した。


時間帯のためか比較的に中は空いていて、家族連れや老夫婦、外国人の姿が見える。そして仕切り代わりに置かれている観葉植物を見た時、見覚えのある後ろ姿が目に入った。


 エロ教頭だ!


 葉っぱが邪魔して一部しか見えないが、あの特徴的な頭は変態狸に間違いない。本当にこの場所で毎週取り引きをしているんだ!


 ターゲットを見つけた興奮を必死に抑えながら、羽澄は入り口から様子を伺っていた。どうやらスーツ姿の男はまだ現れていないようだ。


「お客様は、一名様でよろしいでしょうか?」

「どうぁあ!」


 突然店員に声を掛けられてしまったので、思わず変な声を上げてしまった。入り口近くの席でくつろいでいる人たちが、怪訝そうな顔をしてこちらを見てくる。もしかしたら、今の声で教頭にもバレてしまったかも……。


 羽澄はおそるおそる前方を見ると、エロ教頭の頭は微動だにしていない。どうやら気づかれていないようだ。


「セーフ……」


 ほっと胸をなでおろす羽澄に、「あの……」と店員が気まずそうに声を掛ける。


「あ、す、すいません。一人で、一人だけでお願いします」


 挙動不審な返事になってしまったが、店員は気にすることなく「お一人様ですね」と言って人差し指を立てると、その手を広げて中へと案内してくれた。


「あ、あの……」


 店内に数歩足を踏み入れた時、羽澄は立ち止まり店員に声を掛けた。


「あそこの席でもいいですか?」


 羽澄の指差す方向には二人掛けのテーブルがあり、それは観葉植物を挟んで、ちょうど教頭の真後ろの席だった。


「あちらは喫煙席になりますが、よろしいでしょうか?」


 喫煙席か……。いつもお父さんの煙草の煙でむせている自分の姿が一瞬頭に浮かんだが、羽澄はすぐに「大丈夫です!」と返事をした。やっとの思いでスキャンダルを掴めるところまできたんだ。煙草の一本や二本で諦めるわけにはいかない。


「それでは、こちらへどうぞ」


 店員の言葉に案内されて、羽澄は初の勝負台へと向かった。


 いよいよ……初のミッションがスタートだ!




「申し訳ございません。少し渋滞していて……到着が二〇分ほど遅れそうなんです」


 小さなスピーカーの向こうから、頭を下げている姿が想像できるくらい、申し訳なさそうな声が聞こえてきた。


「ああ、別に構わんよ。こっちもゆっくりしているから」


「出来るだけすぐに向かいます」と、男が返事をしたのを聞いて電話を切った。今日は優雅な休日。時間の一〇分や二十分ぐらい許してやるか。


 スマホをテーブルに置いて、そのまま空いた右手で煙草を取り出した。愛用している金のジッポで火をつけると、ゆっくりとニコチンを体に取り込み、そして吐く。


いつもと同じ行動も、この場所にくると味わうように遅くなるから不思議だ。


 広がる煙を追うように店内を見ると、同じように優雅なひとときを過ごしている人たちの姿が見える。ここは五つ星ホテルのラウンジカフェ。


今店内でくつろいでいる人たちも、自分と同じようにかなりの社会的成功を収めた人たちなのだろう。まあ自分の場合は、ほとんどパートナーのおかげなのだがと一人で苦笑する。


 テラス席の方を見ると、若い貴婦人たちが午後のお茶会に花を咲かせていた。歳は二十代くらいだろうか。ドレスコートのような洗礼された服装には好感が持てた。


赤や青、黄色といった鮮やかな彩りに、最近見た人気のミュージカル映画を思い出す。ほら、あれだ。確かララなんとかって言う……。

 

 もう少しで思い出せそうな頭の引っ掛かりを取り除こうと、「ラ……ララ……ララ」と呟いていた時、「遅れて申し訳ございません!」と突然スーツ姿の男が視界に現れた。


皺一つないシャツに、しっかりと磨かれている黒いビジネスシューズ。たしか歳はまだ二十代後半と言っていた。


その幼い顔立ちには似合わないほどの、重厚感のあるシルバーのアタッシュケース。まるでヤクザの取り引きで使われていそうな威圧感だ。


「君、タイミング悪いよ。もう少しで重要なことが思い出せそうだったのに……」


「え」と男は驚いた顔をしてから、「も、申し訳ごさいません」とまた平謝りした。こういう素直さこそが、若者の武器になるのだろう。


「しっかし相変わらず物騒な鞄持ってくるねー。拳銃でも入ってるんじゃないの」

「はあ……前に使っていたやつが壊れてしまって、とりあえず使えそうな鞄がこれしかなかったんです。まあ最近うちの会社でも個人情報の取り扱いが一段と厳しくなってきたので、ちょうどいいと言えばいいんですけど……」


 男は恥ずかしそうに照れ笑いをして、頭を掻いている。


「今の時代、どこも大変なんだね。うちの業界も個人情報だの、何かあればすぐにセクハラだのスパルタだのって、保護者からのクレームが絶えないよ」

 

 ため息と一緒に煙草の煙が空へと舞い上がる。この仕事に就いてから三十年。一つひとつ山をのぼってきて、やっと今の地位まで築くことができた。


華の有名私立女子高校の教頭に選ばれた時は、これで毎日が楽園だと思ったが、想像と現実は違っていた。


 伝統と規律を重んじる、百三十年の歴史ある高校に通う生徒とはいえ、馬鹿な学生は馬鹿だ。髪を奇妙な色に染める奴もいれば、平気で廊下で汚い言葉を叫んでいる奴もいる。


たしかにお嬢様学校ならではの清楚な学生もいるが、今の時代それはほんのわずかだと痛感した。学校ではそう見えていても、裏では何をやっているのかわからない。


 目の前の男が資料片手に熱弁しているのを上の空で聞きながら、二本目の煙草に火をつける。もやっと上がる煙を見ていると、最近あった出来事が心の中で立ちのぼる。


 あの生徒もそうだ。二年六組の宮間沙織。


 成績優秀で生徒会も努める彼女は、見た目も可愛く教師たちの間でも有名だ。


教頭である私にさえ、廊下ですれ違った時には笑顔で挨拶をしてくれた。その嬉しさに、年甲斐もなく胸の高鳴りを覚えたほどだ。


こういう子がいるなら、まだこの仕事も捨てたものじゃないと思っていた矢先、あの事件を見てしまった……。

 

 先ほどから身振り手振りも入れてヒートアップする男とは対照的に、教頭の気分は下がるいっぽうだった。吐き出した煙のように、嫌な記憶も薄れていけばどれほど楽か。まとわりつくモヤを手で払いながら、そんなことを考える。


それでも思考は勝手に引っ張られるようで、教頭はため息まじりに煙を吐き出す。そういえば、あの日も今日と同じ日曜日だった。


 二週間前の日曜日、私は目の前の男との打ち合わせが終わると、休日を楽しもうと街へと出かけた。


普段なら、人が多い休日に出かけることなんて滅多にしないのだが、その日は私の愛読書の一つ、「魔法少女サリエルちゃん!」の新刊発売日。パートナーが同行している時に入手することは不可能なので、チャンスはその時しか無かった。


 あたかも我が子に買って帰るふりをしてレジでお会計を済まし、車を止めている近くの商業施設の地下駐車場へと向かった。これで充実した休日になる。


前回から二ケ月待った愛読書も手に入り、私は誰もいないことをいいことに、鼻歌を歌いながら駐車場を歩いていた。そして愛車のボルボが視界に入ってきた時、それを見てしまったのだ。


 誰もいないと思っていた駐車場の奥の方で、いかにも若者が好きそうなスポーツカーから男女の声が聞こえてきた。


その車から降りてきた茶髪のチャラそうな男が、見た目とは裏腹な態度で、助手席のドアを開けて優しく手を差し出す。その紳士的な態度に喜んで応えるかのように、女がぴょんと飛び跳ねて降りてきた。


 近頃の若者ときたら……。その初々しさが鼻につき、急いで自分の車に乗って立ち去ろうとした時、もう一度女の顔を見て思わず足が止まった。


白いワンピースに黄色いカーディガンを羽織ったその女は、なんと宮間沙織だったのだ!


 いつもの制服姿ではないので、一瞬自分の勘違いかと目を疑ったが、清楚な顔立ちとその眩しい笑顔で私は確信した。


 なんということだ……。まさか我が校を代表する真面目で純情な生徒が、週末に男と一緒にスポーツカーに乗っている。


 もはや私は手に持った愛読書のことは忘れて、物陰に隠れながら二人の様子を見ていた。誰もいないと思っているのか、二人は車を降りてからも、なかなか歩を進めようとはせずイチャついている。


そして汚れた男の右手が宮間の頬に優しく触れると二人は顔を近づけて、あろうことか私の目の前で……目の前で……。


「けしからん!」


 鮮明に蘇ってきた悪夢に、思わず感情が言葉になって口を出た。はっと我に返って目の前を見ると、熱弁をふるっていた男がきょとんとした表情でこちらを見ている。


「あ……あの……このオプションはお気に召しませんでしたか?」


 男は少し震えた手で、テーブルに並んだ資料を右手で示した。そこにはいかにもお得感を狙ったデザインで「今なら半額! エコカラット」と書かれたチラシがある。


「こ、今回は色のバリエーションも十六色から二十八色に増えたので、奥様が好きなピンク系の色味も選べるかと……」


 男は主人の機嫌を伺う子犬のような目をして説明を続けた。


「あ、ああ、そうだな。ピンクが選べるのはありがたい。それは……大事なことだ」


 失態を隠そうと教頭は強く咳払いをする。男は自分の提案が受け入れられたことに、小さく息を吐いて安堵している様子だ。


 危うく本来の目的を見失うところだった。五つ星ホテルカフェラウンジでの週に一度の打ち合わせ。貴重な休日の時間を割いてまで行っているのは、これから自分たちが住む新居獲得の商談だ。


 今住んでいるマンションも文句はないのだが、ここ最近、妻が「夜景が見たい」と頻繁に言うようになってきた。


てっきり私は、年々広がっていく夫婦仲を縮めようとする妻の計らいで、デートに誘われているのかと思った。が、何のことは無い。妻は単純にタワーマンションに住みたいだけだった。


聞けば自分の大好きな俳優がドラマの中で、タワーマンションの夜景を見ながら愛を語っているのが気に入ったというではないか。


普通の家庭なら、「何を馬鹿なことを言っている」の一言で終わるのかもしれない。


だが、タチの悪いことに、妻にはそれを実現させるだけの財力もあれば権力もある。それに便乗する形で生活を共にする私には、例えそれがどんなに馬鹿げていようとも、目的を遂行させる義務があるのだ。


 そんな苦労もいざ知らず、目の前の男は先ほどの提案が受け入れられたことがよっぽど嬉しかったのか、物騒なアタッシュケースから次々と資料を出しては説明を続けていた。


 その様子を見ながら適当に資料を何枚か手に取った時、忘れてはいけない重要なことを思い出した。


「そういえば、ペットは大丈夫なのかね?」


 これは非常に重要なポイントの一つだ。子供のいない我が家には、家族になって五年目になるチワワがいる。


私と妻の数少ない共通点の一つが、お互い大の「チワワ好き」という点だ。この共通点のおかげで、結婚に踏み切ったと言っても過言ではない。


 我が家でのチワワの立場は、おそらく自分以上だ。私の夕食に関しては自給自足を強いられているが、もちろんチワワは支給制。


私が夕食をまだ食べてはいないと話しても見向きもされないが、チワワの晩御飯をまだやっていないと言った時は、妻は激情して怒り狂っていた。そのあまりの凄まじさに、初めて本気で遺書を書こうと思ったほどだ。


それ以来、私の携帯は夜の七時、そして念のため朝の七時にはアラームが鳴るように設定してある。おかげで今のところ餌やりは忘れてはいないので、遺書を書いたことはまだない。


「ちょっとお待ち下さい、ね」


 そう言いながら、営業の男は手際よく資料をめくっていく。


「あ、大丈夫です! このマンションならペットも飼えるので安心して下さい」

「よし」


 これで第一関門は突破できた。残るは「お風呂にジャグジーが付いていること」「トイレに乾燥機能付きウォシュレットが備わっていること」そして……。


 教頭は営業の男と同じように、手際よく自分の手帳をめくっていく。妻は生活する上でかなりのこだわりを持っている。その条件に見合うマンションでなければ、即刻却下されてしまうのだ。


そのため普段からリサーチにリサーチを重ねて、手帳には妻の絶対抑えていなければならないポイントが細かくリストアップしている。


三六項目、四つのジャンルに分けられたこのポイントを押さえた上で妻にプレゼンテーションしなければ、「どうしてそんなこともわからないの?」と一喝され、その怒りの分だけ私のお小遣いが減ってしまうのだ。


 そんな事態は何としてでも避けなければならない。


 だから私は毎週自分の貴重な時間を割いてまで、こうやって不動産の営業マンと念密な打ち合わせを行っている。


 その後も資料と手帳とを見比べながら、教頭は男の説明に相づちを打ったり質問をしたりしていた。どうやら今回の物件はなかなか良さそうで、こだわり多き妻にも紹介できそうだ。


「ちなみに、今までのオプションを付けると価格はどれくらいになりそうなんだね?」


 一通りの話しが終わり、教頭が男に尋ねた。まあいくらになろうと、妻が気に入れば関係ないのだが、自分としてはやはり気になるところではある。


男は手元の電卓を叩きながら、ぶつぶつと独り言を言って計算を始めた。その間、切れたニコチンを摂取しようと煙草に手を伸ばすと、残りわずかになっていることに気付く。


昔は一日一箱あれば十分事足りたが、今では一箱だけでは足りない日も出てきた。これも仕事のストレスによるものか、それとも妻の圧力によるものなのか……おそらくその両方なのだろう。


「そうですね……ざっと見積もると……」


 男は計算が終わりに近づいてきたのか、私にも聞こえる声で言ってきた。そしてぱちんと電卓を弾くと、その人懐っこい顔をこちらに向けた。


「おおよその金額としては七千八百万円ぐらいです。この金額に初期費用や手数料などが加算されるので、いくらか変わりますがだいたいこの価格帯かと」

「七千八百万円か……」 


 およそ予想していた金額内に安心感が込み上げてくる。やはり妻とは違って、自分の心の根っこは庶民派なのだろう。妻の実家は資産家なので億単位の話しでも物怖じしないが、私の場合はさすがに躊躇してしまう。


「よしわかった。とりあえず七千八百万円ぐらいだと妻には話しをしておこう」


 こだわりポイントを備えた物件が七千八百円だと知れば、妻もきっと喜ぶだろう。そうなれば私も少しはチワワの立場にも追いつけるはずだ。


「それと、この物件についてはいつまでに決めればいいのかね?」

「そうですね……かなりの人気物件でして、遅くとも再来週にはお返事が頂きたいかと。もし可能であれば来週奥様も兼ねて三人で打ち合わせを行い、再来週にご返答頂くという流れはいかがでしょうか?」


 もうそのつもりなのか、男は意気揚々と胸ポケットから手帳を取り出すとスケジュール表を開いた。びっしりと記入された商談のスケジュールに、男の実力が伺える。


今まで聞いてきた物件の中では一番魅力的だったので、これを逃す訳にはいかない。来週はいよいよ本番になりそうだ。


「わかった。妻にもそう話しておこう。時間はいつもと同じで良いかね?」

「はい。ただ再来週に関しては午後に一件別のお客様の打ち合わせが入っており、十五時くらいからでも大丈夫でしょうか?」


 男が少し申し訳なさそうな表情で、手帳と教頭の顔を交互に見た。その顔が、いつも妻の顔色を伺っている自分と重なり、心の中で何故か同情してしまう。


「ああ、おそらく大丈夫だろう。一応、妻にもスケジュールは確認しておくが……」


「ありがとうございます」と言って男は深々と頭を下げると、さっそく手帳に記入し始めた。三ケ月にも及ぶ打ち合わせも、ようやく終わりが見えてきて、早くも胸の中には開放感が広がり始めていた。


まあもちろん、妻が今回の物件を気に入ってくれればの話しなのだが……。


 男はアタッシュケースに資料を詰めて片付けを始めた。先ほど生まれた開放感からか、今日は自分が支払ってやろうと伝票に手を伸ばした時、「大丈夫です!」と男が慌てて止めてきた。


「ここは私が支払いますので」

「いやー、いつもいつもすまんね」


 男が立ち上がったので、教頭もソファから腰を浮かすと右手を差し出す。商談の行く末を確かめるように、二人は固い握手を交わした。


「じゃあ再来週の日曜日が最終決定になるよう、妻にも話しを進めておくよ」

「はい! よろしくお願いします」


 男は今日一番の笑顔を見せると、深々と一礼してカウンターへと向かった。その後ろ姿を見届けながら、教頭は再びソファに座ると煙草に火をつける。


 これで妻も喜んでくれればいいのだが……。


 疲れと一緒にゆっくりと煙を吐き出す。頭をリフレッシュさせようと、陽光が燦々と降り注ぐテラス席を見た。どうやら貴婦人たちのお茶会はまだ続いていたようで、その服装と同じく会話に華を咲かせていた。


 そういえば…………あのミュージカル映画の名前は何だっけ?


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